文藝
便利な本があった。かわじもとたか『装丁家で探す本 古書目録にみた装丁家たち』(杉並けやき出版、2007年6月)によると、里見とんの本で恩地孝四郎により装幀がされたのは、『白酔亭満[ママ]記』感想小説集6 大正13年 新潮社 『里見弓享集』千部 昭和4年 春…
青木正美『古本商売日記蒐集譚』によると、青木氏が所蔵する秋庭俊彦の日記に、 大正5年9月28日 K子の家から帰つて、F君の家にゆく。谷崎、広津、永代、光田[ママ]氏等来る。夜みんなでトランプをする。 とあるらしい。この頃、秋庭は相馬泰三と三浦半島の…
昭和6年7月12日〜11月8日 (英訳・尚紅蓮)「安城家の兄弟」 10月1日 <腕輪>(とんだ衣裳哲学) 7年1月1日 <総論>(誌上恋愛大学) 4月17日 (英訳・尚紅蓮)「夜桜」 9月→8月1日 「一家風」 8年6月→8月1日 「渦心」 9年6月3日 <モデル問題で喧嘩>(兄…
里見とん詳細年譜の昭和3年の項に「この年、「タイガー」にいたお夏(高崎雪子)が銀座にバー「ルパン」を開業、弓享はパトロンではないかと書かれる」と出てくるカフェ・タイガー。里見とこの銀座にあったカフェーについては、酒井眞人『カフエ通』(四六書…
永井荷風の生誕130年・没後50年ということで、『荷風全集』第二次刊行。新たに別巻一巻(補遺二 資料篇)を増補し、新資料・研究資料を収めるとのこと。 25日発売の『文学』3・4月号も「永井荷風没後50年」特集で、十川信介「荷風の私がたり」、菅聡…
筒井康隆『乱調文学大辞典』によると、 たにざき-じゅんいちろう【谷崎潤一郎】佐藤春夫に「思想なき芸術家」と評されて以来、それが彼への世評となってしまった。ぼくが作家になったのはこのことを知り、ぼくの大嫌いな「思想」がなくても芸術家にはなり得…
『女性』大正13年7月号に「女性フォトグラム」という企画が掲載されていて、里見とんが撮ったと思われる女性の写真「或る女」が掲載されている。キャプションとして、里見は 時。大正十一年夏八月。 所。相州鎌倉長谷××氏仮寓の一室。 人。□□氏の愛人、某女…
里見とん伝に大正9年末『人間』の編集から降り、大阪毎日新聞の記者となった野村治輔なる人が出てくる。この野村が、喜多村緑郎の日記に出てきた。 大正15年10月14日 風月でカフエーをのみたいと、川口が云ふので、軽るい料理を少したべて、そこを出る、サン…
小谷野とん氏の里見とん伝によると、里見は「編輯者や、出版社や、一般世間に対して、一番威張つた−といふ感じを与へた」と評されたことがあるという。また、『中央公論』の里見担当編者者が、無礼な編集者だと里見から苦情を言われ、降ろされたこともあると…
里見とん伝に、大正13年末ころ、久米正雄、加能作次郎、邦枝完二、宇野浩二、広津和郎、間宮茂輔、仲木貞一、佐藤八郎(のちのサトウハチロー)、国木田虎雄、長瀬三吾と野球チーム「藝倶楽部」を結成したとある。また、昭和4年には、久米、サトウハチローら…
里見とんの二人の兄、有島武郎・生馬はよく知られているだろうが、もう一人佐藤隆三という人がいる。 この人も秋田雨雀の日記に出てくるので、見てみよう。 昭和7年7月4日 三越に五星会の展覧会。発起人の一人としていってみる。小山内薫君が岡田女史と一緒…
江戸川乱歩は、東京精神分析学研究所の初期のメンバーとして「田内長太郎(ヴァン・ダインの長序を訳した人)」を挙げている*1。この田内、詳しい経歴が不明。乱歩が、『探偵小説『土曜会』通信(2)』(昭和22年3月2日*2)で、「田内長太郎君逝去 往年の“…
書簡集では武者小路実篤の所に分類されているが、武者・里見とん・園池公致連名の大正3年10月12日付け志賀直哉宛書簡がある。 二科会は好きな絵を見に来る為めに又来てもいゝが国民はもう御免だ。(ソ)*[園池公致] 大倉喜八[ママ]の銅像のエだけは見る価が…
昭和14年4月、戸板康二は明治製菓の販売営業部門・株式会社明治商店に入社。菓子部宣伝係に配属された。当時の上司は、田辺茂一の義兄である内田誠。戸板は、ここでPR誌『スヰート』*1の編集に携わることとなる。戸板の『思い出す顔』所収の「「スヰート」…
徳田秋聲の年譜から里見とん伝に記載のないものを拾ってみると、 大正12年10月15日 第八回「新潮創作合評−凶災後の文藝事項六項」末吉楼 宇野浩二、芥川龍之介、菊池寛、佐藤春夫、近松秋江、里見、久保田万太郎、久米正雄、水守亀之助、中村武羅夫(『新潮…
明治製菓の内田誠さんが、『日本近代文学大事典』に出てた。 内田誠 うちだまこと 明治二六・三・一〇〜昭和三〇・八・一三 随筆家。東京生れ。東京農大卒。俳号水中亭東京。いとう句会同人。作詞も手がけた。明治製菓宣伝課顧問などをつとめた。昭和一五年…
里見とんの話ばかり続くが、けふもまた。秋田雨雀の日記に、 大正7年10月2日 芸術座の研究劇についての意見が、読売にではじめた。上下二回。舞台が一通りできた。「誘惑」も「死と其前後」もりっぱな舞台だ。新しい芝居ができて以来の舞台だ。八時すぎから…
佐藤春夫の年譜*1から里見とん伝に記載のないものを拾うと、 日 時 講演会名 場所 他の出席者 昭和3年6月13日 「新しき村」講演会 朝日講堂 武者小路実篤、広津和郎ら 4年5月11日 『劇と評論』文藝講演会 読売講堂 吉井勇、久保田万太郎ら - 『spin』がいつ…
岸田劉生の日記*1でもトンを発見。 大正14年4月6日 今日は邦楽坐の第一回の修行会の舞台げいこ、三津五郎の和唐内をみるために三時前自働車で邦楽座へ行く。(略)里見弓享君などに会ふ。里見の芝居はまゝ子いぢめのはなしにてつまらぬもの紀州道成寺もつま…
戦時下の里見とんをハツケン。『木佐木日記第四巻』。 昭和20年10月22日 今年の四月、帝国ホテルで志賀さんに会ったとき(*1)は、髪の毛も目立って白くなり、白いひげを胸のあたりまで長くたらし、それを見ると一度に十年も歳をとられたようで、驚きの眼…
大正6年9月に一高分科乙類(英文)に入学したばかりの川端康成が、市河彦太郎の『小さき芽』を読んでいた。川端の日記*1によると、 大正6年12月25日 隣りの十五番室[に]誰かゞ置いて行つた「小さき芽」をだまつて借りて来たのだが今日読み了つた。昨夜細川さ…
里見とん、佐藤春夫、菊池寛、徳田秋声が発起人となって開催された*1「文藝家主催の改造社十年祝賀会」については、室生犀星の日記に記載がある。 昭和4年4月24日*2 星ケ丘茶寮に行く、改造社長招待宴。長與、里見、鏡花、秋聲、春夫、與一氏等と会ふ。山本…
三浦関造というと、どうしてもオカルティスト、ヨガというイメージが強いが、『日本近代文学大事典』にも立項されている文学者でもある。大正期の三浦の動静を、『中央文学』の「最近文壇消息」(のち「最近文藝消息」)でたどってみると、 発行年月 大正 8…
小林一郎先生作成の田山花袋年譜から里見とんと同席した会合を拾ってみる*1と、 年月日 会合名 場所 他の出席者 大正13年5月10日 第十四回新潮合評会 小石川偕楽園 久米正雄、宇野浩二、加能作次郎、葛西善蔵、久保田万太郎、近松秋江、中村武羅夫ら 10月 プ…
里見とん伝に、里見が大杉栄や小林せい子(谷崎潤一郎の妻千代の妹)と親しかったことが書かれている*1。このことについては、宇野浩二の『文学の三十年』にも出ていた。 (略)私が、仕事をするために、実は仕事はあまり出来なかつたけれど、鵠沼の東家に十…
これも戦時下の里見とんの一エピソード。徳田秋聲の日記*1によると、 昭和16年11月15日 この日鎌倉ペンクラブで小杉天外氏の喜寿の宴あり、それに先立ち二時から第一国民学校の講演に臨む。十一時何十分かの汽車で行つたのだが、著いてみると、時間はやゝ早…
谷崎潤一郎に比べると中央公論社との関わりは圧倒的に少ないが、それでも『中央公論社の八十年』巻末の年表に多少名前が出てくる。 昭和3年9月25日 吉野作造、山本改造社社長、徳田秋声、近松秋江、正宗白鳥、里見弓享らの発企により、中央公論社の新旧社長…
『喜多村緑郎日記』にもしばしば里見とんの名前が出てくるが、そのうちの大正15年4月14日の条から。 七時に新町の西村へ行く。里見、久米夫婦、中戸川、と初対面の志賀直哉氏とその令弟、その外に一人鎌倉の方の人と云ふのがゐて、菱富を馳走になる。 中戸川…
昭和11年9月9日付け川端秀子の康成宛書簡によると、 昨夜七時から第一小学校で久米さんの応援演舌会があり、菊池、里見、大佛、久米さんがお出になりましたさうで、林さん*1に、誘はれましたが出かけませんでした。 里見らの応援の効果があったか、久米正雄…
四方田犬彦が『ハイスクール1968』の続編『歳月の鉛』を工作舎から刊行することは、『出版ニュース』の執筆予定に書いてあった。より詳しいことは、『WB』連載中の「星とともに走る」の「『歳月の鉛』を書き終えて」に書かれている。 おそらく今度の本はわ…