神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

藤澤親雄も悩んで大きくなった。


クリスティ『奉天三十年』の訳者矢内原忠雄が、一高の弁論部委員だった時の話。矢内原の日記によると、

大正2年1月25日 夜弁論部委員引継のため弥生亭に行く。新委員三名とも大好きなり篠原君記録、藤沢君会計、常雄さん掲示


    3月26日 藤沢君神経衰弱とかにて此の度の試験をうけず鎌倉へ行くとのこと、余の心をいたます事大なり。同君には始めより心をひかれき、さればこそ後任の委員にも推挙しつれ。(略)あゝデリケートなる感情と、堅固なる意力!藤沢君、お互にこの二者を兼ね有せんことを欲したまはずや。


矢内原の「弁論部部史」によると、
第13代委員(明治44年度) 小林正一郎、岡上守道、奥秋雅則
第14代委員(明治45年度) 井口孝親、稲垣長悟郎、矢内原忠雄
第15代委員(大正2年度) 篠原文治、藤沢親雄、金沢常雄


矢内原が「始めより心をひかれ」た藤沢君は、藤澤親雄の事だったのだね。後に国民精神文化研究所思想統制にかかわる藤澤もこのころは悩み多き青年だったのだ。それと、後にクロポトキンレーニンをもじり黒田礼二と名乗る岡上と藤澤は、一高弁論部の先輩後輩の間柄だったことになる。


(参考)藤澤と岡上は、新人会(ただし、藤澤が本当に新人会員だったかは疑問)、日本エスペラント学会(昨年1月2日参照)、日独同志会(一昨年3月14日参照)、国際政経学会などでも行動を共にすることとなる。