神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

「日本の古本屋」の底力ーー長谷川匡俊『反骨の新聞人長谷川善治』(大空社出版)を読むーー


長谷川匡俊『反骨の新聞人長谷川善治:昭和初年『萬朝報』での言説と行動』(大空社出版、令和7年8月)に面白い記述。善治は、大正5年の出獄後生活のため秘蔵の書籍を背負い大道で古本の夜店を開いた。売れた金で書店から月遅れ雑誌や予約出版の古い本を仕入れ、毎晩荷車で運んでは夜店を張ったという。こんな善治が後の昭和3年萬朝報社の社長となっている。月遅れ雑誌を売っていた人が著名な新聞社の社長になるとは。なお、弟の長谷川良信は仏教系セツルメントで知られる「マハヤナ学園」の創設者で、近代仏教研究者の皆様は御存知だろう。また、善治は著者匡俊氏の伯父(良信が匡俊氏の父)に当たる。
ところで、本書52・53頁のコラムで善治の自叙伝『発売禁止:小説』(忠誠館書店、大正15年10月)について、「発行後一世紀を経た現在では入手困難で、全国九〇〇の古書店の在庫六〇〇万部の書籍が閲覧できる「日本の古本屋」等のサイトでも、検索できない稀覯本である」としている。しかし、現在(令和8年7月13日)検索すると、とらや書店、西田書店と古書転蓬の3店が出品している。更に、匡俊氏が「日本の古本屋」の初期設定である「在庫ありのみ」のチェックを外して検索したかは不明だが、外して検索すると、けやき書店とケルン書房の2店が出品して売り切れたことがわかる。「日本の古本屋」、畏るべし。その底力は侮れない。
また、匡俊氏は荒井真理亜「昭和期の『萬朝報』についてーー萬朝報社社長・長谷川善治の大日本雄弁会講談社社長・野間清治宛書簡の紹介」*1に「大正一五年十一月十五日発行で、五版を重ねていた」とあることを挙げている。そして、10月30日の初版発行から1ヵ月半で5版を重ねたのであれば相当の反響が寄せられた結果と考えられ、新たな驚きとも記している。「日本の古本屋」に出品された5冊の記録を見ると、3冊が5版で残る2冊は増版の記載が無いので初版と思われる。2~4版の発行は確認できない。こういう途中の版次が飛んでいる現象を戦前は幽霊版と、近年では浅岡邦雄先生が「版数とばし」と呼んでいたらしい。これについて、書物蔵氏が『近代出版研究』創刊号(皓星社発売、令和4年3月)に「「幽霊版」(版数とばし)は大正初期に始まった?」を寄稿している。それによると、販売政策から虚偽の版数を付けて販売したり、例えば200部を以て1版とし初版1000部を刷る際に奥付を5版とされるようなことがあったという。奥付の表記は、必ずしも当てにならないわけである。





*1:『国文学』82号(関西大学国文学会、平成12年3月)

幸野楳嶺門下の鵜飼豊三郎と投稿雑誌『明進新誌』


今朝のNHKラジオ「著者からの手紙」に『伝説の出版社博文館』(筑摩書房、令和8年3月)の著者堀啓子氏が出ていた。聞き逃し配信は、「プレーヤー | NHK ONE らじる★らじる」。同書を見てみると、25・26頁に後に博文館を創業する大橋佐平が長岡で創刊した『北越雑誌』と東京の製紙分社が創刊した『潁才新誌』が対比されていた。
後者の『潁才新誌』については、『近代出版研究』第5号(皓星社発売、令和8年4月)に「東の『潁才新誌』と西の『明進新誌』ー明治期投稿雑誌の周辺」を寄稿したところである。明治10年3月に創刊された『潁才新誌』に続き同年11月京都で創刊された『明進新誌』に注目したものです。具体的には、京都府画学校北宗の生徒で後に中退して幸野楳嶺の画塾に移る鵜飼豊三郎(号雅山)が同誌復刊第1号(明治13年11月)に絵を投稿していたことに注目しました。
拙稿では、『潁才新誌』に関する先行研究として、前田愛、弥吉菅一、齋籐希史、今田絵里香各先生のほか、国文学研究資料館編『文体史零年:文例集が映す近代文学のスタイル』(文学通信、令和7年3月)の倉田容子「「同胞姉妹に告ぐ」と『潁才新誌』ーー一八八〇年代前半における政治とジェンダーをめぐる表現史の水脈」を挙げました。これについて、稲岡先生から上笙一郎が挙がってなかったねと指摘をいただきました。これはその通りで、『潁才新誌』の復刻版(不二出版)の上「『潁才新誌』解説ーー日本近代化の揺籃として」は勿論読んではいましたが、挙げるのを失念していました。

脇清吉のワキヤ書房に通っていたグラフィックデザイナー金野弘の展覧会


6月26日の京都新聞に京都工芸繊維大学美術工芸資料館で開催中の「旅するこころをのせた金野弘の観光ポスター」の紹介記事(田中恒輝記者)。7月11日まで開催で、私も既に観ている。金野弘と言っても記憶に無かったが、拙ブログ「『京都吉田忠商報 きもの』へ寄稿した作家・詩人達ー大阪高島屋の今竹七郎と吉忠の上田葆の時代ー - 神保町系オタオタ日記」で言及していた。『京都吉田忠商報 きもの』のカットを描いたようだ。
資料館の展示で驚いたのは、金野が工繊大の前身の一つ京都高等工芸学校図案科に入学後に正門前へ開店した古書店ワキヤ書房*1に通っていたことである。パネルや展示されていた『碑:脇清吉の人と生活』(脇清吉の碑をつくる会、昭和42年9月)の金野「脇さんと初めて会ったころ」にその旨記載があった。『碑』は読んだはずだが、これまた記憶に無かった。困ったものである。
また、脇と今竹七郎の推薦で金野は『プレスアルト』の編集を行ったとも展示にあった。これは、復刻版(柏書房)で調べてみると第25号(プレスアルト研究会、昭和14年3月)に「編輯は金野弘(大阪ウエムラ研造社・圖案部)」とある。同誌については、「大阪古書会館で脇清吉の『プレスアルト』77号(プレスアルト会、昭和24年)を - 神保町系オタオタ日記」参照。
今回の展示は、学生時代、大阪髙島屋宣伝部時代の作品や戦後の国鉄、関西汽船の観光ポスターであった。金野の日記がどこかに残っていれば読んでみたいものである。

*1:金野弘は、「脇さんと初めて会ったころ」『碑:脇清吉の人と生活』で「ワキヤ書店」と誤記しているが、ワキヤ書房が正しい。

俳人鈴鹿野風呂が見たオキュパイド・ジャパンの京都占領軍



高知県の本山町立大原富枝文学館で、「弾圧された俳人たちー暮石ゆかりの五人展ー」~7月26日が開催中。昭和15年の『京大俳句』弾圧以降の新興俳句弾圧事件に光を当てた展示である。これで5月30日の京都新聞で樺山聡記者による鈴鹿野風呂の日誌翻刻の続篇(昭和19~22年)*1が出たとの記事を思い出した。野風呂は、京大三高俳句会の『京鹿子』の創立メンバの一人で、昭和8年『京大俳句』創刊に際し顧問の一人となった。ただし、俳句弾圧事件の直接の被害者にはなっていない。
『続俳諧日誌』(鈴鹿野風呂記念館京鹿子発行所、令和7年3月)を読んでみた。俳諧日誌とか短歌日記というと創作の経緯や作品そのものが中心で、私的には読み物としては面白くない。しかし、本書は戦時下の雑誌統廃合や大丸の古本市に関する記述など、読み応えがあった。今回は、野風呂が見た京都における占領軍の様子を紹介しよう。

(昭和廿年)
十月十九日
(略)楽友会館は進駐軍に占められ、一条通の基督青年会館の図書室にて、いはほ氏の斡旋にて今後開く。(略)

戦前楽友会館で開かれていた句会が、会館の接収で利用できなくなったため基督青年会館に移したことを表した記述である。戦前の状況としては、例えば昭和20年4月6日の条に「新柳を風なぶるを見ながら楽友会館蜻蛉会」とある。昨年開館100周年を迎えた楽友会館については、「京都帝国大学楽友会館の絵葉書6枚セットを寸葉(すんよう)さんから - 神保町系オタオタ日記」参照。残念ながら、100周年のイベントは無かったか。

(昭和二十一年)
一月四日
(略)羽子日和。二、三年長袖の美々しき衣をきることなかりしためか、乙女らはいかにもうれしさうに晴着をきて、街路に羽子をつく。大通も横町も空地。そのすがたを進駐軍がかめらにをさめてゐるなごやかさ。
東山のみどりうしろ羽子高し
ジープ過ぐ街にひろがり羽子をつく
(略)

五月十四日
(略)嵐山下車。三船祭。(略)昔日の如く三十からの藝、それ‘’\/の舟は出ぬも絲竹船、謡曲船、俳諧船等鷁首の歌をかこんでみやびを尽す。進駐兵も物珍しげに撮影。(略)

占領軍による撮影を目撃した野風呂による記録である。「戦後京都の「色」はアメリカにあった!」を思い出しますね。衣川太一コレクションに羽根突きをする少女や三船祭の写真は含まれているだろうか。

*1:昭和7~12年分は『俳諧日誌』巻1(京鹿子文庫、昭和38年12月)として、昭和13~17年分は『俳諧日誌』巻2(京鹿子文庫、昭和39年12月)として刊行されている。昭和18年の日記が存在するのかは不明。

[トンデモ]藤澤親雄と刎頸の友だった日独同志会理事長松本德明


藤澤親雄や黒田禮二が参加した日独同志会の理事長だった松本德明という注目すべき仏教者がいる。私が松本の名前を知ったのは、小見山登編『創造的日本学:藤沢親雄遺稿 附諸家追悼・随想録』(日本文化連合会、昭和39年2月)の松本「親友藤沢親雄君」だった。そこで、松本は次のように書いている。

(略)私が昭和八年、ドイツから帰えり、約半年滞在して再びドイツに渡ったその間に、故松岡均平男爵に紹介されて君に会ったのがそもそも君を知る最初の機会であった。それ以来、君とは刎頸の友といってよいか、水魚の交わりと云うべきか、全く特別の友情を以って交際を続けた。戦前戦時、何事も相談し、また相談されて暮した。(略)

次に松本の名に出会ったのは、「岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』(慶應義塾出版会、平成17年3月)にぶんなぐられる。 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』(慶應義塾大学出版会、平成17年3月)である。同書199頁によれば、昭和11年12月の日独同志会創立時に松本、藤澤、黒田は世話人で、理事制度が導入された12年11月には松本が理事長になっている。215頁には、松本の略歴が挙がっていた。それによれば、明治31年広島市の浄土宗寺院の長男として生まれ、京都仏教専門学校・東京宗教大学(大正大学)研究科を経て、浄土宗から派遣されて海外留学、ボン大学で哲学博士号を取得、同大学で講師・名誉教授として東洋学を教えた。昭和11年帰国、戦後は大正大学理事長などを務めた。より詳しい経歴はその典拠である中村元・武田清子監修『近代日本哲学思想家辞典*1』(東京書籍、昭和57年9月) にある。国会デジコレで読んで見ると、昭和2年セイロン島(スリランカ)で南方仏教研究ののち、ボン大学哲学部に入学したことが分かる。
そう言えば、昭和2年ハイデルベルク大学留学のため渡欧する友松圓諦の日記*2に松本が出てくることを思い出した。

(昭和二年)
十一月十六日(水)
早朝より腹痛、午前ははげしい頭痛、午後五時迄ねる。七時半に松本徳明、ニヤナチロカきたる。仲山健吉はここで下りる。八時半のランチで「みかど」へゆく。南部慶三君のところへとまる。夜二時迄飲み四時迄かたる。❲セイロンか❳

❲ ❳は、編者による注

更に、最近読んだ浄土宗「戦時資料」に関する委員会編『浄土宗「戦時資料」に関する報告書』(浄土宗平和協会、令和5年7月)には、戦時中の松本が出てくる。

66頁 昭和12年10月24日 精神動員時局大講演会(兵庫浄土宗青年会聯盟・兵庫浄土宗布教研究会) 東極楽寺
67頁 昭和14年8月25日~27日 全浄土宗青年会聯盟幹部講習会(知恩院) 「国家総力戦と国際情勢に就て」
111頁 昭和18年9月7日~11日 第82回教学高等講習会(東京・浄土宗務所) 「最近の国際情勢」

戦時下、松本が仏教界で国際通として講演会に招かれたことが分かる。岩村著214頁によれば、松本は太平洋戦争中は海軍嘱託としてインドネシアやフィリピンに軍政視察のため派遣されたともある。戦時中の活動については、より詳しい調査が必要だろう。偽史運動に深入りしていった藤澤を、日独同志会の同志で「何事も相談し、また相談され」たという松本はどう思っていただろうか。松本については、今後も注目していきたい。

(参考)手塚和彰『日独伊三国同盟の虚構:幻の軍事経済同盟』(彩流社、令和4年7月)123頁にヒトラー参りの例として、「ニュルンベルク・ナチ党大会への参加のため、九州日独同士[ママ]会の松本徳明(ボン在住)、藤沢親雄教授などの訪問(一九三七年九月九日付、東京発電)があった。もっとも彼らに対してヒトラー側近は慎重かつ細心な取扱い をしており、日本側の紹介があるからといって、ヒトラーは簡単に面会していない」 とある。松本は帰国していたはずで、よく分からない。

*1:岩村正史著では、『近代日本思想家辞典』と誤記。

*2:山本幸世編『友松圓諦日記抄:道をききてこころやすらかなり』(真理舎、平成元年11月)。

大淵小華主宰の仏教児童雑誌『日曜学校』(法藏館)


手元に法藏館の社史『仏教書出版三六〇年』(法蔵館、昭和53年11月)がある。自分で買ったわけではなく、川島昭夫先生の遺品からいただいた物である。巻末に「出版総目録」(嘉永7年~昭和53年)のほか、「広告掲載書目」「全集・叢書一覧」「刊行雑誌目録」がついていて、役に立つ。このうち、「刊行雑誌目録」を挙げておく。

30誌挙がっている。ただし、『講壇』は『教壇』の、『仏教生活』は『仏教』の、『東方』は『教学』の改題誌なので、実質的には27誌である。『霊界』(大正2年1月~不明)が気になりますね。この表には挙がっていないが、『大谷大学研究年報』(昭和17年6月創刊)*1も刊行雑誌に入れてよいだろう。
表に挙がる雑誌のうち、今回は家蔵の『日曜学校』を紹介しておこう。第8巻第3号(大正8年3月)、16頁。編輯兼発行印刷者は西村七兵衛とあるが、実務は表紙右下に「主宰」とある大淵小華が行ったと思われる。内容は、柏樹玲花「嬉しかつたこと」、小華「乞食の絵」、岡寺興良「桃の咲くまで」、岸本鬼史「お節句」、「読者の世界」などである。目次には「絵・・・小華」とあり、表紙絵や挿絵も小華が描いたようだ。更に、小華が創案・立案した「クミタテ花御堂」「出席スタンプ」「聖徳太子伝カード」「ののさんカード」の広告も載っていて、小華の多彩な才能がうかがえる。
この小華の経歴が、『児童と宗教』第4巻第2号(大谷派本願寺社会課、大正14年2月)の「追悼大淵小華氏」に載っていたので、要約しておこう*2

大淵小華
明治26年10月11日 出生
大正2年9月 真宗大谷大学へ入学
大正6年4月1日より雑誌『日曜学校』を編輯
大正7年7月 真宗大谷大学卒業
大正8年2月 童話研究会を創立し『新オトギ』を出す
大正10年11月 宗教演劇社創立
大正12年1月 東本願寺社会課嘱託
同年4月 『親鸞聖人エバナシ』を出す
大正13年11月17日 示寂す

小華については、森覚先生が令和6年11月26日絵本学会で「大淵小華『おしやかさまー誕生物語ー』の研究ー岐阜県大垣市における児童伝道と仏教絵本」を発表している。より詳しい調査をされておられるかもしれない。

*1:現在は、大谷学会発行

*2:引用は、不二出版の復刻版第3巻(平成25年12月)による。

昭和12年大阪みやげ品展覧会に協力した蒐集家たち


みやこめっせの古本まつりでは、竹岡書店から『大阪みやげ品展覧会出品一覧』を購入。昭和12年10月1日~7日心斎橋そごうで開催された展覧会への出品リストである。主催は、大阪市と大阪土産品協会である。出品は、「今のみやげ品/明日のみやげ品」(食料品之部、一般之部)、「昔のみやげ品」、「参考品」の3つに別れている。
最近の展覧会出品リストではミュージアムや法人以外の所蔵者は、「個人蔵」とだけ記載される場合が多い。しかし、今回入手したリストは戦前の物なので個人名が記載されていて楽しめる。芳本倉太郎*1、大阪やつで会*2、川崎巨泉*3、三宅吉之助*4など趣味人の名前が散見されたので購入、1100円。買った時は気付かなかったが、同じ物が2枚入っていた。最も所蔵していそうな中之島図書館のOPACや川崎巨泉の人魚洞文庫を有するおおさかeコレクション、更には大阪歴史博物館の資料検索ではヒットしない。貴重な史料だろう。
ところで、X(旧Twitter)で検索したら号外研究家・小林宗之氏(@kobashonen)が「大阪みやげ品展入選」との記載がある太閤陣中枕(柾木商会)の引札を挙げていた。私が入手した一覧には、南区長堀橋筋2ノ36の柾木トミが太閤陣中枕を出品していて一致する。ただし、後援者に大阪商工会議所が含まれていて、小林氏の引札に記載された後援者と異なっている。そのため、昭和12年の大阪みやげ品展覧会に入選した時の引札とは断定できない。

*1:芳本倉太郎は、一般之部に「浪花名所 手拭」を出品

*2:大阪やつで会は、西田亀楽洞、河本紫香、粕井豊誠、中西竹山、村松百兎庵、梅谷紫翠、青山一歩人、塩山可圭、芳本倉多楼の連名で80点超を昔のみやげ品として出品

*3:川崎巨泉は、「肉筆絵画、色紙」25点を参考品として出品

*4:三宅吉之助は、「浪花自慢名物盡(錦絵)・浪花名所錦絵・大阪名物レツテル」を参考品として出品