お待たせ(?)しました。
「青桃」氏の教示により、調べてみると、笠井鎮夫『日本神異見聞傳』(山雅房、昭和49年2月)126頁に、瀧川辰郎は終戦直後(昭和二十一年六月)に急逝したとある。今のところ、新聞、人名辞典、著作権台帳などでこの記述の確認はできない。
瀧川の生年については、大正6年7月21日読売新聞朝刊四面に、安田銀行員瀧川辰郎(26)が、貴族院議員若槻礼次郎夫妻の媒酌で、元満洲安東県採木公司理事長林学博士村田重治の令嬢操(19)と、同月1日日比谷大神宮で結婚式を挙げたことが記されているので、これにより推定できる。瀧川は東京高等商業学校卒、妻は名古屋高等女学校卒という。
笠井によれば、瀧川は島根県生まれで、大正4年東京高等商業学校卒。大正7年大本教へ入信した妹を連れ戻すため、綾部へ行ったところ、ミイラ取りがミイラになってしまったという。大本にとりこまれたインテリの一人だったのだね。
中村古峡の『変態心理』にも、「小熊中村両文学士に答ふ ゼーゲル夫妻の霊交術批判を読みて」(16巻6号、大正14年6月)、「再びゼーゲル夫妻の霊交術に就いて」(17巻2号、大正15年2月1日)を執筆している。書誌鳥さん(森洋介氏)、なんか知らないかしら。
(参考)「くうざん、本を見る」
追記:瀧川資言(本名・亀太郎)と関係があるのかもしれないが、不詳。『島根県人物事典』によると、瀧川亀太郎は、明治12年松江中学校に入学し、同期生の若槻礼次郎と首席を争ったという。
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『図書』9月号に、四方田犬彦『日本の書物への感謝』が10月30日発行予定とあった。
『月刊現代』10月号の「本のエッセンス」に猫猫本の紹介あり。しかし、「猫猫先生のたたり」(笑)により、休刊となるらしい。