神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

2008-09-01から1ヶ月間の記事一覧

神乃日本社に結集したトンデモない人達

戦前のトンデモ好きの弁護士というと鵜澤総明*1や三文字正平*2などがいる。神乃日本社々長を務めた中里義美もその一人であろう。同社の顧問・評議員の一部を抜き出してみると、 顧問一條實孝(公爵) 山本英輔(海軍大将) 小磯國昭(陸軍大将・前拓務大臣)…

日本国語会と仏教関係者

日本国語会の創立発起人には、500余の人が名を連ねていて、この人達のグループ分けをしてみると面白そうである。国語学者、作家、政治家、仏教関係者など。9月27日で挙げた『現代仏教』の編輯同人で日本国語会の発起人と重複するのは、同誌主幹の高楠順次郎…

露伴も傑作と褒めた弦斎の小説

『明星』10号(明治34年1月1日)所収の「露伴雑談」によると、 近頃大和田の『鐵道唱歌』が余程流行して居るさうだが、あれと弦斎の小説は明治の二大傑作だらう、批評家はさう云ふものを捉へて議論するがよい。 露伴が明治の二大傑作の一つという弦斎の小説…

『現代仏教』創刊時の編輯同人

大正13年5月1日、高楠順次郎を主幹として『現代仏教』創刊。創刊時の編輯同人を何人か拾ってみると、 姉崎正治、安藤正純、伊東忠太、宇野円空、小野清一郎、加藤智学、河口慧海、木村泰賢、黒板勝美、桑木厳翼、佐々木月樵、境野哲(境野黄洋)、志賀重昴、…

三浦関造の昭和5年における展望

三浦関造の昭和5年における動向が、『昭和五年版評論随筆年鑑』(評論随筆家協会、昭和5年4月)所収の「昭和四年度の収穫と将来の展望」で判明。 (一)本年度の主要な御著作 神性の体験と認識日本より全人類へ (二)本年度の新聞雑誌へ寄せられし主要な玉…

小野賢一郎と東京日日新聞の伝書鳩利用計画

黒岩さんの『伝書鳩』(文春新書)に出てくる東京日日新聞による菱田少将の「鳩の講演会」や「伝書鳩利用計画」。東日の記者だった小野賢一郎が関係していたらしい。『明治・大正・昭和』(萬里閣書房、昭和4年4月)所収の「鳩通信の話」によると、 (大正九…

その後の島津治子

不敬事件を起こした島津ハル(治子)に関するピンクの井上章一先生の『狂気と王権』については、6月9日に言及したところである。同事件については、保阪正康氏も『サンデー毎日』9月14日号で「昭和史の大河を往く」の「第9部華族たちの昭和史(16)」として…

東京精神分析学研究所創立期のメンバー

昭和3年に創立されたという東京精神分析学研究所。「本研究所事業案内並びに業績報告」『精神分析』創刊号(昭和8年5月1日)によると、創立者は、長谷川誠也、対馬完治、長田秀雄、大槻憲二、矢部八重吉、松居松翁、馬渡一得、酒井由夫その他。昭和8年現在の…

鴎外が弦斎に見せたかった戦争と平和

鴎外の「妄人妄語」『萬年艸』巻第九(明治36年10月31日)に、 ○戦争と平和との中のMarja Dimitrewnaといふ女には、どこやら弦斎の雲岳女史の面影が有る。弦斎にあの辺を読ませて見たいものだ。 とある。 - 国立公文書館では、10月4日から「学びの系譜―江…

藤澤親雄も悩んで大きくなった。

クリスティ『奉天三十年』の訳者矢内原忠雄が、一高の弁論部委員だった時の話。矢内原の日記によると、 大正2年1月25日 夜弁論部委員引継のため弥生亭に行く。新委員三名とも大好きなり篠原君記録、藤沢君会計、常雄さん掲示。 3月26日 藤沢君神経衰弱とかに…

自然社と三浦関造

更新文学社*1を興した三浦関造だが、自然社なる出版社とも関係があるらしい。 森本厚吉が監輯した『文化生活』4巻10号(大正15年10月)に「日本に就ての対話(全国講演旅行を終へて)」を執筆した三浦の「執筆者紹介」として、「自然社を起し、同志を糾合し…

 大正5年に神智学を語った人たち

大正5年に、神智学について語ったリシャール*1と三浦関造*2。 エロシェンコもまた、語っている。「雨が降る」『早稲田文学』123号(大正5年2月1日)によると、 −『然うです。出来ます、そして石や植物も亦た発達することの出来るものです。然し人間はきつと…

 蒼空画会と星製薬

里見とんが「中戸川吉二君に贈る」とする「春の水ぬるむが如くに」*1に、 去年の春、星製薬の楼上で催された蒼空画会で、志賀君と私との共通の友人である、同会の同人、山内神斧君と志賀君とが落合つて、たまゝゝ私の話が出た。 また、星製薬における展覧会…

 朝日新聞記者西村真次を訴えた催眠術師

森銑三の恩師であった西村真次。森の「渋川玄耳の夢想した学校」『明治人物閑話』にも登場する。 玄耳が社会部長だった頃の「朝日新聞」には、社会の各方面の問題を連載記事として取上げて、有力な記者をして取材執筆に当らせている。評判のよかったそれらの…

 元祖モダンガール望月百合子とアレキサンダー女史

石川三四郎を生涯「パパ」と呼び続けた望月百合子。森まゆみ『断髪のモダンガール』では、元祖モダンガールとしてトップに登場する。 望月は「秋田雨雀とバハイ」*1で、バハイ教への信仰を詳しく書いている。 私が女学校の四年生になった時アレキサンダーは…

オタどんと書物奉行の“爆笑ト問題”

オタどん 誕生日おめでとう。 書物奉行 ありがたう。 オタどん いくつだっけ、アラフォーかすら? 書物奉行 ほっといて(笑)。わすのことよりも、岩波新書は創刊70周年だすね。 オタどん そうそう70年前の11月20日、クリスティー著、矢内原忠雄訳の『奉天三…

 神保町の喫茶らんぼおの終焉(その2)

昭和24年6月9日消印の埴谷雄高の野間宏宛書簡*1に「ランボオ」が出てくる。 来週火曜十四日は正午からランボオで同人会をやり、二時から小山書店と野球の試合をやります。時間があれば、きて下さい。 らんぼおの閉店については、昨年11月9日にも紹介したとこ…

漱石と図書館について語る美添紫気こと森川鉉二

岩波文庫にもなっている森銑三の『書物』所収の「児童図書」に出てくる蓬左文庫主任の森川鉉二(もりかわげんじ)。 この人と昨年6月30日に言及した美添紫気が同一人物と判明。夏目漱石の日記*1明治44年5月26日の条に、 ○晩に箪笥へ唐様様模[唐草模様]の袋を…

酒井勝軍と富士山に登る竹久夢二

同時代に生きていれば、どんなに意外な組み合わせの人物の出会いがあっても不思議ではないだろう。なんせ、大東亜図書館学の書物奉行氏と大東亜トンデモ学のオタどんが、リアルで遭遇したことがあるぐらいだからね(笑 さて、明治時代に出会っているこの二人…

 『女子文壇』と岡田美知代

小谷野氏作の岡田美知代著作リストになかったので、一応補足しておこう。 明治38年1月創刊の投稿雑誌『女子文壇』に、岡田と永代静雄が投稿・寄稿している。 岡田美知代「侮辱」(4年6号、明治41年4月15日) 永代美知代「火事」(5年7号、明治42年5月15日) …

大槻憲二と恩地孝四郎

『文学者の手紙3』所収の恩地孝四郎の大正10年(推定)6月15日(消印)の浜本浩宛書簡によると、 七月創刊、「内在」*1よろしくたのむぜ。金がないので心細いんだからいいパトロンにでも紹介してくれ。作曲家の石川義一君が、同人になつてゐるんで幸だ。外…

 リシャール夫人の日本における足跡

大塚健洋『大川周明』(中公新書)に川島芳子に油絵を教えたとある、リシャール夫人。三浦関造も執筆していた『第三帝国』の85号(大正6年6月10日)に「日本の婦人諸君に!」を寄せていた。「一記者」による紹介に、 夫人は仏国人リツシャー氏の夫人で夫妻御…

森茉莉とファーザー・コンプレックス

大槻憲二が主宰した雑誌『精神分析』に森茉莉が随筆を書いていた。 1巻5号(昭和8年9月10日)所収の「細い葉蔭への欲望」がそれである。同名の作品は、早川茉莉さんが、『ユリイカ』の森茉莉特集に再録したもの(『文学』昭和11年6月号掲載)とほぼ同内容で…

『古人今人』の「知人消息」欄の資料的価値

生方敏郎の個人誌『古人今人』の「知人消息」欄を見てると、あんな人やこんな人まで登場してきて、興味深い。 キリスト教の日本的変容の一例と思われる尾島真治(昨年6月18日参照)が出てくる。 ◎尾嶋眞治君は、老来愈元気旺盛で目下著作中のもの萬葉集の宗…

 三浦関造と神智学

三浦関造と神智学の出会いがいつだったのか、難しい問題である。しかし、想像していたよりも、早かったことが判明した。三浦は石田知治の『第三帝国』*1に何回か執筆しているが、「神秘と星学(上)」(78号、大正5年11月15日)によると、 ブラバツキーが唱…

 松本健一も注目する下中彌三郎

松本健一氏も、下中彌三郎や松宮春一郎に言及していた。「下中弥三郎の思想的陥穽」(『季刊世界政経』64号、昭和53年1月)によると、 下中が『啓明』とともに、『文化運動』を刊行していることは、すでにふれたが、この『文化運動』の編集人が石田知治であ…

岡田道一博士と竹久夢二

猫猫先生の天敵、禁煙オカルティスト(笑)たる岡田道一博士。ただ者ではなかった。 『日本古書通信』昭和55年8月号の訃報欄によると、 岡田道一氏(医師・元「夢二会」会長) 七月十二日死去。九十歳。京大医学部学生時代に、竹久夢二と親交、夢二没後は「…

日本言葉の会でオタオタする平井金三

森銑三『明治東京逸聞史』には、明治43年に結成された「日本言葉の会」も出てくる。 日本言葉の会(『早稲田講演』四十四・五) 外来語はなるべく使用しないで、わが国固有の言葉を使はうといふ主旨の下に、日本言葉の会といふが出来て、神田一橋の帝国教育…

 瀧川辰郎の生没年

お待たせ(?)しました。 「青桃」氏の教示により、調べてみると、笠井鎮夫『日本神異見聞傳』(山雅房、昭和49年2月)126頁に、瀧川辰郎は終戦直後(昭和二十一年六月)に急逝したとある。今のところ、新聞、人名辞典、著作権台帳などでこの記述の確認はで…