神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

地理学者で大阪外国語学校初代学校長の中目覺宛絵葉書ーマヤルカ古書店からー


 今日(8月31日)で阪神古書ノ市が終了。私は、初日(8月26日)のんびりと1時間遅れの大名出勤?でした。マヤルカ古書店が絵葉書を出していたが、2人張り付いていたので見られなかった。そこで、今回は藤井大丸の最後の古本市でマヤルカ古書店から入手した絵葉書を紹介しよう。
 大阪市天王寺区の中目覺宛絵葉書で、消印は1927年5月7日ボンベイ中央郵便局である。冒頭に挙げた写真は、その裏面である*1。学生時代から小樽手宮洞窟の古代文字の研究者として中目を知っていたので、驚いて購入。発信者は、「孟買 中川修吾」である。内容は、先生にご無沙汰していること、当地は夏季だが涼風が椰子の葉をそよがして割合凌ぎ易いことなどを書いている。
 中目の経歴は、Wikipedia参照。ただし、参考文献としてネットで読める石田寛「エリート教授中目覺ーー二番目に早い高等教育地理(広島高師)プログラム創始者ーー」掲載の略年譜を挙げながら、大阪外国語学校初代学校長就任を戦後のこととしてしまっている。正しくは、大正10年12月から昭和8年9月まで学校長であった。
 差出人の中川は、国会デジコレで読める『大阪外国語学校一覧:自昭和3年至昭和4年』(大阪外国語学校、昭和3年12月)に本科印度語部第1回卒業生(大正14年3月19日卒業)に「孟買 日本人倶楽部 中川修吾」として出ている。また、前記中目の年譜に昭和2年5月東アフリカ、インド、蘭領インド、インドシナへ出張とあるので、中目の方からインドへの出張について事前に連絡をしていたのかもしれない。
 ところで、中目の年譜に昭和15年3月から18年4月まで北京興亜学院長とあるのに注目した。「藤澤親雄と三浦関造 - 神保町系オタオタ日記」で言及したとおり、藤澤親雄は昭和18年北京に興亜世界観研究所を開設している。更に、藤澤には「高木彰彦『日本における地政学の受容と展開』(九州大学出版会)に藤澤親雄とスメラ学塾 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したとおり地政学に関心を持っていた時期がある。2人が接触していたとすれば面白いのだが、それは無いかな。
 

*1:写真を挙げた中目覺「北海道手宮洞窟靺鞨語墓誌(下)」が載る『歴史と地理』第1巻第7号(大鐙閣、大正7年5月)は、数年前に入手したものである。

貸本仕様の講談本の魅力ー大阪公立大学奥野久美子教授の講演を聴いてー


 先日は、大阪公立大学森之宮キャンパスまで講演会「都市大阪の豊かな歴史像の再構成を目指して」を聴きに。前半の岸本直文「大阪歴史文化研究の拠点構想」と奥野久美子「四台目旭堂南陵氏旧蔵の講談本の寄託について」を拝聴。寺田先生やヲガクズさんもおられたらしい。
 岸本先生の講演では京都府立大学文学部歴史学科が随分持ち上げられていたが、関係者は会場にいただろうか。また、奥野先生の講演は廊下に展示された講談本と共に刺激的な内容でした。特に寄託された講談本に付けられた貸本屋のカバーに注目していたのが良かった。というのも、「本書は、貸本屋旧蔵書を軸として、明治時代の貸本文化に迫る一つの試みである」(11頁)という松永瑠成『明治の貸本屋さん』(平凡社、令和8年2月)を読んだばかりだったからである。また、実は私も明治期の貸本屋に興味があって、一時期大阪古書会館で古本横丁が和本300円均一台を出していた時に和本に紛れていた貸本仕様の洋装本を買っていたことがあったためである。冒頭に挙げた写真がそれである。その後値段は400円に値上げされ、最近は和本均一の出品自体が無くなっている。
 奥野先生が展示した松月堂魯山口演・吉田松茵速記『剣客小松一卜斎』(樋口隆文館、明治45年6月初版・大正3年5月再販)には貸本屋のカバーがかけられ、参天堂薬房の「大学目薬」の広告が印刷されていた。この貸本屋のカバー中の広告については、四代目旭堂南陵『続々・明治期大阪の演芸速記本基礎研究:大阪芸術大学博士論文・京坂(阪)における講談の歴史的検証とその周辺』(たる出版、平成23年5月)196・197頁に記載がある。貸本屋の厚紙カバーにはタイアップ広告、講談本の文中や表紙・木版口絵には商品名が載っているものがあり、ずべてが薬種商の広告であるという。また、この種のカバーは出版社が貸本屋による書籍購入の際にサービスで付けたものかと推測している。更に薬種商と出版社の関係について、『大阪出版六十年の歩み』に載る脇坂要太郎と尾崎秀樹の対談に注目している。

尾崎 当時の直販方式というと、どうなりますか。
脇坂 つまり、大阪の昔からのしきたりですわな。明治三十年以前は大阪の出版社と名のつくより、むしろ本屋というんですが、卸兼出版ですね。全て薬と兼業でした。本屋といえば必らずどこそこで何々丹とか萬金丹とか、薬の名前が無かったら本が出せなかった。
そういう時代があったんです。薬屋といえば本屋であり、本屋といえば薬屋である。というふうな傾向なんですね。今でもそういうふうに道修町あたりで立派にしておられる薬屋なんか、昔本屋の仲間だった。(略)

 大阪の本屋がすべて薬屋と兼業だったというのは、検証されているのかな。

 家蔵の講談本に薬の広告が印刷された貸本屋のカバーは無い。しかし、玉田玉秀斎口演・山田酔神速記『碓井峠大仇討』*1(中川玉成堂、明治43年11月再版)に丹平商会*2の「健脳丸」と「毎月丸」などの広告が2頁にわたり載っていたので紹介しておこう。位置は、口絵*3と本文1頁の間に当たる。この広告は、前記南陵が記載した広告のパターンとは異なる。

*1:三代目旭堂小南陵『明治期大阪の演芸速記本基礎研究:付録・東京速記本目録』(たる出版、平成6年8月)の「中川玉成堂発行書目」や「速記本総目録」には「塙太郎武勇伝」に続き、それぞれ「同碓井峠大仇討」「塙太郎碓井峠大仇討」とある。しかし、主人公は塙太郎ではあるが、タイトルは『碓井峠大仇討』が正しい。

*2:後に安井仲治や手塚粲(手塚治虫の父)らが所属する丹平写真倶楽部を生むことになる丹平商会ですね。

*3:口絵の裏打ちに4人の氏名が載る「県会議員選挙人名簿」が使われている。なお、貸本屋(赤穂町の越智精栄堂)のカバーも、「明治十八年一月/質入書入割判簿/浅間村」と「明治廿一年十一月/登記願書綴込帳/豊岡治安裁判所八鹿出張所」という簿冊の表紙の再利用である。貸本屋が屑屋から買って再利用したのだろう。

萩原朔太郎は群馬県人会に出席したかー『群馬』昭和15年2月号(群馬県人社)を読むー


 手元に『群馬』第7年第2号(群馬県人社、昭和15年2月)がある。どこで買ったかは、不明。朔太郎通信さん(@Sakutaro1917)にウケるネタがあるかもと買ったようだ。題字は小室翠雲、表紙絵は横堀角次郎、編輯兼発行印刷人は高田せい*1。目次を挙げておく。

 東京における群馬県人会の記事・口絵写真*2や県人消息などが載っている*3。残念ながら、朔太郎は出てこなかった。ただし、萩原良三(安中会)、萩原恵雄(神田県人会)、萩原直次・萩原忠次郎(城南県人会)という萩原姓の人物が集会の記事中に出てくる。この中に朔太郎の親戚は、いないかな。
 「社告」として、顧問、名誉会員、特別賛助会員、賛助会員の氏名が載っているので、これも挙げておこう。

 顧問のうち野間左衛子は、講談社第3代社長。特別賛助会員のうち峰岸米造は、「夏目漱石夫人鏡子が通った峰岸米造邸における静坐会のその後 - 神保町系オタオタ日記」で言及した岡田式静坐法の実践者で元東京高等師範学校教授ですね。
 ところで、群馬県人の大手拓次は、早稲田大学第三高等予科時代に県人会に出席したことが確認できる*4

(明治三十九年)
十二月八日 土
 (略)
 午後四時よし熊の早せだ群馬県人会に行つた。十時頃帰る。

(明治四十年)
五月十一日 土 ❲天候❳はれ
 (略)
 心地よい日、群馬県人会があつたが行かない(略)

 朔太郎は、昭和8年1月頃から亡くなる17年5月まで世田谷区代田の自宅に住んでいた*5。県人会に出席することはあっただろうか。

*1:奥付の表記は「高田せい」だが、城南県人会新年総会の記事には「高田誠」とある。

*2:安中会の口絵写真に「酒井勝軍ならぬ、もう一人の酒井なる酒井温理 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した酒井温理が「元教諭酒井先生」や「酒井温理」として出ていて驚いた。

*3:生方賢一郎「名士交遊軟尖集」は、加藤幸重郎慶應大学教授の話である。

*4:『大手拓次全集』第5巻(白凰社、昭和46年8月)から引用した。

*5:『萩原朔太郎全集』第15巻(筑摩書房、昭和53年4月)の年譜による。

『井上円了センター年報』第34号(東洋大学井上円了哲学センター)に神保町のオタ


 今年も「神保町のオタ」に言及する紀要類がありました。『井上円了センター年報』第34号(東洋大学井上円了哲学センター、令和8年3月)の石井慶太「境野黄洋が書き込んだとされる『仏教統一論第一編大綱論』解題と翻刻」である*1。拙ブログ「第4代東洋大学学長境野黄洋旧蔵の村上専精『仏教統一論』(金港堂、明治34年)を発見!ーーオリオン・クラウタウ編『村上専精と日本近代仏教』(法藏館)に寄せてーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した境野黄洋旧蔵の村上専精『仏教統一論第一編大綱論』(金港堂、明治34年7月)への書き込みの翻刻と解題である。

 (略)ネット上で次のようなブログを発見した。「神保町系オタオタ日記自称「人間グーグル」」である。(略)本翻刻は神保町のオタオタ氏*2に関心があることを伝え、書き込みのある『大綱論』を貸出していただいたものであり、返却を予定している。快く貸していただいた氏に感謝の意を表したい。(略)

 お役に立てたようで幸いです。東洋大学の学祖円了については妖怪学から関心を持ち始め、『井上円了関係文献年表』(東洋大学井上円了研究会第三部会、昭和62年2月)*3や雑誌『井上円了研究』なども入手したりしました。その円了の名を冠した研究機関の年報に名前が出るとは光栄です。ありがとうございました。
 なお、石井氏は、6月に「鈴木大拙の『宗教研究の事実』とウィリアム・ジェームズ」で「第38回比較思想学会研究奨励賞」を受賞されています。益々の御活躍を祈念しています。

*1:東洋大学 井上円了哲学センター | Inoue Enryo Philosophy Center - 研究誌 井上円了センター年報」で読めます。

*2:ブログ「神保町系オタオタ日記」の管理人の正式名称としては、「神保町のオタ」が正しい。

*3:早川図書から買った気がする。

「日本の古本屋」の底力ーー長谷川匡俊『反骨の新聞人長谷川善治』(大空社出版)を読むーー


長谷川匡俊『反骨の新聞人長谷川善治:昭和初年『萬朝報』での言説と行動』(大空社出版、令和7年8月)に面白い記述。善治は、大正5年の出獄後生活のため秘蔵の書籍を背負い大道で古本の夜店を開いた。売れた金で書店から月遅れ雑誌や予約出版の古い本を仕入れ、毎晩荷車で運んでは夜店を張ったという。こんな善治が後の昭和3年萬朝報社の社長となっている。月遅れ雑誌を売っていた人が著名な新聞社の社長になるとは。なお、弟の長谷川良信は仏教系セツルメントで知られる「マハヤナ学園」の創設者で、近代仏教研究者の皆様は御存知だろう。また、善治は著者匡俊氏の伯父(良信が匡俊氏の父)に当たる。
ところで、本書52・53頁のコラムで善治の自叙伝『発売禁止:小説』(忠誠館書店、大正15年10月)について、「発行後一世紀を経た現在では入手困難で、全国九〇〇の古書店の在庫六〇〇万部の書籍が閲覧できる「日本の古本屋」等のサイトでも、検索できない稀覯本である」としている。しかし、現在(令和8年7月13日)検索すると、とらや書店、西田書店と古書転蓬の3店が出品している。更に、匡俊氏が「日本の古本屋」の初期設定である「在庫ありのみ」のチェックを外して検索したかは不明だが、外して検索すると、けやき書店とケルン書房の2店が出品して売り切れたことがわかる。「日本の古本屋」、畏るべし。その底力は侮れない。
また、匡俊氏は荒井真理亜「昭和期の『萬朝報』についてーー萬朝報社社長・長谷川善治の大日本雄弁会講談社社長・野間清治宛書簡の紹介」*1に「大正一五年十一月十五日発行で、五版を重ねていた」とあることを挙げている。そして、10月30日の初版発行から1ヵ月半で5版を重ねたのであれば相当の反響が寄せられた結果と考えられ、新たな驚きとも記している。「日本の古本屋」に出品された5冊の記録を見ると、3冊が5版で残る2冊は増版の記載が無いので初版と思われる。2~4版の発行は確認できない。こういう途中の版次が飛んでいる現象を戦前は幽霊版と、近年では浅岡邦雄先生が「版数とばし」と呼んでいたらしい。これについて、書物蔵氏が『近代出版研究』創刊号(皓星社発売、令和4年3月)に「「幽霊版」(版数とばし)は大正初期に始まった?」を寄稿している。それによると、販売政策から虚偽の版数を付けて販売したり、例えば200部を以て1版とし初版1000部を刷る際に奥付を5版とされるようなことがあったという。奥付の表記は、必ずしも当てにならないわけである。





*1:『国文学』82号(関西大学国文学会、平成12年3月)

幸野楳嶺門下の鵜飼豊三郎と投稿雑誌『明進新誌』


今朝のNHKラジオ「著者からの手紙」に『伝説の出版社博文館』(筑摩書房、令和8年3月)の著者堀啓子氏が出ていた。聞き逃し配信は、「プレーヤー | NHK ONE らじる★らじる」。同書を見てみると、25・26頁に後に博文館を創業する大橋佐平が長岡で創刊した『北越雑誌』と東京の製紙分社が創刊した『潁才新誌』が対比されていた。
後者の『潁才新誌』については、『近代出版研究』第5号(皓星社発売、令和8年4月)に「東の『潁才新誌』と西の『明進新誌』ー明治期投稿雑誌の周辺」を寄稿したところである。明治10年3月に創刊された『潁才新誌』に続き同年11月京都で創刊された『明進新誌』に注目したものです。具体的には、京都府画学校北宗の生徒で後に中退して幸野楳嶺の画塾に移る鵜飼豊三郎(号雅山)が同誌復刊第1号(明治13年11月)に絵を投稿していたことに注目しました。
拙稿では、『潁才新誌』に関する先行研究として、前田愛、弥吉菅一、齋籐希史、今田絵里香各先生のほか、国文学研究資料館編『文体史零年:文例集が映す近代文学のスタイル』(文学通信、令和7年3月)の倉田容子「「同胞姉妹に告ぐ」と『潁才新誌』ーー一八八〇年代前半における政治とジェンダーをめぐる表現史の水脈」を挙げました。これについて、稲岡先生から上笙一郎が挙がってなかったねと指摘をいただきました。これはその通りで、『潁才新誌』の復刻版(不二出版)の上「『潁才新誌』解説ーー日本近代化の揺籃として」は勿論読んではいましたが、挙げるのを失念していました。

脇清吉のワキヤ書房に通っていたグラフィックデザイナー金野弘の展覧会


6月26日の京都新聞に京都工芸繊維大学美術工芸資料館で開催中の「旅するこころをのせた金野弘の観光ポスター」の紹介記事(田中恒輝記者)。7月11日まで開催で、私も既に観ている。金野弘と言っても記憶に無かったが、拙ブログ「『京都吉田忠商報 きもの』へ寄稿した作家・詩人達ー大阪高島屋の今竹七郎と吉忠の上田葆の時代ー - 神保町系オタオタ日記」で言及していた。『京都吉田忠商報 きもの』のカットを描いたようだ。
資料館の展示で驚いたのは、金野が工繊大の前身の一つ京都高等工芸学校図案科に入学後に正門前へ開店した古書店ワキヤ書房*1に通っていたことである。パネルや展示されていた『碑:脇清吉の人と生活』(脇清吉の碑をつくる会、昭和42年9月)の金野「脇さんと初めて会ったころ」にその旨記載があった。『碑』は読んだはずだが、これまた記憶に無かった。困ったものである。
また、脇と今竹七郎の推薦で金野は『プレスアルト』の編集を行ったとも展示にあった。これは、復刻版(柏書房)で調べてみると第25号(プレスアルト研究会、昭和14年3月)に「編輯は金野弘(大阪ウエムラ研造社・圖案部)」とある。同誌については、「大阪古書会館で脇清吉の『プレスアルト』77号(プレスアルト会、昭和24年)を - 神保町系オタオタ日記」参照。
今回の展示は、学生時代、大阪髙島屋宣伝部時代の作品や戦後の国鉄、関西汽船の観光ポスターであった。金野の日記がどこかに残っていれば読んでみたいものである。

*1:金野弘は、「脇さんと初めて会ったころ」『碑:脇清吉の人と生活』で「ワキヤ書店」と誤記しているが、ワキヤ書房が正しい。