神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

平山周吉『満洲国グランドホテル』(芸術新聞社)に「神保町系オタオタ日記」登場


 「グーグルブックス」で「神保町系オタオタ日記」を検索したら、見慣れない本がヒット。平山周吉『満洲国グランドホテル』(芸術新聞社、令和4年4月)である。拙ブログに言及していただきまして、ありがとうございます。同書の「第二十回 「満洲国に絶望した」衛藤利夫・満鉄奉天図書館長の「真摯なる夢」」から該当部分を引用しよう。

 増田正雄が何者かとネットで調べると、ブログ「神保町系オタオタ日記」に登場する。日露実業役員、大亜細亜建設社賛助員、『満洲生活三十年』出版の資金協力者、そして大正十五年(一九二六)の宮内省怪文書事件の関係者、ということらしい。(略)

 平山氏が増田について調べたのは、古書で入手したクリステイ著・衛藤訳の『満洲生活三十年:奉天の聖者クリステイの思出』(笠木良明、昭和10年7月初版・同年12月再版)が切っ掛けである。その本は、第3版用の校正用原本で、衛藤のものらしい赤字のほか、増田の「跋」を削除するという指示があるという。更に、4頁ある「跋」が1度カッターで切られ、また糊付けされていて、よほど気に入らなくなったのだろうとしている。
 引用文中の「日露実業役員」は「国際政経学会常務理事増田正雄の正体 - 神保町系オタオタ日記」、「大亜細亜建設社賛助員」は「大亜細亜建設社の賛助員 - 神保町系オタオタ日記」、「資金協力者」は「オタどんと書物奉行の“爆笑ト問題” - 神保町系オタオタ日記」、「宮内省怪文書事件の関係者」は「増田正雄と宮内省怪文書事件 - 神保町系オタオタ日記」を参照。私にも増田の「跋」が衛藤に嫌われた?理由は、分からない。いずれにしても、思いも書けない所に「神保町系オタオタ日記」が登場して、多少でも役に立てれば嬉しいものである。
参考:「神保町系オタオタ日記に言及した論文 - 神保町系オタオタ日記」、「東大の博士論文に「神保町系オタオタ日記」登場ーー鈴木聖子『「科学」としての日本音楽研究』にスメラ学塾ーー - 神保町系オタオタ日記

大阪の俳人松瀬青々の次男松瀬吉春から野田別天楼宛絵葉書(昭和13年)


 展覧会のチラシが貯まってしょうがない。観た展覧会はもちろん、入手したが観てない物も大量にある。今回整理していたら、平成30年にあった柿衞文庫「明治の大阪が生んだ俳人 月斗と青々」のチラシが出てきた。青木月斗と松瀬青々に関する小企画展である。
 そう言えば、青々の次男松瀬吉春から野田別天楼宛絵葉書を持っていたはずと、絵葉書を放り込んである封筒を探すとありました。寸葉さんから600円で入手。消印は、昭和13年11月27日。文面は、「御誌十二月号」で「鳥の巣」の丁重な紹介をされたことへの御礼である。「御誌」は神戸の俳人である別天楼が主宰した俳誌『雁来紅』(雁来紅社)と思われる。また、「鳥の巣」は、青々『鳥の巣:句集 上・下』(倦鳥社、昭和13年9月)で、吉春が発行者であった。
 京都市から大津市に移転した書砦・梁山泊で入手した青木茂夫『松瀬青々:評伝』(額田天方、昭和49年12月)から引用しておこう。令和3年のプレオープン時に買ったので、シン梁山泊で本を買った最初の人になった(^_^)

吉春は、青々歿後、古泉、蜃楼*1、小洒*2等の指示と、細見綾子の原稿清記の労に助けられながら、青々の「巻頭言集」「随感と随想」「添削抄録」、句集「鳥の巣」上・下、句集「松苗」全四冊等を出版、その後、森古泉の三女芳と結婚したが、昭和二十年八月、子のないまま三十一才で病歿、未亡人はその後再婚した。現在、高師ノ浜の青々旧居は人手に渡っており、青々のぼう大な蔵書、および自筆の書画は、吉春歿後にすべて散逸した。ただ、昭和三十一年、松瀬家を訪れた古川巻石が、損傷しながらもかろうじて残っていた日記、研究ノート類、雑記帳、句帖、句録など(略)を同松瀬家から譲り受け、額田天方氏に保存を依頼、(略)それが今日倦鳥文庫として残っているものである。

 別天楼宛絵葉書は他にも入手していて、「俳人野田別天楼宛多田莎平の葉書を拾う - 神保町系オタオタ日記」でも紹介した。その時『南木芳太郎日記三』(大阪市史料調査会、平成26年8月)に別天楼と多田莎平が出てくることを引用した。しかし、昭和12年1月9日に亡くなった青々の告別式である旨の記載を省略してしまったので、改めて青々が登場する他の条も含めて南木の日記から引用する。

(昭和六年)
二月三日(略)
青木月斗・松瀬青々・佐谷孫二郎氏等へ。依頼状差出し置く*3
(略)
(昭和九年)
三月十七日
(略)四時過ぎ三越へ行く。こども研究会主催の端午節句展覧会の相談に列す。後援朝日新聞社学芸部、列席者江馬努[ママ]・(略)松瀬青々・菅楯彦(略)。

(昭和十二年)
一月十一日
(略)午後二時頃より高師浜松瀬青々氏告別式に行く。三時十五分前、多田莎平氏に遇ふ。別天楼・虚明*4・来布*5君等に逢ふ。(略)

 青木著によれば、青々の葬儀の喪主は吉春で、集まった人々の中には、上野精一朝日新聞社長、高浜虚子代理、月斗、佐伯定胤、古靭太夫、木谷逢吟らがいた。青々と南木との関係は、よく分からない。ただ、南木が主宰した郷土研究誌『上方』76号(創元社昭和12年4月)の「上方郷土研究会員名簿」には、青々の妻松瀬吟子の名前がある。おそらく生前の青々も会員だったのだろう。
 なお、『京都帝国大学一覧:自昭和十二年至昭和十三年』(京都帝国大学昭和13年5月)に文学部文学科(国語学国文学専攻)昭和13年3月学士試験合格者として「松瀬吉春 大阪」が見える。おそらく、青々の次男の吉春と思われるが、同定できていない。

*1:横山蜃楼

*2:安井小洒

*3:『上方』1巻3号(創元社昭和6年3月)に、松瀬「天王寺と俳句」、住谷「天王寺漫談」掲載

*4:塚本虚明

*5:入江来布

昭和11年における修養団の機関誌『向上』の発行部数ー山口輝臣編著『渋沢栄一はなぜ「宗教」を支援したのか』(ミネルヴァ書房)への補足ー


 山口輝臣編著『渋沢栄一はなぜ「宗教」を支援したのか:「人」を見出し、共鳴を形にする』(ミネルヴァ書房、令和4年4月)所収の山口「第三章 蓮沼門三と渋沢栄一」は、蓮沼が主宰した修養団の機関誌『向上』の発行部数に言及している。

 こうして修養団は加速度的に拡大した。機関誌『向上』の発行部数は、一九一二年には二〇〇〇部だったのが、一九一九年には一万二〇〇〇部へと増加。翌年からは月に二〇〇〇人のペースで団員が増えはじめ、二二年一〇月には八万人を超える。(略)

 修養団を支援した渋沢は、昭和6年に亡くなる。その後の『向上』の発行部数は、小林昌樹編・解説『雑誌新聞発行部数事典ーー昭和戦前期 附・発禁本部数総覧』(金沢文圃閣平成23年12月)*1に出てくる。なお、西暦を元号に改めたほか、「発行」「処分」などを補った。

向上 30巻 4号 昭和11年4月1日発行 20,000部 昭和11年3月26日処分

向上 21巻20号 昭和15年6月5日発行  200部 昭和15年6月11日処分

 ここで気を付けなければならないのは、「「ざっさくプラス」(皓星社)と『雑誌新聞発行部数事典』(金沢文圃閣)を使って木下宏一『二〇世紀ナショナリズムの一動態:中谷武世と大正・昭和期日本』(三元社)に補足 - 神保町系オタオタ日記」でも言及したが、同名異誌の雑誌が混在していることである。同事典には発行所の記載がないので、処分年月日から『発禁年表』に当たり発行所を確認する必要がある。実際調べると、2冊の『向上』のうち前者は修養団、後者は千葉県の東陽村青年団の発行と分かる。一時期8万部もあったが、昭和11年には2万部に減少していたことが分かる。なお、昭和11年3月の処分と言うことで、ピンと来る人がいたら鋭い。『出版警察報』91号(内務省警保局図書課)に、蓮沼「闇に輝く昭和の光」が「叛乱軍ニ対シ賞揚的記述ヲ為スニ因リ第六頁乃至第九頁削除」とある。二・二六事件に関連した処分であった。
 ところで、山口論文は、前記引用部分の典拠として、新藤雄介「大正期における雑誌『向上』と修養団の広がりーー」巡回講演と青年団の関連において」(『メディア史研究』34、平成25年9月)18頁を挙げているが、正しくは15頁である。また、赤澤史朗「教化動員政策の展開」の収録書を日本現代史研究会編『一九二〇年代の日本の政治』大月書店、昭和59年としているが、正しくは鹿野政直・由井正臣編『近代日本の統合と抵抗第4巻』日本評論社、昭和57年である。

*1:令和2年9月に増補改訂普及版が出ている。ただ、図書館は元版を持っていると増補改訂普及版を買ってくれないようで、所蔵館は少ない。

鍵善良房の今西善造と田中緑紅ーZENBI-鍵善良房-で「河井寛次郎とその系譜」を開催中ー


 ZENBI-鍵善良房-は、令和3年1月に開館。「黒田辰秋と鍵善良房ー結ばれた美への約束」が開館記念特別展であった。3年目の現在は、「河井寛次郎とその系譜」を開催中である。そう言えば、6月の寸葉会で長谷川さんが田中緑紅宛絵葉書を数枚出していて、その中に鍵善良房の今西善次郎・今西善造からの年賀状(昭和12年)があった。600円。裏面は、「浩一路画」とあって近藤浩一路と思われる。干支の丑の絵である。
 『第十一版人事興信録上』(人事興信所、昭和12年3月)に、今西善次郎は立項されている。明治6年4月今西与三郎の長男として生まれ、14年に家督を相続。「鍵善本舗と称し菓子商を営み傍ら弥栄商事会社取締役たり」とある。善造(明治37年11月生)は、息子である。
 『黒田辰秋と鍵善良房ー結ばれた美への約束』(imura art+books、令和3年1月)の跡部祐子「黒田辰秋と鍵善良房」によれば、「若手作家として次第にその実力が認められつつあった黒田が、初めて鍵善良房十二代当主*1今西善造からの制作依頼を受けたのはさらに翌年、昭和6年(1931)のことであった」という。黒田は、前年の昭和5年には進々堂の創業者続木斉からテーブルセットの制作依頼を受けていた*2跡部著によれば、「鍵善良房には文化人や芸術家たちが集うようになり、夕方ともなると店頭の8畳程の畳敷きの小上がりにて芸術談義に花が咲き、文化サロンの様相を呈していたと伝えられている」という。鍵善良房に集まった文化人の中に緑紅さんもいたのだろうか。それとも一顧客として年賀状が送られただけだろうか。

 

*1:昭和6年の時点で今西善造が鍵善良房の当主であったかは、疑問がある。

*2:下鴨納涼古本まつり、チャリティー百円均一コーナーで『京都民芸だより』を - 神保町系オタオタ日記」参照

中山香橘宛森瀬雅介書簡に見る土鈴蒐集家のネットワーク


 中山香橘宛絵葉書がだいぶ前から出回っていて、寸葉さんやモズブックスの所には現在でも残っている。今回紹介するのはその絵葉書ではなく、愛知県一宮市の土鈴蒐集家森瀬雅介から中山宛の書簡群である。
 封筒1通と書簡12通で、平成28年下鴨納涼古本まつりで寸葉さんから、2500円で購入。一目で戦後の書簡と分かる物で、何故買ったのかよく分からない。原則として戦前の物を買っているので、今なら買わないかもしれない。切手が剥がされ、書簡にも月日の記載しかない。しかし、「徳間書店から土鈴の書物を出版する企画」や「昨年出版された『日本の凧大全集』」と書かれた書簡がある。前者は森瀬・斎藤岳南*1『日本の土鈴』(徳間書店、昭和52年9月)、後者は日本の凧の会編『日本の凧大全集』(徳間書店、昭和51年12月)と思われるので、全体的に昭和52年前後の書簡群と推測する。
 発信者で『日本の土鈴』の著者である森瀬の経歴は、同書によれば、明治40年岐阜市生まれ。京都帝国大学医学部卒の医学博士。昭和12年一宮で開業。土鈴に魅せられて蒐集すること50余年という。これに補足すれば、京大は昭和6年卒である。
 一方、受信者の中山は、奥村寛純編著『伏見人形の原型』(丹嘉*2、昭和51年3月)の「本書の編集に関係した人々」から要約しておこう。

中山香橘
明治28年10月5日 誕生
明治44年 京都市立商業実修学校専修科卒
? 京人形老舗の家業を継ぎ、京人形の普及発展とその育成に尽力
? 日本各地の郷土玩具に深い愛情を持ち、有坂与太郎、木戸忠太郎らと共にその追求・蒐集・普及にも多大の足跡を残し、「わらんべ会」など各郷土玩具研究グループにおいてその推進役の一人として、郷玩誌『わらんべ』編集等にも携わる。
終戦後 老舗は長兄の息に継承させ*3、自らは京人形と趣味玩具の店として有限会社中山童玩社を創設

 これに補足すれば、本名は孝吉郎。橋本章「郷土玩具蒐集家の時代ー朏健之助の活動と京都府所蔵「朏コレクション」からー」『朱雀』26号,京都府京都文化博物館,平成26年3月によれば、「わらんべ会」は朏、木戸、阿部四朗、若井寿之助と共に昭和16年に創立された。没年は、昭和57年。
 最近@wogakuzuさんが中山童玩社発の絵葉書を入手されていたが、国会デジコレで読める『京都商工人名録』(京都商工会議所、昭和44年9月)によれば昭和20年創立である。中山は、田中緑紅主宰の『郷土趣味』3巻5号(郷土趣味社、大正11年3月)で普通会員への会員申込者に名が見える。商売柄相当昔から趣味人・蒐集家と交流があったのだろう。
 個々の書簡の紹介は控えるが、名前の出てくる土鈴の蒐集家・製作者を順不同で挙げておく。蒐集家同士のネットワークが垣間見えて楽しい。なお、括弧内の地名は書簡に記載された住所地である。

楠トシエ(東京)
川西誠治(神戸)
阿南哲朗(北九州市小倉)
中原一晃(宇和島
松岡英之助(和歌山県九度山、故人)
宮崎宮司大阪府蜂田神社)
松岡嘉一路
野上泰次郎(和歌山) 
春風*4
東田清三郎*5
有岡米次郎
京橋初江
奥村寛純
伊藤蝙堂(四日市市富田)
藤井陶楽(四日市市羽津山)
中島佐十郎(故人)
中島一夫
朏健之助
木戸忠太郎
八木原村児
武井武雄
鈴木鼓堂
浅野信治(愛知県津島市

 ここで驚いたのは、京橋初江である。寸葉さんから入手した九十九黄人宛葉書の中に神戸市の京橋からの昭和45年と48年の年賀状*6があって、九十九を取り巻く若い女性ぐらいに思っていた。しかし、土鈴の蒐集家だったようだ。「人事興信録データベース」で検索する*7と、第8版(昭和3年7月)がヒットする。神港商業、帝国信栄、大森商会各取締役京橋繁蔵の養子初江(大正5年5月生)である。同一人物だろうか。
 書簡には、森瀬が昭和52年9月に大垣城で開催した「日本の土鈴展」に中山、京橋、奥村から貰った土鈴を展示した旨が記載されていた。この奥村の経歴は、『京洛おもちゃ考』(創拓社、昭和56年10月)によれば、次のとおりである。

奥村寛純
大正15年 現在の大阪府三島郡島本町
昭和27年 関西大学法学部卒
昭和56年現在 伏偶舎郷土玩具資料館館主、日本郷土玩具の会会員、全国郷土玩具友の会会員、郷土玩具文化研究会会員、近畿民俗学会会員、近畿民具学会会員

 平成21年に亡くなった奥村が昭和30年代から蒐集した郷土玩具コレクション約2万5千点は、平成16年に高槻市立しろあと歴史館に寄贈された。そのうち、伏見人形と土製・練り物玩具(東日本)について、高槻市文化財調査報告書が作成されている。朏のコレクションは、京都府立総合資料館(現京都府立京都学・歴彩館)に寄贈された。中山のコレクションはどうなったのだろうか。
参考:「昭和17年稲垣武雄ら郷土玩具誌『竹とんぼ』同人から中山香橘宛葉書 - 神保町系オタオタ日記

*1:『日本の土鈴』によれば、大正5年静岡市生。23歳の時から郷土玩具に興味を持ち、蒐集と研究に没頭。昭和16年以来郷土玩具の製作を始めた。

*2:寛永年間創業の伏見人形窯元

*3:山田徳兵衛校『京洛人形づくし』(芸艸堂、昭和13年12月)に「京都の人形老舗の一に、下京区土手町の芦田屋、中山庄三郎商店がある。御当主の伯父に当られる方に、中山香橘氏がおはし、夙に趣味家として有名」とあり、戦前既に継承させていたと思われる。なお、山田の中山宛昭和12年年賀状について、「『日本人形史』の山田徳兵衛から中山香橘宛年賀状(昭和12年)ーー百鈴会の川崎巨泉と中山香橘ーー - 神保町系オタオタ日記」参照

*4:村手春風と思われる。「大阪古書会館で『趣味の板郵便出品目録』 (昭和14年)を発見 - 神保町系オタオタ日記」参照

*5:南木芳太郎と宝船・土鈴蒐集家の東田清三郎(東田琴山人・東田吉児・梅廻家田舎・調亭歌升) - 神保町系オタオタ日記」参照

*6:写真を挙げた昭和48年の年賀状に「いなはた」とあるのは、兵庫県の稲畑人形の意と思われる。

*7:「京橋初江」ではなく、「京橋 初江」で検索する。

図研で平瀬與一郎宛柏木義円・武田猪平連名の絵葉書を発見!ー片野真佐子『柏木義円』(ミネルヴァ書房)を使うー


 いつまでも記憶に残る展覧会というのがある。たとえば冒頭に図録の写真を挙げた展覧会である。「モダニズム再考二楽荘と大谷探検隊」は、芦屋市美術博物館、残る二つは龍谷大学龍谷ミュージアムの開催である。私の大好きなくろっぽい古本のような図録だ。この3冊になにかしら通底するものを感じる人がいれば鋭い。どれも担当学芸員は、和田秀寿氏である。現在勤める龍谷ミュージアムで定年を迎えるまでにもう1回展覧会を担当するそうなので、今から楽しみである。
 昨年大好評だった「博覧ー近代京都の集め見せる力ー」は、初期京都博覧会・西本願寺蒐覧会・仏教児童博物館・平瀬貝類博物館に焦点を当てた展覧会であった。このうち京都市岡崎にあった平瀬貝類博物館の館長であった平瀬與一郎については、私も「京都の上野、岡崎にもあった博物館ーー平瀬與一郎の平瀬貝類博物館ーー - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したところである。

 先日尼崎市立歴史博物館で「尼崎紡績展」を観るついでに、駅前の古書店図研をのぞいてきた。紙もの、特に都道府県別に分けられた絵葉書が圧巻である。もっとも私はもっぱら趣味人や実逓便の箱をチエックした。一番驚いたのは、平瀬宛の絵葉書を見つけたことだった。更に、発信者の一人が「出版史料としての『柏木義円日記』 - 神保町系オタオタ日記」などで言及した群馬県安中教会の牧師柏木義円だった。もう一人の発信者武田猪平は未知の人物である。早速、片野真佐子柏木義円:徹底して弱さの上に立つ』(ミネルヴァ書房、令和5年1月)で調べると、大和田猪平として出ていた。明治3年新潟生まれで、同志社で神学を修めて、25年安中教会赴任、27年に武田淑子と結婚し武田姓を名乗っていた。柏木に妻となる平瀬かや子を紹介したのは武田で、與一郎はかや子のいとこであった。3人は、親しい関係だったことになる。
 絵葉書は、消印が不鮮明で発信年月日の記載もない。ただ、表面の仕切り線が中央にあるので、大正7年4月以降の絵葉書ということになる。また、『日本キリスト教歴史人名事典』(教文館、令和2年8月)によれば、武田は大正14年3月7日没*1なので大正7年4月~14年3月発信ということになる。
 絵葉書の文面は、柏木の分は、昨日武田が来訪し久し振りに快談したと書かれている。武田の分は、軽井沢に来たついでに柏木を訪問したこと、茅はいないが睦子、八千代、大四郎がかいがいしく働き柏木を大事にしてくれていることなどが書かれている。茅は柏木の妻かや子のことで、大正7年10月に亡くなっている。睦子は長女(明治37年生)、八千代は次女(明治41年生)、大四郎は四男(明治33年生)である。文意から言うと、大正7年10月の妻かや子没後の発信だろうか。
 柏木の日記については、飯沼二郎・片野真佐子編『柏木義円日記』(行路社、平成10年3月)や片野真佐子編・解説『柏木義円日記補遺:付・柏木義円著述目録』(行路社、平成13年3月)で翻刻されている。ただし、大正7年~14年に限っても、毎日記載されているわけでもなく、また人名索引のない日記から老眼のわしが武田や平瀬の名前を見つけるのは大変である。翻刻された分をざっと読んではみたが、絵葉書に記載された武田の来訪時期を特定できなかった。片野先生なら、武田の来訪時期を解明できるだろうか。

 

*1:平瀬は大正14年5月没、柏木は昭和13年1月没

佐野繁次郎装幀の『昭和六年新文藝日記』(新潮社、昭和5年)ー『新文藝日記』の装幀者群像ー


 アレからもう15年も経つのか。「アレ」と言っても、もちろん阪神の優勝ではない。東京古書会館で平成20年6月に開催された「佐野繁次郎装幀モダニズム展」である。佐野の装幀本にそれほど興味はなかったので、古書展のついでにのぞいたのだろう。本よりも年譜が記憶に残っている。
 さて、先日大阪の文庫櫂で『昭和六年新文藝日記』(新潮社、昭和5年11月)を入手した。日記、特に文藝日記に興味があるのと、佐野の最初期の装幀本なので買ってみた。表紙のデザインに確かに「S.S」のサインがある。『佐野繁次郎装幀集成:西村コレクションを中心として』(みずのわ出版、平成20年11月)の「佐野繁次郎装幀目録」に1番久野豊彦他『モダンTOKIO圓舞曲』(春陽堂昭和5年5月)~4番ランボオ/小林秀雄訳『地獄の季節』(白水社、同年10月)の記載はあるが、本書の記載はない。もっとも、15年も経っているので、「西村コレクション」の西村義孝氏や林哲夫氏がその後入手しているかもしれない。

 本書(裸本)は、文庫櫂でおまけしていただいて3千円で入手。ありがとうございます。日本の古本屋では、平野書店やあきつ書店が装幀者の記載をしていないものの売り切れている。平野書店出品分はカバー付のようだ。どのようなカバーだろうか。
 本書が佐野の装幀であることは、「読める日記帳・資料として使える日記帳としての『文藝自由日記』(文藝春秋社出版部) - 神保町系オタオタ日記」で言及した日本近代文学館編『文学者の日記6 宇野浩二(1)』(博文館新社、平成12年1月)に出ていた。宇野が本日記を使用していて、解説の「原本について」(鎌田和也)が装幀者について言及している。宇野は『昭和七年新文藝日記』(新潮社、昭和6年11月)も使用していて、『文学者の日記7 宇野浩二(2)』(博文館新社、平成12年8月)の解説によれば、装幀は阿部金剛である。他の年の『新文藝日記』の装幀者を「日本の古本屋」で調べると、昭和3年恩地孝四郎、5年が古賀春江という錚々たるメンバーである。残る年*1の装幀者も非常に気になるところである。装幀本と言えばかわじもとたかさんの『装丁家で探す本:古書目録に見た装丁家たち』(杉並けやき出版、平成19年6月)・『続装丁家で探す本 追補・訂正版』(杉並けやき出版、平成30年6月)だが、『新文藝日記』には言及していないようだ。日記帳の装幀者にも要注目ですね。
 ところで、『佐野繁次郎装幀集成』の年譜によると、佐野は昭和5年6月池谷信一郎の蝙蝠座の第1回公演「ルル子」(築地小劇場)の舞台装置を東郷青児阿部金剛古賀春江と共に担当している。東郷をのぞき、『新文藝日記』の装幀者つながりになる。これは、偶然だろうか。

*1:『『文学者の日記6 宇野浩二(1)』の「原本について」によれば、『作文日記』と題し大正3年版から4年版まで、『文章日記』と題し5年版から9年版まで、『新文章日記』と題し10年版から14年版まで刊行した後、15年版から『新文藝日記』と題し昭和7年版まで刊行