
藤澤親雄や黒田禮二が参加した日独同志会の理事長だった松本德明という注目すべき仏教者がいる。私が松本の名前を知ったのは、小見山登編『創造的日本学:藤沢親雄遺稿 附諸家追悼・随想録』(日本文化連合会、昭和39年2月)の松本「親友藤沢親雄君」だった。そこで、松本は次のように書いている。
(略)私が昭和八年、ドイツから帰えり、約半年滞在して再びドイツに渡ったその間に、故松岡均平男爵に紹介されて君に会ったのがそもそも君を知る最初の機会であった。それ以来、君とは刎頸の友といってよいか、水魚の交わりと云うべきか、全く特別の友情を以って交際を続けた。戦前戦時、何事も相談し、また相談されて暮した。(略)
次に松本の名に出会ったのは、「岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』(慶應義塾出版会、平成17年3月)にぶんなぐられる。 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』(慶應義塾大学出版会、平成17年3月)である。同書199頁によれば、昭和11年12月の日独同志会創立時に松本、藤澤、黒田は世話人で、理事制度が導入された12年11月には松本が理事長になっている。215頁には、松本の略歴が挙がっていた。それによれば、明治31年広島市の浄土宗寺院の長男として生まれ、京都仏教専門学校・東京宗教大学(大正大学)研究科を経て、浄土宗から派遣されて海外留学、ボン大学で哲学博士号を取得、同大学で講師・名誉教授として東洋学を教えた。昭和11年帰国、戦後は大正大学理事長などを務めた。より詳しい経歴はその典拠である中村元・武田清子監修『近代日本哲学思想家辞典*1』(東京書籍、昭和57年9月) にある。国会デジコレで読んで見ると、昭和2年セイロン島(スリランカ)で南方仏教研究ののち、ボン大学哲学部に入学したことが分かる。
そう言えば、昭和2年ハイデルベルク大学留学のため渡欧する友松圓諦の日記*2に松本が出てくることを思い出した。
(昭和二年)
十一月十六日(水)
早朝より腹痛、午前ははげしい頭痛、午後五時迄ねる。七時半に松本徳明、ニヤナチロカきたる。仲山健吉はここで下りる。八時半のランチで「みかど」へゆく。南部慶三君のところへとまる。夜二時迄飲み四時迄かたる。❲セイロンか❳
❲ ❳は、編者による注
更に、最近読んだ浄土宗「戦時資料」に関する委員会編『浄土宗「戦時資料」に関する報告書』(浄土宗平和協会、令和5年7月)には、戦時中の松本が出てくる。
66頁 昭和12年10月24日 精神動員時局大講演会(兵庫浄土宗青年会聯盟・兵庫浄土宗布教研究会) 東極楽寺
67頁 昭和14年8月25日~27日 全浄土宗青年会聯盟幹部講習会(知恩院) 「国家総力戦と国際情勢に就て」
111頁 昭和18年9月7日~11日 第82回教学高等講習会(東京・浄土宗務所) 「最近の国際情勢」
戦時下、松本が仏教界で国際通として講演会に招かれたことが分かる。岩村著214頁によれば、松本は太平洋戦争中は海軍嘱託としてインドネシアやフィリピンに軍政視察のため派遣されたともある。戦時中の活動については、より詳しい調査が必要だろう。偽史運動に深入りしていった藤澤を、日独同志会の同志で「何事も相談し、また相談され」たという松本はどう思っていただろうか。松本については、今後も注目していきたい。
(参考)手塚和彰『日独伊三国同盟の虚構:幻の軍事経済同盟』(彩流社、令和4年7月)123頁にヒトラー参りの例として、「ニュルンベルク・ナチ党大会への参加のため、九州日独同士[ママ]会の松本徳明(ボン在住)、藤沢親雄教授などの訪問(一九三七年九月九日付、東京発電)があった。もっとも彼らに対してヒトラー側近は慎重かつ細心な取扱い をしており、日本側の紹介があるからといって、ヒトラーは簡単に面会していない」 とある。松本は帰国していたはずで、よく分からない。