神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

新京極誕生150周年の2022年ーー蔵書印さんから貰った新京極の絵葉書に「クラブ洗粉」の看板ーー

f:id:jyunku:20220121173455j:plain
 今年は、新京極通ができて150周年だという。それで、新京極の絵葉書を持っているのを思い出した。冒頭に挙げた写真で、蔵書印さんから5年前に頂いたものである。ありがとうございました。手前のカメラ目線の子どもと左手の「文庫」という看板のある「吉川商店」がまず目に付くところである。更に昨年気付いたが、右手の店に「クラブ洗粉」らしき看板がある。クラブ洗粉は明治39年4月の販売開始なので、それ以降の絵葉書ということになる*1。なお、大手拓次明治41年にクラブ洗粉を使っていたことについては、「明治41年クラブ洗粉を使う大手拓次ーー8月からクラブコスメチックス文化資料室で「コスメチックス広告 広告にみる大正ロマンと昭和モダン」展ーー - 神保町系オタオタ日記」参照。
 この絵葉書は、愛宕郡下鴨村(現京都市左京区下鴨)の長房某から東京市芝区の野田忠廣宛である。消印は、大正2年12月?日か。
 「人事興信録データベース」で野田を検索すると、まさかのヒット。慶応3年生まれの静岡県の士族で、医科大学卒業後、鹿児島病院長、四高教授などを経て、大正4年版では内務省衛生局医務課長とある。そう言えば、蔵書印さんが買われたのは静岡市古書店であった。
 よく知られた絵葉書のようで、昨年京都市学校歴史博物館の「京都・開化の風展」でこれの拡大写真パネルが展示されていた。突き当たりの建物は、四条通か夷谷座(六角通)だろうか。調べれば、「クラブ洗粉」の看板を出していた店の名前が分かるかもしれない。
f:id:jyunku:20220106134501j:plain

*1:追記:更に、宛名面の仕切り線が下三分の一にあるので、明治40年4月以降である。

昭和6年第3回浪華宝船会案内ーー風俗研究会(江馬務)の藤村芝山旧蔵を玉城文庫からゲットーー

f:id:jyunku:20220120194135j:plain
 大阪市立図書館は蔵書が充実している上、大阪とは縁もゆかりもない京都府民のわしにも貸し出してくれるので、よく利用している。ここには橋爪節也「新大阪KEYわーど 大阪を知るための100の言葉とモノの世界」を連載中の『いちょう並木』(大阪市教育委員会)が置かれていて、これを貰うのも楽しみである。
 さて、同誌の最新号で橋爪先生の連載第20回は、「こんなアイディアどないだと競いあう趣味人、趣味家、本気のしゃれ文化」である。宝船を描いた絵を交換、頒布した大阪の趣味人、趣味家のグループ「浪華宝船交換会」の話である。昭和4年の第1回から昭和15年頃まで続いたという。
 同会のルールは次のようなものだった。

会員は個性溢れる「宝船」を制作する。会員同士の交換会の後、節分に「宝船」の頒布所を設け(他の会員と共同でも良い)、紹介状をもらった人が、御朱印のように市内各所に散らばった頒布所を巡って「宝船」を集めるのである。第1回の頒布所は34個所だったが、第4回には74個所に増え、「宝船」も111種類が用意された。

 この浪華宝船会案内の第3回分(昭和6年2月4日)を昨年知恩寺の古本まつりで、玉城文庫から入手している。550円。頒布者は100名、頒布所は71個所である。幹事は木村旦水(だるまや)、三宅吉之助(宇津保文庫)、梅谷紫翠(甘汁庵)、芳本倉多楼(清三洞)、粕井豊誠(久宝亭)、川崎人魚洞(巨泉)の6人である。旧蔵者は藤村芝山で、紹介者は人魚洞であった。この藤村は不詳だが、「ざっさくプラス」によると、「附録趣味旅行会記事」(177号、昭和10年2月)など『風俗研究』に3編寄稿している。江馬務が主宰する風俗研究会の会員だったと思われる。
 ちなみに、大阪歴史博物館が宝船のコレクション(大阪歴史博物館:コレクション:館蔵品ギャラリー:民俗:宝船コレクション)を所蔵している。先日行ってきたら、田中緑紅作かとされる絵が展示されていた。
f:id:jyunku:20220117113034j:plain

「趣味の旅行」が盛んになった昭和初期における東海道自動車旅行ーー近江商人藤井彦四郎の妻藤井屋壽子の饅頭本から見るーー

f:id:jyunku:20220117185316j:plain
 饅頭本(追悼本)にも当たり外れがあって、実業家のものは外れが多い。ましてや、実業家の家族の追悼本となると私が買うことはまずないだろう。今回紹介する『藤井屋壽子』(藤井健次郎昭和16年10月)は、迷ったが同志社の女性教員だったデントンが寄稿し、編輯者の熊川千代喜が京都人なので買ったと思う。300円。目次を挙げておく。
f:id:jyunku:20220117185241j:plain
 あらためて読んでみると、意外と役に立つ本であった。まず、夫の藤井彦四郎は近江商人で、滋賀県の旧邸は今は五個荘近江商人屋敷になっている。また、屋壽子は旅行好きだったということで、北海道、朝鮮、四国、南紀、伊勢、信濃上高地の汽車・船による旅行のほか、東海道の自動車旅行が記録されていた。
 自動車旅行は、京都店に出入りする自動車屋が「ウヰリス・ナイト」を購入し、封切りに東京との往復への試乗を勧めたのが切っ掛けであった。昭和4年5月19日、藤井夫妻と長男、次女が同乗して京都の鹿ヶ谷邸を出発。25日には帰宅しているので、6泊7日の旅であった。道路情報、道路地図などもまだまだ未整備な時代なので、東京との往復にはだいぶ苦労している。往路では桑名まで行ったところで橋が取り替え中で、自動車には長男だけが乗って岐阜へ迂回し、残りの人達は汽車で名古屋まで移動している。また、ようやく品川に着いたと思ったら、「代々木初台の邸に入らんとしたが、運転手は京都の男で、東京辺りの地理に暗く、乗つてる我々も毎時も乗物ばかりで、さてとなると皆目勝手が分らず、宛[ママ]然紙袋冠つた猫のやうなもので随分困つた」という。往路で懲りたのか、屋壽子と次女は復路のほとんどは汽車で移動している。
 この昭和初期は、大衆による旅行が進んだ時代であった。白幡洋三郎『旅行ノススメ:昭和が生んだ庶民の「新文化」』(中央公論社、平成8年6月)には、次のようにある。

 昭和二年といえば、昭和元年がわずか六日しかなかったから、実質的な昭和の始まりの年である。しかも、さきにふれたように、柳田国男が「旅」と「旅行」を区別して語りはじめた時期でもある。民衆の側から、苦労の多い、移動そのものといった「旅」ではない、楽しみのための「旅行」が求められ、大衆化しつつあった。
 同時に旅行業者の側からは、単なるあっせんや接待をこえて、営利的な観点から旅行者を見る目が確立しはじめた。旅客および業者の双方において「旅」が「旅行」になってゆくのは、昭和という時代の幕あけとぴったり一致する。

 大衆による旅行が普及した時代で、旅行雑誌も相次いで創刊された。富田昭次『旅の風俗史』(青弓社、平成20年7月)の「旅行雑誌の巻」によると、大正13年4月創刊の『旅』(日本旅行文化協会)に続き、昭和3年に『旅と伝説』(三元社)、昭和5年に『旅行とお国自慢』(帝国旅行新聞社)と『行楽:旅行趣味の雑誌』(静岡県旅行協会)が刊行されている。これに補足すると、モズブックスから入手した『旅の友:趣味の旅行雑誌』(中部旅行協会)という旅行雑誌も存在する。第3年第5号で昭和4年5月発行なので、まさしく実質的な昭和の始まりである昭和2年の創刊である。この「趣味の旅行雑誌」は面白い内容なので、別途紹介しよう。
 近年、赤井正二『旅行のモダニズム:大正昭和前期の社会文化変動』(ナカニシヤ出版、平成28年12月)や「明治40年における京都第五高等小学校の伊勢修学旅行ーー山本志乃『団体旅行の文化史』(創元社)を読んでーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した山本著など、戦前期の旅行に関する研究が進展しているようだ。しかし、『藤井屋壽子』にあったような個人の自動車旅行については、研究されているだろうか。私も各種の日記に記載がないか、注意しておこう。
 昭和も時代が進むと、趣味の旅行などとんでもないと非難される時代がやってくる。昭和16年開戦前に同志社の外国人教員が引き揚げる中、ただ一人デントンは日本に残った。『藤井屋壽子』は、同年10月発行。12月の開戦後の発行であれば、米国人デントンの原稿は掲載されなかったかもしれない。
 なお、赤井著290頁は神戸の登山団体に関する文献を挙げているが、中島俊郎「六甲山のウォーキングーー神戸徒歩会の活動を主軸にーーー」『甲南大学紀要文学編』166号、平成28年3月を追加しておこう。
f:id:jyunku:20220117193523j:plain

三条河原町にあったカフェーカナリヤとマヴォイスト渋谷修ーー斎藤光『幻の「カフェー」時代』(淡交社)への補足ーー

f:id:jyunku:20220114183611j:plain
 学生時代のサークルの先輩でもある斎藤光先生の『幻の「カフェー」時代:夜の京都のモダニズム』(淡交社、令和2年9月)126頁に、カフェーカナリヤが出てくる。昭和3年9月『京都日出新聞』連載の「ステッキ」第5回「カフエー」の一文である。

コーヒらしいコーヒを手軽に飲ませてくれる店は鎰屋に柏屋、カナリヤ位のものだ。その他のカフエー喫茶店、茶寮はバーでありレストランであり、或は又其れ以上の非売品を売る様な不心得なカフエーが多い。女給さんが多い。
(略)

 また、167頁では内務省警保局が昭和8年末か9年初めに作成した「カフェーと女給」に基づき、「小さきもの」として「カフエーカナリヤ/河原町三条下ル」を挙げている。
 このカフェーカナリヤのものと思われる年賀状をシルヴァン書房から入手して持っている。冒頭に挙げた写真で、左から昭和3年、4年、5年の年賀状である。「喫茶カナリヤ」や「オアシスカナリヤ」とあるが、「河原町」や「河原町蛸薬師上ル」とあるので、同定してもよいだろう。4年の年賀状によると、河原町の小さき巣に籠ってから3回目の年越とあり、昭和元年(大正15年)の開業のようだ。
 ところで、この昭和4年の年賀状は、シルヴァン書房の矢原さんによると、マヴォイストでもあった渋谷修の作品だという。そこで、市道和豊『渋谷修の絵葉書:渋谷修の見つけ方 上巻』(室町書房、令和3年5月)を見ると、確かに載っていた。更に、渋谷の『裸女三十六趣納札所』(昭和2年)の「版主名・一覧」*1の筆頭に、カフェ・オーナーとして「カナリヤ(藤井正雄)」とある。「大正12年装幀家としてデビューしていたマヴォイスト牧寿雄ーー五十殿利治「関西『マヴォ』について:牧寿雄と『マヴォ』関西支部」への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したマヴォイスト牧寿雄は京都でも活動していたので、もしかしたら渋谷や藤井は牧の消息を知っていたかもしれない。引き続き要調査である。
参考:「渋谷修と竹久夢二: 表現急行2
f:id:jyunku:20220114183749j:plain

*1:他の版主として、小西一四三、西田静波、青山督太郎、田中緑紅、藤浪吟[ママ]蔵、三好米吉、三宅吉之助らの名前がある。

敗戦後昭和21年には日本に引き揚げていた藤澤親雄ーー『松本学日記』(芙蓉書房出版)で確認ーー

f:id:jyunku:20220110080718j:plain
 藤澤親雄の年譜については、「国際人藤澤親雄がトンデモに至る道 - 神保町系オタオタ日記」で作成したところである。小見山登編『創造的日本学:藤澤親雄遺稿 附諸家追悼・随想録』(日本文化連合会、昭和39年2月) 所収の「経歴年譜抄」が当てにならないので、他の文献で確認できる事績を中心に作成した。同年譜抄にある中国からの引き揚げ年、昭和22年は本人か家族から聴いたのだろうと推定したものの、採用はしなかった。その後、一昨年12月に開催された「吉永進一の日本オカルティズム史講座(第3回)」で昭和21年5月藤澤が日本で活動していたことが紹介されて、驚いた。残念ながら、詳しい内容は失念してしまった。
 今回、尚友倶楽部・原口大輔・西山直志編『松本学日記〈昭和十四年~二十二年〉』(芙蓉書房出版、令和3年6月)にも、昭和21年における藤澤の動向を発見した。

(昭和二十一年)
七月二十七日 土
午后二時より工業クラブ講堂にてドクター・ワーナー氏の講演会をCECにて催す。宣伝不十分の為め聴衆は五十名位なり。然しいかにも落付いたよい会合だった。ワーナー氏も腰かけたまゝいゝ気持で話された。藤沢親雄君が翻訳した。よい話だった。

 「CEC」は、同年3月21日の条によると松本が創設した「Cultural Exchange Club(文化交流倶楽部)」である。藤澤がいつ引き揚げたのかは不明であるが、おそらく引き揚げ後間もない時期から色々活動していたことがうかがえる。 
 近年、「上西亘「藤澤親雄の国体論ーー戦前期を中心にーー」『昭和前期の神道と社会』への補足 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように藤澤に注目する人が増えてきた。『立命館大学人文科学研究所紀要』129号、令和3年12月に「「国際的民本主義」から「人類の祖国日本」へ:藤澤親雄の国際秩序観」(CiNii 論文 -  「国際的民本主義」から「人類の祖国日本」へ : 藤澤親雄の国際秩序観)が掲載された中井悠貴氏もそうである。論文に先立つZoomでの発表によると、学部生の頃から藤澤の事を調べていたそうで、頼もしいかぎりである。引き続き戦後も含めた藤澤の全貌に迫っていただきたいものである。
f:id:jyunku:20220112200351j:plain

明治44年清国人留学生黄尊三も倣った加藤咄堂立案の『修養日記』

f:id:jyunku:20220107161002j:plain
 黄尊三著、さねとうけいしゅう・佐藤三郎訳『清国人日本留学日記:一九〇五ー一九一二年』(東方書店、昭和61年4月)に、『修養論』(東亜堂書房、明治42年4月)の著者である加藤咄堂が立案、修養会が編纂した『修養日記』が出てくる。

(明治四四年)
(略)一月一日(略)
修養日記に倣う (略)朝食後、外出し加藤咄堂編の修養日記を一冊買う。加藤は日本有数の修養家で、修養会を創設し、会員は千余人、みな積学篤行の士である。会の中に編集部を設け、人生の修養に関する本を編集しており、この日記は修養会編集部で発行したもの。日記の重要部分は、外的生活・内的生活・読書・社会雑事の各種に分かれており、僕もこれに倣って記してゆくことにする①。
〈外的生活〉夕食後、鄧皋生君と外に散歩にゆく。冷い風が骨まで浸みるようで、歩く人も少い。街は異常に静寂、ついでに少留の所に行くと、友人達が集っていた。九時までのんびり話し、一〇時に就寝。
注① こうした形式の記述は、一月の末頃までしか続いていない。

 本書の「まえがき」(佐藤)によると、黄は明治16年生まれで、明治38年日本に派遣される公費留学生に選ばれ来日したが、「文部省留学生取締規則事件」のため清国人留学生が一斉退学し、一時帰国。翌年再来日し、当時は明治大学法学部に在学中であった。
f:id:jyunku:20220107161747p:plain
 黄は、明治44年に加藤の『修養日記』を買っている。ただし、「倣う」とあるので、『修養日記』そのものは使わなかったようだ。『修養日記』は、加藤『読書法』(東亜堂書房、明治43年4月)の巻末広告によると、明治43年から刊行された。需要はあったようで、加藤『運命論』(東亜堂書房、大正3年8月)には大正3年版の広告が出ている。
f:id:jyunku:20220107161824p:plain
 『修養日記』の実物を見てみたいものだが、国会図書館サーチではヒットしない。『日本の古本屋』の出品記録にもない。国際基督教大学の「福田秀一日記コレクション」(WEKO - 国際基督教大学リポジトリ)にも所蔵なし。残らないものですね。特に加藤の「日記と修養」「日記の中より」が掲載されているという大正3年版が見てみたい。
 日記は自由に書けることに意味があると思う。『修養日記』が「外的生活」と「内的生活」を区分して書かせるのは、修養の実践という意味があるのかもしれない。しかし、黄の日記が長続きしなかったように、やはり日記は自分の好きなように書けないと不便だろう。
 

大正期に『江原小弥太個人雑誌』と『橋富光雄個人雑誌』の表紙を描いたマヴォイスト牧寿雄

f:id:jyunku:20220103200124j:plain
 文庫櫂から『江原小弥太個人雑誌』15号(大正15年4月)を入手。マヴォイスト牧寿雄が表紙を描いた創刊号(大正14年2月)は、「大正12年装幀家としてデビューしていたマヴォイスト牧寿雄ーー五十殿利治「関西『マヴォ』について:牧寿雄と『マヴォ』関西支部」への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。今回入手した号も、サインはないものの牧による可能性がある。というのも、白抜き文字の部分にそれらしいメッセージが隠されているからである。「MAVO」、「構成」「牧 雄」。文字を組み合わせると、マヴォイストの「牧寿雄」が浮かんでくる。そのほか、「江 小弥太」という組み合わせもある。
f:id:jyunku:20220103200135j:plain
 また、「日本の古本屋」の出品情報によると、12号(大正15年1月)の表紙は同じくマヴォイストの村山知義である。マヴォイストではないが、国会図書館デジコレで見られる10号(大正14年11月)の表紙は、岡本一平による江原の似顔絵である。『江原小弥太個人雑誌』は、注目すべき雑誌ですね。
 更に、牧はもう一つの個人雑誌の表紙も描いていた。「日本の古本屋」の出品情報によると、石神井書林が『橋富光雄個人雑誌』創刊号(大正12年12月)と4年9号(大正15年9月)を出していて、後者の表紙は牧の装丁としている。アジャンタ社という大阪の出版社の発行である。牧は、他にもアジャンタ社発行の本の装丁をしている可能性があるので、この出版社も要注意である。