神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『高楠順次郞と近代日本』(吉川弘文館)の真名子晃征「雑誌『現代仏教』に見る高楠順次郞の交友関係」への補足


 武蔵野大学高楠順次郞研究会編『高楠順次郞と近代日本』(吉川弘文館、令和6年11月)の石上和敬「序文」によると、高楠の日記が公刊予定とのこと。

(略)筆者からは、近々公刊予定の「高楠日記」を是非、ご一読されることをお勧めする。同日記は、大正九年(一九二〇)以降の一三年分の自筆日記であり、大方の記述はメモ程度のものであるが、面会した人物名などがかなり詳しく記されている。(略)

 スメラ学塾が創立された昭和15年以降の日記が含まれていないのは、残念である。高楠については、スメラ学塾を主宰した小島威彦や仲小路彰らとの接触があったのか、なかったのか以前から気になっている。本書の大澤広嗣「知識人と南方ブームの時代ー最晩年の高楠順次郞ー」でも昭和17年6月20日文部省主催の南方宗教講座で行われた高楠の講義「大東亜共栄圏の文化と宗教」において、スメル民族と「日本も太古から直接交渉があつて、太陽崇拝であり言語が似てゐるからスメル民族とスメラ民族は同族であると言つてよい」旨の発言があったことが紹介されている。また、「東大の博士論文に「神保町系オタオタ日記」登場ーー鈴木聖子『「科学」としての日本音楽研究』にスメラ学塾ーー - 神保町系オタオタ日記」の注で言及した田辺尚雄『東洋音楽史』(平凡社、平成26年12月)の植村幸生氏による校注(4)では、「晩年の高楠は「スメラ学塾」の一員となり」とされてしまっている。このため、高楠とスメラ学塾一派とのまさかの接触の有無に注目するわけである。
 もう一つ、高楠日記で注目するのは、松岡譲が雑誌『現代仏教』の編集人を辞めた経緯である。『現代仏教』は、高楠の息子正男が社主を務める大雄閣書房から大正13年5月に創刊され、高楠が主筆を務めた。高楠と松岡の関係は、本書の真名子晃征「雑誌『現代仏教』に見る高楠順次郞の校友関係」で扱われている。同誌第100号(昭和8年1月)から第114号(昭和9年5月)まで編集人を務めた松岡が辞任した理由について、

(略)高楠からは雑誌編集について「いかやうにでもやつてくれ、一切合財まかせて全然異議はないから」と一任されていたことを、松岡は辞任する際に明かしている(34)。松岡に対する全幅の信頼がみてとれる。それに対して松岡も真摯に応えた。松岡が編集担当を辞した理由は、熱心になれなくなったというものであった。(略)

(34) 辞任の経緯や、その際の関係者とのやりとりが、松岡譲「編集辞任の言葉」(『現代仏教』一一六、一九三四年、七月号)に詳細に記されている。

とされている。
 松岡が『現代仏教』第116号(昭和9年7月)61頁~65頁に書いた「編集辞任の言葉」は国会デジコレで読める。一部を引用しておこう。

(略)「明治仏教の研究回顧」なる本誌十周年記念特大号を六月に出す迄、私は熱心に編集に従つた。特大号を出して了うと、私は不熱心になつた。
 俗にいへば見切りをつけたといふ気持で、これは自分がこんなにも打ち込んでやつて見ても、それだけの効果をあげる事が出来ないのみか、かへつて熱心になればなる程経営者の高楠君に迷惑をかけるばつかりだし、そんなこと言つてだら\/不本意な事をやつてるのでは、自分としてもやり甲斐がない。(略)

 しかし、実は松岡は後年の回想で、まったく異なる辞任理由を述べている。中野信吉「作家・松岡譲への旅」(林道舎、平成16年5月)305・306頁で紹介されている『テニスファン』終刊号(テニスファン社、昭和17年10月)*1の「創刊前後ー終刊と聞いて、思出す事二三ー」である。ここで松岡は、『テニスファン』の創刊(昭和8年10月)の編集を引き受ける前に務めていた『現代佛教』の編集人を辞めた事情と経過について、次のように書いているという。

(略)ところが私が半年程そこへ顔を出して、懸命にプランをたて、第一線に乗り出して見ると、その社の懐加減も目に見えてよくなり、世間の信用も恢復し出して来た。すると社主がいゝ気になつてダンスに凝り道楽を始める。しかも社員にはロク\/給料もやらないといふ御乱行が再発して来た。もと\/私は手弁で、タクシー代まで出して、全くの奉仕をしてゐるのだから、再々諫めるがきかばこそ、かへつて私が目の上の瘤になるらしいので、さういふ道義貞操のない人とは性格上到底一緒にやつて行けないので、断然身を引いてしまつた。」

 松岡が「編集辞任の言葉」に書いた内容とは随分異なっている。松岡が辞任してから8年後の回想なので、記憶違いや自己の美化もあるのかもしれない。高楠日記で昭和8、9年頃の高楠の状況が分かれば、どちらが正しいのか分かるかもしれない(ただし、公刊される日記は、昭和7年分までのようだ)。ただ、真名子論文は「高楠の人物ネットワークをより立体的に把握するために、「高楠日記」を用いて」いるので、「編集辞任の言葉」を覆す記述はなさそうではある。いずれにしても、高楠日記が早く公刊されてオタどんにも読めるようにしてほしいものである。
追記:『宗教研究』第80巻別冊(日本宗教学会、平成28年3月)の石上和敬「高楠日記を読み解くー高楠順次郞と本願寺との関係についてー」によると、13年分の日記とは、大正9、14、昭和2、3、6、8~15年の13年分であった。これは、益々楽しみ。

*1:秩父宮記念スポーツ図書館が所蔵している。