神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正期に哲学堂を散歩して井上円了博士に出会う秋田雨雀

f:id:jyunku:20210125174944j:plain
 『秋田雨雀日記』の特に大正期が面白い。著名な小説家、詩人、画家、劇団員は勿論、エスペランティストアナキスト、宗教家、オカルティスト、求道者、奇人・変人など何でも登場する。妖怪博士の井上円了も出てくるのである。たとえば、第1巻(未来社、昭和40年3月)。

(大正四年)
 九月二十二日
 きょうは小説着想の目的で哲学堂へゆく。井上博士がいた。しばらくぶりでいったので、いい気持だった。裸体でエスペラントのけいこをした。(略)
(大正五年)
 六月三日
 ひる、哲学堂へゆく。(略)だいぶ人がいっていた。(略)
(大正八年)
 四月九日
 (略)あまりにおいい天気なので、午後から哲学堂へゆく。風がなまあたたかく、野の地蔵尊や石仏を写生して歩いた。哲学堂で草のうえに寝ていた。いい気持ち。(略)
(戯曲「乞食の出産」着想。)
 五月二十五日
 (略)佐藤君と白鳥君が迎いにきたので、目白駅で、秋庭君、花柳君、若花君なぞといっしょになり、哲学堂へいった。蓮尾君とその友人が喜んで歓迎し、ごちそうしてくれた。いい心持に汗ばんだ。それから図書館の屋根や六賢堂に登り、物の字の池の草の上で日光にあたったり、話しをしたりして、讃迎軒*1に入り、会食し(略)

 「井上博士」は、断定はできないが、場所柄から井上円了と考えておこう。秋田は、小説や戯曲の着想を得ようと、哲学堂へ出かけていたようだ。そこで哲学堂の設立者である円了に出会えるとは、ついてる。
参考:哲学堂の沿革については、ネットで読める東海林克彦「哲学堂公園に関する造園学的考察」『観光学研究』13号,平成26年3月参照

*1:正しくは、鑚仰軒

日本におけるムー大陸受容史ーー「日本オカルティズム史講座」第4回への補足ーー

f:id:jyunku:20210123211146j:plain
 「日本オカルティズム史講座」第4回の吉永進一「日本のピラミッドと超古代の夢:1930年代」を拝聴。戦前のトンデモない人物はたいてい知っていると自負していたが、未知の怪しい人達が大分出てきたので驚いた。それでも、最も驚いたのは三浦関造の上海での活動の一端がわかる史料であった。
 さて、わしの専門分野(?)について、取りあえず補足しておこう。
・「日本におけるムー大陸受容史」・・・藤野七穂偽史と野望の陥没大陸ーー”ムー大陸“の伝播と日本的受容ーー」『歴史を変えた偽書:大事件に影響を与えた裏文書たち』(ジャパン・ミックス、平成8年6月)に詳しい。ただし、三好武二*1による日本最初の紹介と続く事例とする出口王仁三郎・木村錦洲・酒井勝軍・山根菊子までの間に幾つか抜けているので、これに加えた上で年表にしておこう。

昭和6年 チャーチワード『失われたムー大陸』の原書刊行
昭和7月8月7日 三好武二「失はれたMU(ルビ:ミユウ)太平洋上秘密の扉を開く」『サンデー毎日
昭和7年10月 友清歓真「日乃御鋼」中に「『舞(ルビ:ム)』トイフ光輝アル文化」(「日本における「ムー大陸」受容史 - 神保町系オタオタ日記」参照)
同年10月2日 三好武二「歴史の撹乱者MU MUの面影」『サンデー毎日
同年12月 荒深道斉*2『挙て磨け八咫鏡』(純正真道研究会本部)中に三好の記事への言及(末尾の写真と「契丹古伝と竹内文献を繋ぐムー大陸幻想ーー「言説のキャッチボール」で拡大する偽史大系ーー - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和8年10月 有賀成可「後にしるす」浜名寛祐『上古に於ける我が祖語の本地及垂迹』(東大古族学会)中に「ミユーの東漸文化」(「契丹古伝と竹内文献を繋ぐムー大陸幻想ーー「言説のキャッチボール」で拡大する偽史大系ーー - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和9年5月 木村錦洲『大日本神皇記』(皇国日報社)中に「ミユー大陸の陥没」
同年7月 沢田健『三種之神宝の略説と謹解』(曲肱堂)中に「ミユウ国」(「中山忠直と竹内文献 - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和10年3月 出口王仁三郎『玉鏡』(天声社)中に「去る頃の大阪毎日新聞に、イギリス人チヤーチ・ワード氏の長年の研究によつて最近驚くべき太平洋秘密が白日にさらけ出された」
同年11月 酒井勝軍『神代秘史』第3巻(国教宣明団)中に「ミウ国」
昭和12年10月 山根菊子『光りは東方より』(日本と世界社)中に「ミユ人」
(この他の動向は、藤野著を見よ)

・「灯台社」関係・・・これは山口瑞穂先生の御専門だが、補足しておこう。『特高月報』(昭和18年10月分)に明石順三の公判廷に於ける「不逞供述」が載っていて、八咫の鏡の裏にヘブライ文字が書いてあり、かかる鏡を持っていた者は猶太の娼婦で、ローマの迫害に堪えかねて極東に流浪し、日本を始めたと思われると供述したらしい。この日猶同祖論はある程度は小谷部全一郎の影響だろうが、小谷部は「娼婦」とは言っていない。その小谷部が晩年竹内文献接触していたことは、「大川周明とトンデモ本の世界(その3) - 神保町系オタオタ日記」参照。
f:id:jyunku:20210123194428j:plain

*1:経歴は、「50年後の太平洋と1万2千年前のムー大陸を夢見た三好武二 - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:最近気付いたが、「道斎」ではなく「道斉」

明治41年京都初の映画常設館電気館で活動写真を観る青年の日記

f:id:jyunku:20210122175035j:plain
 3月4日京都新聞に、藤森照信藤森照信のクラシック映画館』(青幻舎)の刊行記念イベントが徳正寺で開かれたという記事が載った。これまた、樺山聡記者だ。100年近く続いた新京極の映画館旧八千代館に関して、同寺住職の扉野良人氏が発見した大正2年の「大工職人の日記」に同館が10回も出てきて、藤森著にも引用されたとあった。この日記の存在自体は、書砦・梁山泊京都店の読書会で扉野氏から聞いていたものの、内容は知らなかったので驚いたものである。
 さて、実は私も活動写真を観ていた京都人の日記を持っている。「明治41年京都御苑内の京都府立図書館で法学を勉強する若者がいた - 神保町系オタオタ日記」で紹介した京都税務監督局に勤める青年の明治41・42年の日記である。文官高等試験を受験するために府立図書館で勉強する記述が多い中で、息抜きに芝居や活動写真を観ていた。そのうち、活動写真に関する記述を要約しておこう。

(明治四十一年)
八月二日 横田商会の活動写真を大虎座に見る中々愉快なりき
九月十三日 京極に出で電気館に活動写真を見
九月廿七日 京極電気館に活動写真を見る

 電気館はこの年新京極に開館した映画館で、京都初の映画常設館とされる。『京都府百年の年表』7巻(京都府)によれば、

明治41.2.1 新京極上ル仮設興行場を横田商会買受け活動写真常設館とする、電気館と改称(のち大乕座小林寅吉が本建築。9.12落成式、13日開場)。 日出2・1

 更に、『近代歌舞伎年表京都篇』5巻(八木書店)掲載の同年7月24日大阪朝日新聞京都附録には、

大虎座一座は新築劇場の落成するまで休み、旧大虎座は電気館と改称し椅子制度とし、二十三日より横田商会の販売写真試験場となる。第一回の写真は大虎座一座の喜劇『南瓜売』其他にて、毎月三回写真を取替ゆ。

 この2つの電気館の関係は、分からない。いずれにしても、この年に電気館という常設の映画館が京都にできたことは間違いないようだ。日記8月2日の条の「大虎座」は、おそらく「旧大虎座」の意ということになる。この日記は吉永さんからいただいたものだが、ど偉い日記だった。
参考:日本各地にできた映画常設館としての電気館については、ネットで読める上田学「映画常設館出現と変容ーー1900年代の電気館とその観客からーー」『アート・リサーチ』9巻,平成21年3月参照

名所旧跡の写真をバコバコ買う明治初期の写真コレクター斎藤月岑

f:id:jyunku:20210120192919j:plain
 明治初期の日記は、まだ江戸時代の延長の感じがあって、私の好きな人物や事物が登場しないのであまり読んでいない。しかし、たまにはと言うことで『斎藤月岑日記』10(岩波書店平成28年3月)を読んでみた。明治7・8年の日記である。印象に残るのは、戸長を辞めた明治8年は毎日のように「写真」や「写真絵」を買っていることである。たとえば、

(明治八年八月)
六日(略)虎の門へ参る、三省堂にて写真五枚、山王丁にて二枚買、楠公社・妙国寺・柳しま・一石橋・八百枩のうしろ・宮島・日光滝也(略)
七日(略)淡路町にて写真二買、浮御堂・ナホレヲン葬式図也(略)

 三省堂は同年12月1日にも出てくるが、著名な三省堂書店明治14年創業なので関係なさそうだ。斎藤は、店名と枚数だけでなく、写真の内容も記録している場合も多いので凄い記録だ。何枚持っていたのかと思ったら、

(明治八年八月)
八日(略)○写真四百四十八枚になる(略)

とあって、この時点では500枚ほど持っていたことが分かる。また、販売店の数も調べていた。

(明治八年十一月)
十八日(略)
○通新石丁・淡路丁・小川丁・九段下迄、写真絵売家廿三軒計に成る、

 『斎藤月岑日記』は貴重な史料だと思ったら、ネットで読める緒川直人「明治中期迄の写真舗顧客と写真蒐集家斎藤月岑ーー写真の大衆化の「受け手」論的一考察」『マス・コミュニケーション研究』82号,平成25年が既に活用していた。日記に出てくる写真舗について地域別に町名・名称をまとめたり、月岑が買った615枚の写真のうちタイトルが判明する278枚についてジャンル・タイトルをまとめてくれている。

分離派建築会と板垣鷹穂・堀口捨己編『建築様式論叢』の六文館主鹿島鳴秋(本名・鹿島佐太郞)

f:id:jyunku:20201225112037j:plain
 京都国立近代美術館で「分離派建築会100年 建築は芸術か?|京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto」開催中。前期は2月7日までで、後期は2月9日から3月7日まで。私は前期を既に観たが、見応えのある展示で後期も行きたくなるものであった。さて、図録162・163頁に板垣鷹穂・堀口捨己編『建築様式論叢』(六文館、昭和7年6月)から編者の「刊行にあたりて」が転載されていて、その末尾に次のようにあった。

 なほ、出版書肆六文館主の鹿島氏が、財界不況の折にもかゝはらず、此種の犠牲的出版を承諾され、且つ、編集者の我儘なる意向を許容されたることに就いても、此処に更めて敬意を表したいと考へる。

 調べてみると、「鹿島氏」は鹿島佐太郞で、小田光雄氏が「出版・読書メモランダム」の「藤澤衛彦と六文館『日本伝説研究』」で言及しておられる。御恵投いただいた『近代出版史探索V』(論創社、令和2年12月)所収。ありがとうございます。更に調査すると、小川未明『青空の下の原っぱ』(六文館、昭和7年3月)の「はしがき」に

 友人、鹿島鳴秋氏(六文館主)は、曽つて「未明童話集」発刊に際して、丸善に紹介の労をとられた人です。いまゝたかかる不況時代なるにもかゝはらず、爾後の作品を叢書の形式として、「新叢未明童話」の表題の下に、自から出版することを快約されたる(略)

とある。奥付の発行者は、東京市神田区甲賀町八の鹿島佐太郞である。
 また、李家正文『厠(加波夜)考』(六文館、昭和7年9月)の「出版の言葉」にも「六文館主鹿島鳴秋氏」への謝辞が述べられている。これで、鹿島佐太郞=鹿島鳴秋と判明した。
 同名の鹿島鳴秋は、童謡詩人・作家・編集者として知られる人物である。上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版、平成17年9月)や『日本児童文学大事典』第1巻(大日本図書、平成5年10月)に立項されていた。明治24年5月9日深川生まれ、昭和29年6月7日没。本名佐太郞。小学新報社を興し、雑誌『少年号』や『少女号』を編集、自らも執筆した。「浜千鳥」(弘田龍太郎作曲)や「お山のお猿」(同)などの童謡が著名のようだ。昭和10年代に満洲に渡り、『満洲童話集』(満洲日日新聞社、昭和16年)などを編集。確かに、国会図書館サーチで検索すると、六文館の発行は昭和8年で一旦途絶え、その後昭和17年に2冊の発行があるものの両方とも再刊である。どちらの事典にも六文館への言及はないが、童謡詩人の鹿島鳴秋=六文館主の鹿島佐太郞と同定してよいだろう。
 六文館からは、分離派建築会のメンバーとしては、蔵田周忠『欧州都市の近代相』(昭和7年2月)も刊行されている。六文館は、分離派建築会との関係や小田氏も注目する出版社なので引き続き調査が必要だ。
f:id:jyunku:20210117191258j:plain

百合子は起つ。分離派建築会作品展と宮本百合子

f:id:jyunku:20210116075539j:plain
 野上彌生子について、分離派建築会作品展を観たとは確認できなかった*1。では、友人の宮本百合子はどうだろうか。なんと言っても、父親が建築家の中條精一郎(ちゅうじょう・せいいちろう)である。更に、現在京都国立近代美術館で開催中の「分離派建築会100年 建築は芸術か?|京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto」の図録所収の田路貴浩「分離派建築会ーーモダニズム建築への問題群」で、『国民美術』復興展号の巻頭言で中條は「容積のシンフォニー」という建築の新潮流に言及しているが、これは分離派建築会のメンバーの一人である山田守の「ヴォリュームのシンフォニー」*2から借りたのだろうと推測している。この大正13年4月に開催された復興展(帝都復興創案展覧会)には、分離派建築会のメンバーも復興案を展示していた。精一郎は、同展覧会だけではなく、作品展も観覧していたかもしれないのである。
 さて、長女の百合子はどうだったか。作品展が開催された大正9年から昭和3年までの百合子の日記*3を読むと、分離派建築会の周辺の人物が登場する。第1回作品展(大正9年7月、白木屋)の芳名録の同月22日に芥川龍之介岡田信一郎の名前が並んでいるが、2人とも百合子とは面識があった。

(大正5年)
 1月30日 (日曜)
 美音会に行く。(略)青柳有美岡田信一郎氏などに会う。(略)
(大正6年)
 3月3日 (土曜)
 (略)
 久米[久米正雄ーー引用者注]、芥川*来訪。(略)芥川と云う人は久米より頭のきくと云う風の人で、正直な純なとことろは少しすくない。岡信氏と佐藤功一氏の違いがあると云っていい位である。顔はかなりいい方だが、凄い。
 (略)

編者注

芥川ーー芥川龍之介。作家。一八九二年ー一九二七年。

 また、3冊刊行された分離派建築会の作品集(大正9、10、13年)は岩波書店から刊行された。百合子の最初の夫である荒木茂の『ペルシヤ文学史考』(大正11年5月)も岩波書店から刊行されている。

(大正10年)
 11月23日 (水曜)
 (略)
 夕方六時頃、岩波茂雄氏来訪。「ペルシア[ママ]文学史考」出版のことに定る。非常によろこばし。
 彼の始[ママ]めての仕事がまとまると云うこと。
 (略)

 作品展の会場となった場所にも度々足を運んでいる上、個人的にもつながりがあった。大正12年6・7月の第3回作品展は、星製薬楼上で開催された。星製薬の星一も百合子もコロンビア大学で学んでいるが、ここで「コロンビア会」が開催されている。「宮本百合子とチャーチワードの女助手フローレンス・ウェルス - 神保町系オタオタ日記」参照。これには、チャーチワードの助手フローレンス・ウェルスも参加した。しかも、星製薬ビルにはカフェーがあり*4、百合子はしばしばそこへ寄っている。

(大正12年)
 5月6日 (雨)
 (略)帰りに下で雨傘を買って、星による。例によって珈琲と菓子。
 (略)

 もう一つは、昭和3年9月第7回作品展が開催された三越である。頻繁に買い物に行っているほか、親戚が勤めていた。

(大正10年)
 12月31日 (土曜) 晴
 朝早めに起き、二人で三越に行き正月の菓子や吉田さんの処へ持って行くものを買う。(略)倉知*が鼻眼鏡でキッと眉間を引つめて入って来る。(略)

編者注

倉知ーー倉知誠夫。精一郎の妹貞(テイ)の夫で、のち株式会社三越取締役会長。

 しかし、残念ながら、作品展の開催された期間の日記を見ても、観覧は確認できなかった。ただ、分離派建築会の堀口捨己、瀧澤眞弓、蔵田周忠が関与した平和記念東京博覧会(大正11年3月10日~7月31日、上野公園)は観ていたようだ。

(大正11年)
 4月1日 (土曜) 晴
 第二会場を見に行く。雑ぱくさはよき趣味の欠乏に於て明に現代を示して居る。(略)
 4月6日 (木曜) 曇
 (略)三人で第一会場を見に行く。万国街が当だ。Aが気をせかせ、あまり注意せずに札を買ったので、立ったままろくに見るものも見られなかった。(略)

 平和記念東京博覧会を見たせいか、百合子は「建築の真髄が少し自分にわかって来た」(大正11年5月1日)と書いている。更に、百合子が文学や芸術の新しい波に関心を持っていたことも日記で確認できた。たとえば、農商務省商品陳列所で開催されたフランス現代美術展覧会。

(大正11年)
 5月31日 (水曜) 大雨
 (略)ひどい雨で外出は大変だが、フランス現代美術の展覧会が今日きりだと云うので出かける。(略)なかでも、ロダンの作品は、自分に深い感銘をのこし、彫刻の真、心と云うものが迫って来たように思った。胸像の中にあるスピリット。勿論ロダンの技巧はユニックには違いないが、実に心と直接な働きであると思う。実に自由にこだわらず表現する力。恐ろしく羨しい。
 (略)

 分離派建築会が影響を受けたロダンの彫刻である。また、大正9年5月30日の条に「『白樺』の十周年記念号から切抜いたドストイェフスキーの写真を正面の壁にはる」とあり、『白樺』も読んでいたようだ。父親との関係もあってか、国民美術協会の展覧会も観ている。

(大正5年)
 3月3日 (金曜)
 国民美術協会*の展覧会へ行く。
 石井柏亭さんの扇面はりまぜの屏風と、青楓さんの二折屏風が図案としてはよかった。
 (略)

編者注

国民美術協会ーー一九一三年三月、森鴎外黒田清輝岩村透等によって創立された。六月、中條精一郎が会頭にえらばれ、一九一九年改選の際会頭は黒田清輝となる。黒田清輝が亡くなったあと、一九二四年ー一九三三年まで中條精一郎が再び会頭をつとめている。

 分離派建築会の作品展が開催された時期は、百合子にとって激動の時期であった。大正8年アメリカで荒木と結婚。同年末帰国し、翌年から4年間の泥沼時代(自筆年譜)が始まる。不幸な結婚は、別居・離婚に至り、親しくなった湯浅芳子と同居、昭和2年の年末から湯浅と2人でモスクワへ旅立つこととなる。もし百合子が作品展を観ていれば建築界の新潮流にどのような感想を持ったか興味深いものがある。日記に伊東忠太に対する厳しい評価を書く百合子である。「過去建築圏」からの分離宣言をした分離派には好意的だっただろうか。

(大正6年)
 2月19日 (月曜)
 小島氏の御祝いに行く。伊東忠太氏の応接間は殆ど吃驚した位いやなところだ。彼の人達の思想がのこりなくあらわれて居るように見える。
 あんなさむい、つめたいところが応接間なのは、ほんとうにいやだ。 
(略)

*1:昭和3年9月、野上弥生子は分離派建築会第7回作品展を見たか? - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:山田守「VolumeのSymphonieとして建築を創作したい」、分離派建築会・関西分離派建築会『分離派建築会作品 第三』岩波書店大正13年

*3:宮本百合子全集』26巻、27巻(岩波書店、平成15年)

*4:板垣鷹穂と阿部次郎 - 神保町系オタオタ日記」への林哲夫氏のコメントによると、最下層にカフェーがあった(宮地嘉六「群像」)

大正生命主義と宮本百合子ーーあったかもしれないムー大陸と宮本百合子ーー

f:id:jyunku:20210114192912j:plain

ヘッケル『宇宙の謎』(大正5年1月2日)
スターバック『宗教心理学』(大正5年1月7日)
メーテルリンク『死後は如何』(大正5年9月18日)
デゼルチス『心霊学講話』(大正5年9月8日購入[同月金銭出納簿])
加茂熊太郎『迷信と科学』(大正6年2月22日)
速水滉『現代の心理学』(大正6年4月16日)

 大正期の宮本百合子の日記に登場する大正生命主義的あるいはオカルト的な「本のリスト」を著者を補ってあげてみた。勿論、この手の本ばかり読んでいたわけではなく、大正教養主義に属する本、ロシア文学などの海外文学、日本の古典、同時代の漱石、花袋など、更には「ポーの短編集」、「『冒険世界』の探偵号」や『大菩薩峠』など、幅広く読んでいる。また、日記中からいかにも大正生命主義の時代を生きた百合子を表すような記述も拾ってみよう。

「宇宙の謎」を読んで「神は宇宙と一体なり」と云う言葉ではっきり神に対する考えを得た何よりうれしい。(大正5年1月8日)

乃木大将が愛子の幻を見られたことから見ると、或る霊感が距離の遠近に拘らずエーテルの震動によって、伝えられると云うことを信じられる。(大正5年8月28日)

春と秋の間に、夏のあることは、恐らく永劫不変だろうが、人間の生命などは、宇宙の大きなリズムの間に、小さくこまかに、複雑なリズムをそえて居るものなのだ。が、それでいい。大きなオーケストラの中で、こまかく響く、バイオリンの音は、小さくても大切なようなものだ。([(大正6年)二月の感想])

「現代の心理学」*をかなり進む。よく書いてあるとも思う。潜在意識と云うのを速水氏は、副意識とすると云って居られるがその方がたしかにいいに違いないように思われる。
 催眠状態に於ける人格的変化は非常に面白いと思う。(大正6年4月16日)

夜三沢さん*来、仏教の話をする。
華厳経のこと、大乗、小乗、寿量経、ボサツのこと。在家の居士。
ボサツ、生活形式は何をしてもよし、心さえボサツならばと。(大正14年11月25日)

編者注

「現代の心理学」ーー速水滉(一八七六年ー一九四三年)の著書。一九一四年刊。
三沢さんーー三沢智雄。当時駒沢大学にいた。

 さて、宮本百合子というと、皆さんはどういう人という印象だろうか。プロレタリア文学者、宮本顯治の妻、建築家中條精一郎の長女、湯浅芳子との関係などが浮かぶ人が多いだろう。私は、ムー大陸を提唱したチャーチワードの助手フローレンス・ウェルスの知り合いだったということである。既に、「宮本百合子とチャーチワードの女助手フローレンス・ウェルス - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したが、百合子の日記にウェルスの名前がしばしば出てくる。自伝的小説『伸子』にも当初モデルとして登場する予定であった。ウェルスは、百合子と親しかった頃はまだチャーチワードの助手ではなかったと思われるものの、並行宇宙では百合子がムー大陸やキリストの墓の顕彰を進めていたかもしれない。
参考:「藤野七穂により解かれた『失われたムー大陸』中のキリスト日本渡来説の謎 - 神保町系オタオタ日記