岩波文庫にもなっている森銑三の『書物』所収の「児童図書」に出てくる蓬左文庫主任の森川鉉二(もりかわげんじ)。
この人と昨年6月30日に言及した美添紫気が同一人物と判明。夏目漱石の日記*1明治44年5月26日の条に、
○晩に箪笥へ唐様様模[唐草模様]の袋をかけて、車に積んで夫に夜具一包と、用箪笥と、針箱と鏡台を添へて美添(*)へ送る。
*原注:巌谷小波門下の美添(よしぞえ)紫気(本名、森川弦[ママ]二)のこと。以下の記述でわかるように西村誠三郎(注四11)の妹「御梅」との婚礼で漱石夫妻は媒酌人をつとめた。
5月27日の条には、
○夕方から御梅さんの媒酌人として御婿さんの所へ行く。西五軒町だから車でへ[衍]行けばたいした道程ではない。(略)其所の二軒目の小さん[な]門の処に「美添」といふ標札があつた。(略)美添さんはこゝに御母さんと、弟と妹と都合四人で住んでゐる。(略)
式は手狭だから裏でやると云ふ。(略)
○三人は又元の家へ帰つた。そこで御婿さんに合[会]つて少し話をした。おもに図書館の話をした。
西五軒町の美添とあるから、少年図書館の開設者であった美添と同一人物と見てよいだろう。美添は、後に名古屋図書館の創立時(大正12年10月開館)の職員となり、森銑三とともに働くこととなる。美添も興味深い人物だが、その義兄に当たる西村誠三郎への注によると、生活に窮して漱石から校正の仕事をもらっていたが、後に満洲に渡り満洲宣伝協会長(!)を務め、『満洲物語』(昭和17年)という著作もあるという。
美添は、松浦嘉一を漱石に紹介した人でもある。松浦は「木曜会の思ひ出」(『新思潮』2年2号、大正6年3月15日)に、
私は森田さんの「反響」を読んで、初めて、漱石山房木曜会といふ集りを知つた。(略)すると、偶然、美添絃[ママ]二さんが私を先生に紹介してもいゝと言つて下さつた。その方が私の短い原稿を読んで、それを持つて先生に御逢ひしては、とのことであつた。
と書いている。