2006-04-01から1ヶ月間の記事一覧
5 春陽堂編集者としての仲小路彰 仲小路彰には色々な顔があるが、スメラ学塾結成の前には、春陽堂の編集者であったという。 小島威彦の自伝『百年目にあけた玉手箱』第2巻によると、 唐木順三の春陽堂版『現代日本文学序説』や富沢の長編『地中海』がきっ…
4 文化学院校長西村伊作の見たクラブシュメール クラブシュメールを主宰する坂倉準三の妻は、西村伊作の次女ユリであった。 父親の西村は、クラブについて次のように見ていた。 西村の自伝『我に益あり』によると、 私の娘ユリの夫坂倉は友人たちといっしょ…
3 知的戦士養成機関スメラ学塾(承前) スメラ学塾の終焉はどのような形だったのだろうか。 書物奉行さんの教示によると所在地の西銀座の一角は空襲による焼失地域とのことだが、その前に終焉を迎えていたようである。 『右翼事典』の巻末の年表によれば、…
3 知的戦士養成機関スメラ学塾(承前) 市河彦太郎は、外務省文化事業部第二課長。後に、文化学院の西村伊作が不敬罪で検挙され、有罪判決を受けた時、身元引受人となって釈放に尽力した人物。 石原廣一郎は、石原産業会長。マレー半島の鉄鉱石採掘、南洋資…
3 知的戦士養成機関スメラ学塾(承前) それでは、原智恵子と面識があり、小島威彦への取材も行った石川康子さんの『原智恵子 伝説のピアニスト』(ベスト新書)を見てみよう。 神田の学士会館と向かい合う共立講堂を借りて開講されたスメラ学塾は、あの小…
3 知的戦士養成機関スメラ学塾(承前) 坂倉準三、川添紫郎らのクラブシュメールと仲小路彰、小島威彦らのスメラ学塾とはどのような関係にあったのか、実は明確ではない。 しかし、その一端をうかがわせる記述が、後藤象二郎の孫、川添紫郎=川添浩史がオー…
3 知的戦士養成機関スメラ学塾(承前) スメラ学塾については、次のようなことが判明した(原文のカタカナをひらがなに改めた)。 スメラ学塾所在地 京橋区銀座西5の5(世界創造社も同じ所在地) 創立 昭和15年5月 性格 参謀本部高島[ママ]大佐、文部省国…
3 知的戦士養成機関スメラ学塾 昭和12年9月25日の内閣情報部の設置とともに情報官となった陸軍の高嶋辰彦は、14年3月、陸軍大佐として参謀本部戦史、総力戦研究課長となった後、スメラ学塾の講師や皇戦会の常務理事も務めた人物である(情報官は昭…
2 川添紫郎=川添浩史とは それぞれの団体、個人のどれもがとても興味深い。 たとえば、カールフリート・デュルクハイム伯爵は、ナチスのイデオローグ、アルフレート・ローゼンベルクが日本に送り込んだ人物であるし、堀一郎は柳田國男の三女三千の夫である…
「スメルクラブ」・・・この方が戦前の言葉らしくて、もしかしたらこちらが正式名称かもしれないが、とりあえず「クラブシュメール」としておこう。 三浦環まででてきた。さて、この調子で引用を繰り返すと、膨大な量になりかねないので、各種文献から判明し…
1 坂倉準三から始まるクラブシュメールの謎解きの旅 前川國男、吉村順三とともに国際文化会館の共同設計者である、坂倉準三の年譜に不思議な記述がある。 昭和15年 クラブ・シュメール(仲小路彰 小島威彦 深尾重光 川添史[ママ]郎 原智恵子 井上清一 ハー…
兄の高木も後に資生堂に入社することになるが、意外なところでその名前に出会うことができる。 昨年刊行された佐野眞一の『阿片王』である。 同書には、里見甫の秘書役であった梅村うた(男装の麗人梅村惇の義母)の内縁の夫として登場する。 高木は、昭和1…
柳田國男をめぐる人間像には、色々謎が多い。 『柳田國男写真集』(大藤時彦・柳田為正編。昭和56年3月)中「父と写真」(柳田為正)から引用すると、 昭和初年のころ日本写真会会長だった福原信三氏とも父はまんざら無関係ではなかったようです。という…
三村の書には、様々な「新猶主義関係の人々」が登場する。 伝書鳩の研究から、秦氏ユダヤ人説を提唱した日下部照を紹介しよう。 氏の研究によれば、山鳩は日本島に発生した所謂「日本鳩」であるが、神社などにいる所謂「宮鳩」は渡来種だというのである。 (…
小磯国昭って、知らないって? これだから、戦後生まれのバカ者、じゃない若者は・・・ おっと、わすも、戦後生まれだった(汗 小磯は、昭和19年7月から20年4月まで、内閣総理大臣。東京裁判で終身禁固となり、昭和25年巣鴨プリズンで死去。享年70…
伝書鳩については、黒岩比佐子さんの文春新書『伝書鳩−もうひとつのIT』が存在するので、詳しくはそちらを見ていただくとして、同書にも書いていないネタを紹介してみよう。 1 反ユダヤ主義者と伝書鳩 『伝書鳩』には、「大戦終結後の1919年、以前の失…
『広瀬川の畔』(昭和14年。『相馬愛蔵・黒光著作集5』(平成8年)所収』から。 押川[方義]先生の門下は、島貫[兵太夫]さんを初めとしてみな優秀な人ばかりでしたが、中にも酒井勝軍は均整のとれた美事な体格、立派な容貌で、音楽が好き、讃美歌をうたう…
『日本エスペラント運動史』により、終戦後のエスペラント学会を見てみよう。 昭和20年12月16日の第32回大会では、大阪のエスペラント有志から、書面で「エスペラント界での戦争責任の調査とエスペラント運動弾圧者の追及」について提案がなされ、藤澤などの…
『無想庵物語』(山本夏彦著)から。 ここで無想庵は朝日のベルリン特派員黒田礼二(明治23年生)をはじめ、この地に滞在中の日本人の多くに紹介された。(中略)佐野学、麻生久と並んで独法の三羽烏といわれた秀才だとは聞いていた。はじめ「満鉄」にはい…
明治39年7月の日本エスペラント協会第2回例会を見てみよう。 堺利彦、大杉栄らに加え、丘浅次郎や和田萬吉(東大図書館長)が出席している(『日本エスペラント運動史』に拠る)。同書では、和田の名前はこの一度しか出てこない。初期のエスペラント運動…
近く岩波現代文庫から刊行される南博『日本人論』には、このブログでおなじみの人物が登場する。 独自の精神分析学の角度から日本人の優秀性を「科学的に論証」したのは、大槻憲二の『科学的皇道世界観』である。 ユニークな日本人優秀論を提唱した漢方医中…
再び、時計の針を戻して、明治39年をのぞいてみよう。『日本エスペラント運動史』によると、 1906年(明治39年)9月28日、日本エスペラント協会は第1回大会を東京神田美土代(みとしろ)町青年会館で開催した。大会の様子を当時の協会機関誌の記…