神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

2008-12-01から1ヶ月間の記事一覧

里見とんとカフェー

ライオンにいる里見とんについては、4月4日に言及したので、別のカフェーと里見を披露しよう。荷風の『断腸亭日乗』によると、 大正10年9月14日 (略)独食事をなし有楽座久米氏を訪ふ。松山画伯里見醇[ママ]とプランタン酒亭に至る。 「久米」は久米正雄で…

里見とんと村井弦斎

里見とんも村井弦斎を読んでいたようだ。里見の自伝的小説「二十五歳まで」に弦斎の『飛乗太郎』(春陽堂、明治30年7月)が出てくる。 私と同年の信三といふのが土地の小学校に出て居た。私はこの小年が学校からヒケて来るまで、家で独りでぐづぐづして居た…

大アジア主義とアニー・ベサント

神智学者アニー・ベサントの死が『大亜細亜主義』1巻8号(昭和8年12月1日)の「印度情報」欄で報じられている。 アンニ・ベサント夫人逝去 愛蘭婦人にして、自由主義的立場より、印度自治に同情し、かつては印度国民会議々長をつとめたことあるアンニー・ベ…

『心』とクラブ関東の小島威彦

小谷野敦氏の里見本に、安倍能成を中心として組織された生成会が、平凡社を版元として昭和23年7月に創刊した雑誌『心』が出てくる。それで思い出したのだが、小島威彦が事務局長を務めたクラブ関東から『心』に資金援助されていたことが、野上彌生子の日記に…

芹沢光治良と小田秀人

勝呂奏『評伝芹沢光治良』(翰林書房)に、小田秀人が出てきた。 昭和五年十一月三日に発会した心霊研究をする菊花会に芹沢が名前を連ねていたことが、小田秀人の『四次元の不思議−心霊の発見−』(昭和46・2刊)に見える。小田は第一高等学校の先輩で兄の真…

里見とんが愛した藝者「小錦」(こきん)・「お君」

大正9年前後の里見とんの動向を『中央文学』の「最近文壇消息」で探ってみると、3年9号(大正8年9月1日)には、 目下『時事』に小説『今年竹』を連載して居るが、其の中に小錦と云ふ名前の藝者が出て居る、之は里見君が馴染みの赤坂の好い人そつくりだとのこ…

図書館絵葉書も蒐集した宮武外骨

書物蔵さんが最近うつつをぬかす「おにゃのこ」(笑)、じゃなかった、「図書館絵葉書」。 絵葉書コレクターでもあった宮武外骨のコレクションには図書館絵葉書が一式揃っているらしい。金丸弘美編『宮武外骨絵葉書コレクション』(無明舎出版、1997年7月)…

谷崎潤一郎の偕楽園の会と里見とん

鏡花全集別巻(岩波書店、昭和51年3月)に収録されている山内英夫(里見とん)宛の書簡下書によると、 今朝谷崎君より電話にて例の階[ママ]楽園の会今夕相催したくあなたと阿部さんの御都合きゝあはせくれとの事にて唯今会社の方へ電話にてたづね申候ところ…

志賀直哉と里見とんが和解するきっかけとなった第一作家同盟展

星製薬において開催された展覧会を幾つか紹介してきたが、『大正期新興美術資料集成』によると、大正11年10月1日から同月10日まで開催された第一作家同盟展も星製薬で開催された。この展覧会だが、絶交していた志賀直哉と里見とんが和解するきっかけの場とも…

絵葉書雑誌の女記者

明治44年『絵葉書世界』に井出百合子という女記者がいた。彼女については、1月10日に紹介したところであるが、同一人物かもしれない女記者が、同年の市島春城の日記に出てくる。 明治44年9月25日 絵はかき雑誌女記者来る。二、三の材料を与ふ。 11月9日 絵は…

平塚らいてうと掌波療法

平塚らいてうの年譜(『平塚らいてう著作集 補巻』)にアヤシゲな記述があった。 昭和14年 中山貞子を識り、掌波療法による治療を受ける。これを機縁として掌波療法を修得す。 - 猫猫先生を怒らせた(?)鳥越碧さんが「「花筏」こぼれ話」(『本』1月号)を…

毎日電報記者管野須賀子と跡見花蹊

2月号の『彷書月刊』は、特集「己れを飾らず偽らず 管野すがのみちくさ」であった。同号にも掲載の年譜によると、管野は、明治39年12月21日に発刊された「毎日電報」の社会部記者となったという。まさしくその日の跡見花蹊の日記に管野が出ている。 明治39…

新聞記者にはならなかった催眠術師足助素一

大正4年4月10日付け足助素一の源二郎・義雄宛書簡(『足助素一集』所収)によると、 催眠術が頗る上手となつた。先年札幌に来て居た坂本某などのしたことは幼稚なものだよ。 プランセツトを使つて僕将来の運命を卜せしに僕ハ五月より神戸にて新聞記者たるこ…

都島のサンカと志賀志那人

岡田播陽『大衆経』(昭和5年6月)に一文を寄せた一人*1、志賀志那人は、大阪市立市民館の初代館長であった。森田康夫『地に這いて 近代福祉の開拓者・志賀志那人』には、志賀の日誌が収録されているが、その大正13年12月30日の条によると、 都島橋下山窩の…

森鴎外の見た「うさぎ屋誠」

柴田宵曲の「兔屋」(『煉瓦塔』所収)によると、 明治年間には講談本を出す兔屋といふ本屋があつた。鴎外の「心頭語」といふ文章を読むと、新聞に講談を連載することを論じた一節があつて、「兔屋一流の書體」とか「兔屋物」とか書いてある。今は殆ど忘れら…

戦時下の里見とん再び

『日本文学報国会・大日本言論報国会設立関係書類 上巻』には、情報局第五部第三課起案の「社団法人日本文学報国会設立経過並ニ仰裁ニ関スル件」が収録されている。13頁を見ると、昭和17年5月下旬開催予定の日本文学報国会設立総会の式次第が記されている。 …

スメラ学塾ブーム来るか

今年スメラ学塾について言及していた文献 ・昆野伸幸『近代日本の国体論 <皇国史観再考>』(ぺりかん社、2008年1月)・・・ただし、スメラ学塾に言及した箇所は、「吉田三郎の<皇国史観>批判」『日本思想研究33号』、2001年3月を再構成したもの。 ・長谷…

神保町の喫茶らんぼおをぶっ壊した寺田透

猫猫ブログの「駒場学派の歴史(3)」にも出てくる寺田透は、神保町の喫茶「らんぼお」をぶっ壊したことがあるらしい。埴谷雄高「酒と戦後派」*1によると、 いま寺田透は東大教養部の先生として穏和な方でこそあれ、決して破目をはずす酔つぱらいではない。…

河竹繁俊も霊気療法

坪内逍遥の日記にも、霊気療法が出てた。 昭和9年6月30日 河竹、服部と打合せて来/(略)/河竹は翌日露木を引上げて双柿舎に寄寓し、専ら介抱に従事す、霊気療法を試みなどして 服部は帰京す 7月9日 此日 河竹帰京 河竹繁俊が「私の履歴書」に書いていると…

皇国運動連盟関係者の公職追放

皇国運動連盟やその後身皇国同志会・皇国運動同盟に関与し、戦後公職追放となった人については、11月26日に言及したけれど、漏れていた人が多いので追加。 山田孝雄:本来「よしお」と読むようだが、『公職追放に関する覚書該当者名簿』では「たかお」と読ん…

イブラヒムと宇都宮太郎

最近出た小松久男『イブラヒム、日本への旅』(刀水書房、2008年10月)は、最近の研究成果を取り込みつつ、わかりやすく書いてある好著である。ただ、「イブラヒムは一切明かしていないが、滞在中の彼の面倒を見ていた日本のしかるべき個人あるいは組織が存…

やまと新聞記者山本実彦と宇都宮太郎

宇都宮太郎の日記は、軍部による資金援助の実態がわかり、非常に役に立つのだが、そういうキナ臭い話ばかり出てくるわけでもない。例えば、後に改造社を創業する山本実彦が、やまと新聞記者として登場する。 明治42年11月24日 やまと新聞記者山本某、(略)…

ジンギスカンになりそこねた男松本君平

松本君平が蒙古独立運動を画策したことは、ma-tango氏*1もふれていたが、宇都宮徳馬の父太郎の日記に出てくることは知られていないであろう。 『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記2』(岩波書店、2007年7月)によると、 明治45年6月1日 中井喜太…

加藤周一と辰野隆

加藤周一については御専門の(?)「sheepsong55氏」にまかせておけばよいのだが、『羊の歌』に戦時中の辰野隆の言動が出ているので記録しておこう。 (略)辰野教授は、大声一番、「ぼくは大東亜戦争大賛成だ」という、「ただし・・・」。その「ただし」の…

オタどんと書物奉行ふたたび−柳田國男『炭焼日記』最大の謎に迫る−

オタどんと書物奉行の「ト問題コンビ」が帰ってきた。「七瀬ふたたび」と違って、帰って来なくてもいいという話もあるが、お付き合いのほどよろしく。 書物奉行 ん、オタどん難しそうな顔をしてるだすね。 オタどん うん。柳田國男の『炭焼日記』昭和19年1月…

猫猫先生も言及していた大槻憲二

小谷野敦『すばらしき愚民社会』に大槻憲二が出ていたとは。 (略)昭和初年から大槻憲二という人は『精神分析社会円満生活法』とか『精神分析新しき立身道』とか『精神分析性格改造法』とか、実用書めいた本をたくさん出していた。 なお、「初年」とはこの…

讃・『編集者 国木田独歩の時代』

角川財団学芸賞を受賞した黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)への姜尚中氏の選評が、『週刊読書人』12月12日号に載っている。御本人からは書きづらいかと思うので、わすが引用しちゃう。 黒岩さんの作品も本当に素晴しい作品で、大学の外で…

神保町のオタ風雲録

『本の雑誌』は多分買ったことはない。いや、SF冬の時代特集号は買ったかもしれないが、手元にはない。 改訂新装版の出た目黒考二『本の雑誌風雲録』の元版は何度読んだかわからない。改めてパラパラ見てたら、誰ぞ(書物奉行氏のことだ)に、ん十年前出会…

エロシェンコと武者小路実篤

武者小路とエロシェンコは出会っている。大正5年7月2日の武者小路の秋田雨雀宛書簡によると、 一昨日は失礼しました、嬉しく思ひました、君によつて紹介されたワシリイ・エロシェンコ氏に多くの厚意をもつてをります。 時期的にポール・リシャールにも出会っ…

ハーバート・パッシンと生田正輝

GHQのハーバート・パッシンについて、生田正輝慶應義塾大学名誉教授が『回想五十年慶應義塾と私』で書いている。 助手になって暫くして、米山先生や経済学部の助手であった福岡正夫君と共に、GHQ(連合国軍総司令部)のCIE(情報教育局)社会調査部…