神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

 リシャール夫人の日本における足跡


大塚健洋『大川周明』(中公新書)に川島芳子に油絵を教えたとある、リシャール夫人。三浦関造も執筆していた『第三帝国』の85号(大正6年6月10日)に「日本の婦人諸君に!」を寄せていた。「一記者」による紹介に、

夫人は仏国人リツシャー氏の夫人で夫妻御二方とも哲学、宗教等の研究家であり、又人道主義者であります。我国へは昨年初夏渡来しておいでて、はや一ケ年余を、その方面の研究に費しておいでになります。我国へ渡られる前には、印度で一年余もその方面の研究をせられたさうであり、近く支那へも渡つて研究せられる予定であるさうです。夫人は仏語は勿論でありますが、英語も充分お出来になり、サンスクリツトもお出来になります。いまでは日本語も漢字も習っておいでであるさうです。


とあった。「近く支那へも渡つて研究せられる予定」とあるが、結局、支那での研究は行われなかったようである。
秋田雨雀の日記には、夫のリシャールとともに夫人もしばしば出てくるが、次の一節は興味深い。

大正5年6月30日 竹久君に仏人リシャール夫人訪問の見合わせの電話をかける。


「竹久君」とは竹久夢二のこと。この時は夢二とリシャール夫人の遭遇はなかったが、別の機会に出会うことはあっただろうか(秋田の日記に記載はない)。


それと、昨年8月13日に言及した秋田の日記に出てくる「里見」(エロシェンコと共に秋田のところへ来て、リシャールという人がアレキサンダー女史のところへ来ていると教えた)って、まさか、あの里見?


(参考)リシャール夫人については、昨年9月4日も参照されたい。

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『東京人』10月号で車谷長吉氏が「小説の背景にある狷介と気の弱さ。 内田百輭」で

中央公論社読売新聞社に乗っ取られて、中央公論新社となった。乗っ取られた時、読売新聞社から社員が乗り込んで来て、元の中公社員は徐々に馘首になったのだそうだ。私の知人も馘首になって、嘆いていたが、元を糾せば中央公論社が戦後の俗流精神に乗ったことの結果だった。


と書いている。今時(といっても、大分前だ)、そう簡単にクビにできないが、本当の話かしら。

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半井小絵さん、夏休みから復帰。よかた、よかた。でも、どこで、誰と、夏休みを過ごしていたのかすら・・・