神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

その後の島津治子


不敬事件を起こした島津ハル(治子)に関するピンクの井上章一先生の『狂気と王権』については、6月9日に言及したところである。同事件については、保阪正康氏も『サンデー毎日』9月14日号で「昭和史の大河を往く」の「第9部華族たちの昭和史(16)」として、「宮中をゆるがした島津治子元女官長不敬事件」を書いていた。井上氏や保阪氏が引用している木戸幸一の日記をわしも見てみた。

昭和11年9月12日 十時、内藤警察部長来室、島津治子の件につき其後の情況話あり。此件は神政竜神会の矢野[祐太郎]、天津教にも関係ある模様なり。島津は矢野とは五、六回も会見せり−島津は将来自分が再び女官長となり、山本[英輔]大将が侍従長となる等と述べ居ると云ふ。
天津教(竹内巨麿)の所謂神宝は、秦[眞次]中将の手にて遊就館松田[常太]館長に其の保管を托したりと云ふ。


注:[ ]内は校訂者による。

一番面白いのは「島津治子聴取書」だが、長いので省略。治子の名前が最後に出てくるのは、昭和12年9月22日の条で、「二時半、水池事務官来庁、島津治子退院云々(略)等の話あり、懇談す」とある。この後の治子の名前は、酒井勝軍が死亡した時の『神秘之日本』の酒井追悼号に「弔問弔詞を賜はりたる御芳名」に、山本英輔とともに見ることができる*1。不敬事件による検挙にも懲りず、竹内文献関係者との交流を続けていたのであろうか。


(参考)3月29日朝日新聞昭和45年2月16日(夕刊)によると、治子は同月14日老衰のため、鹿児島市の自宅で死去。92歳。


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いつのまにか、 諏訪春雄・高田衛編著『復興する八犬伝』(勉誠出版、2008年2月)に「『南総里見八犬伝』総論」を書いていた猫猫先生

*1:ググったら、このことは、既に「http://blogs.yahoo.co.jp/rhbrw346/24276066.html」で言及されいた。