神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

俳人鈴鹿野風呂が見たオキュパイド・ジャパンの京都占領軍



高知県の本山町立大原富枝文学館で、「弾圧された俳人たちー暮石ゆかりの五人展ー」~7月26日が開催中。昭和15年の『京大俳句』弾圧以降の新興俳句弾圧事件に光を当てた展示である。これで5月30日の京都新聞で樺山聡記者による鈴鹿野風呂の日誌翻刻の続篇(昭和19~22年)*1が出たとの記事を思い出した。野風呂は、京大三高俳句会の『京鹿子』の創立メンバの一人で、昭和8年『京大俳句』創刊に際し顧問の一人となった。ただし、俳句弾圧事件の直接の被害者にはなっていない。
『続俳諧日誌』(鈴鹿野風呂記念館京鹿子発行所、令和7年3月)を読んでみた。俳諧日誌とか短歌日記というと創作の経緯や作品そのものが中心で、私的には読み物としては面白くない。しかし、本書は戦時下の雑誌統廃合や大丸の古本市に関する記述など、読み応えがあった。今回は、野風呂が見た京都における占領軍の様子を紹介しよう。

(昭和廿年)
十月十九日
(略)楽友会館は進駐軍に占められ、一条通の基督青年会館の図書室にて、いはほ氏の斡旋にて今後開く。(略)

戦前楽友会館で開かれていた句会が、会館の接収で利用できなくなったため基督青年会館に移したことを表した記述である。戦前の状況としては、例えば昭和20年4月6日の条に「新柳を風なぶるを見ながら楽友会館蜻蛉会」とある。昨年開館100周年を迎えた楽友会館については、「京都帝国大学楽友会館の絵葉書6枚セットを寸葉(すんよう)さんから - 神保町系オタオタ日記」参照。残念ながら、100周年のイベントは無かったか。

(昭和二十一年)
一月四日
(略)羽子日和。二、三年長袖の美々しき衣をきることなかりしためか、乙女らはいかにもうれしさうに晴着をきて、街路に羽子をつく。大通も横町も空地。そのすがたを進駐軍がかめらにをさめてゐるなごやかさ。
東山のみどりうしろ羽子高し
ジープ過ぐ街にひろがり羽子をつく
(略)

五月十四日
(略)嵐山下車。三船祭。(略)昔日の如く三十からの藝、それ‘’\/の舟は出ぬも絲竹船、謡曲船、俳諧船等鷁首の歌をかこんでみやびを尽す。進駐兵も物珍しげに撮影。(略)

占領軍による撮影を目撃した野風呂による記録である。「戦後京都の「色」はアメリカにあった!」を思い出しますね。衣川太一コレクションに羽根突きをする少女や三船祭の写真は含まれているだろうか。

*1:昭和7~12年分は『俳諧日誌』巻1(京鹿子文庫、昭和38年12月)として、昭和13~17年分が『俳諧日誌』巻2(京鹿子文庫、昭和39年12月)として刊行されている。昭和18年の日記が存在するのかは不明。

[トンデモ]藤澤親雄と刎頸の友だった日独同志会理事長松本德明


藤澤親雄や黒田禮二が参加した日独同志会の理事長だった松本德明という注目すべき仏教者がいる。私が松本の名前を知ったのは、小見山登編『創造的日本学:藤沢親雄遺稿 附諸家追悼・随想録』(日本文化連合会、昭和39年2月)の松本「親友藤沢親雄君」だった。そこで、松本は次のように書いている。

(略)私が昭和八年、ドイツから帰えり、約半年滞在して再びドイツに渡ったその間に、故松岡均平男爵に紹介されて君に会ったのがそもそも君を知る最初の機会であった。それ以来、君とは刎頸の友といってよいか、水魚の交わりと云うべきか、全く特別の友情を以って交際を続けた。戦前戦時、何事も相談し、また相談されて暮した。(略)

次に松本の名に出会ったのは、「岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』(慶應義塾出版会、平成17年3月)にぶんなぐられる。 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』(慶應義塾大学出版会、平成17年3月)である。同書199頁によれば、昭和11年12月の日独同志会創立時に松本、藤澤、黒田は世話人で、理事制度が導入された12年11月には松本が理事長になっている。215頁には、松本の略歴が挙がっていた。それによれば、明治31年広島市の浄土宗寺院の長男として生まれ、京都仏教専門学校・東京宗教大学(大正大学)研究科を経て、浄土宗から派遣されて海外留学、ボン大学で哲学博士号を取得、同大学で講師・名誉教授として東洋学を教えた。昭和11年帰国、戦後は大正大学理事長などを務めた。より詳しい経歴はその典拠である中村元・武田清子監修『近代日本哲学思想家辞典*1』(東京書籍、昭和57年9月) にある。国会デジコレで読んで見ると、昭和2年セイロン島(スリランカ)で南方仏教研究ののち、ボン大学哲学部に入学したことが分かる。
そう言えば、昭和2年ハイデルベルク大学留学のため渡欧する友松圓諦の日記*2に松本が出てくることを思い出した。

(昭和二年)
十一月十六日(水)
早朝より腹痛、午前ははげしい頭痛、午後五時迄ねる。七時半に松本徳明、ニヤナチロカきたる。仲山健吉はここで下りる。八時半のランチで「みかど」へゆく。南部慶三君のところへとまる。夜二時迄飲み四時迄かたる。❲セイロンか❳

❲ ❳は、編者による注

更に、最近読んだ浄土宗「戦時資料」に関する委員会編『浄土宗「戦時資料」に関する報告書』(浄土宗平和協会、令和5年7月)には、戦時中の松本が出てくる。

66頁 昭和12年10月24日 精神動員時局大講演会(兵庫浄土宗青年会聯盟・兵庫浄土宗布教研究会) 東極楽寺
67頁 昭和14年8月25日~27日 全浄土宗青年会聯盟幹部講習会(知恩院) 「国家総力戦と国際情勢に就て」
111頁 昭和18年9月7日~11日 第82回教学高等講習会(東京・浄土宗務所) 「最近の国際情勢」

戦時下、松本が仏教界で国際通として講演会に招かれたことが分かる。岩村著214頁によれば、松本は太平洋戦争中は海軍嘱託としてインドネシアやフィリピンに軍政視察のため派遣されたともある。戦時中の活動については、より詳しい調査が必要だろう。偽史運動に深入りしていった藤澤を、日独同志会の同志で「何事も相談し、また相談され」たという松本はどう思っていただろうか。松本については、今後も注目していきたい。

(参考)手塚和彰『日独伊三国同盟の虚構:幻の軍事経済同盟』(彩流社、令和4年7月)123頁にヒトラー参りの例として、「ニュルンベルク・ナチ党大会への参加のため、九州日独同士[ママ]会の松本徳明(ボン在住)、藤沢親雄教授などの訪問(一九三七年九月九日付、東京発電)があった。もっとも彼らに対してヒトラー側近は慎重かつ細心な取扱い をしており、日本側の紹介があるからといって、ヒトラーは簡単に面会していない」 とある。松本は帰国していたはずで、よく分からない。

*1:岩村正史著では、『近代日本思想家辞典』と誤記。

*2:山本幸世編『友松圓諦日記抄:道をききてこころやすらかなり』(真理舎、平成元年11月)。

大淵小華主宰の仏教児童雑誌『日曜学校』(法藏館)


手元に法藏館の社史『仏教書出版三六〇年』(法蔵館、昭和53年11月)がある。自分で買ったわけではなく、川島昭夫先生の遺品からいただいた物である。巻末に「出版総目録」(嘉永7年~昭和53年)のほか、「広告掲載書目」「全集・叢書一覧」「刊行雑誌目録」がついていて、役に立つ。このうち、「刊行雑誌目録」を挙げておく。

30誌挙がっている。ただし、『講壇』は『教壇』の、『仏教生活』は『仏教』の、『東方』は『教学』の改題誌なので、実質的には27誌である。『霊界』(大正2年1月~不明)が気になりますね。この表には挙がっていないが、『大谷大学研究年報』(昭和17年6月創刊)*1も刊行雑誌に入れてよいだろう。
表に挙がる雑誌のうち、今回は家蔵の『日曜学校』を紹介しておこう。第8巻第3号(大正8年3月)、16頁。編輯兼発行印刷者は西村七兵衛とあるが、実務は表紙右下に「主宰」とある大淵小華が行ったと思われる。内容は、柏樹玲花「嬉しかつたこと」、小華「乞食の絵」、岡寺興良「桃の咲くまで」、岸本鬼史「お節句」、「読者の世界」などである。目次には「絵・・・小華」とあり、表紙絵や挿絵も小華が描いたようだ。更に、小華が創案・立案した「クミタテ花御堂」「出席スタンプ」「聖徳太子伝カード」「ののさんカード」の広告も載っていて、小華の多彩な才能がうかがえる。
この小華の経歴が、『児童と宗教』第4巻第2号(大谷派本願寺社会課、大正14年2月)の「追悼大淵小華氏」に載っていたので、要約しておこう*2

大淵小華
明治26年10月11日 出生
大正2年9月 真宗大谷大学へ入学
大正6年4月1日より雑誌『日曜学校』を編輯
大正7年7月 真宗大谷大学卒業
大正8年2月 童話研究会を創立し『新オトギ』を出す
大正10年11月 宗教演劇社創立
大正12年1月 東本願寺社会課嘱託
同年4月 『親鸞聖人エバナシ』を出す
大正13年11月17日 示寂す

小華については、森覚先生が令和6年11月26日絵本学会で「大淵小華『おしやかさまー誕生物語ー』の研究ー岐阜県大垣市における児童伝道と仏教絵本」を発表している。より詳しい調査をされておられるかもしれない。

*1:現在は、大谷学会発行

*2:引用は、不二出版の復刻版第3巻(平成25年12月)による。

昭和12年大阪みやげ品展覧会に協力した蒐集家たち


みやこめっせの古本まつりでは、竹岡書店から『大阪みやげ品展覧会出品一覧』を購入。昭和12年10月1日~7日心斎橋そごうで開催された展覧会への出品リストである。主催は、大阪市と大阪土産品協会である。出品は、「今のみやげ品/明日のみやげ品」(食料品之部、一般之部)、「昔のみやげ品」、「参考品」の3つに別れている。
最近の展覧会出品リストではミュージアムや法人以外の所蔵者は、「個人蔵」とだけ記載される場合が多い。しかし、今回入手したリストは戦前の物なので個人名が記載されていて楽しめる。芳本倉太郎*1、大阪やつで会*2、川崎巨泉*3、三宅吉之助*4など趣味人の名前が散見されたので購入、1100円。買った時は気付かなかったが、同じ物が2枚入っていた。最も所蔵していそうな中之島図書館のOPACや川崎巨泉の人魚洞文庫を有するおおさかeコレクション、更には大阪歴史博物館の資料検索ではヒットしない。貴重な史料だろう。
ところで、X(旧Twitter)で検索したら号外研究家・小林宗之氏(@kobashonen)が「大阪みやげ品展入選」との記載がある太閤陣中枕(柾木商会)の引札を挙げていた。私が入手した一覧には、南区長堀橋筋2ノ36の柾木トミが太閤陣中枕を出品していて一致する。ただし、後援者に大阪商工会議所が含まれていて、小林氏の引札に記載された後援者と異なっている。そのため、昭和12年の大阪みやげ品展覧会に入選した時の引札とは断定できない。

*1:芳本倉太郎は、一般之部に「浪花名所 手拭」を出品

*2:大阪やつで会は、西田亀楽洞、河本紫香、粕井豊誠、中西竹山、村松百兎庵、梅谷紫翠、青山一歩人、塩山可圭、芳本倉多楼の連名で80点超を昔のみやげ品として出品

*3:川崎巨泉は、「肉筆絵画、色紙」25点を参考品として出品

*4:三宅吉之助は、「浪花自慢名物盡(錦絵)・浪花名所錦絵・大阪名物レツテル」を参考品として出品

占領期に獄中の京大生小野君が観た五色園少女歌劇団


戦後の日記は、原則として読まないことにしている。しかし、小野信爾著、宇野田尚哉・西川祐子・西山伸・小野和子・小野潤子編『京大生小野君の占領期獄中日記』(京都大学学術出版会、平成30年2月)は、何かの参考文献に挙がっていたのと占領期は戦前・戦時中の延長として私向きのネタが含まれている場合があるので読んでみた。そうすると、驚くべき記述があった。

(昭和27年)
二月十七日 晴 日曜日
(略)
◦今日の宗教々誨、本願寺系の五色園なる組織がその少女歌劇団!!なるものを連れて仏教舞踊、仏教歌劇なるものを見せて呉れる。
歌劇だって? とんでもない歌劇だ。ナンセンス、こっけい、それを通り越して笑ふべき悲劇だ。その本質的な矛盾に急速に没落する本願寺が焦りに焦るこっけいな苦悶の一つの現れとして、又年端もゆかぬのに駆り出される小供たちにとって。
神楽と、剣舞をつきまぜたようなその踊り、流行歌や、何とか節や童謡やからひょうせつして来た歌、二年前の節分の夜、大山と二人で見に行った吉田神社で「みこ」の踊っていた神楽や、近頃流行りの浪曲ドラマを連想せずには、いられなかった。

驚いた。「五色園の森夢幻が京都に計画していた万国史蹟宗教公園 - 神保町系オタオタ日記」や「京都における近代仏教史のエピソードーー『京都府百年の年表 6宗教編』から見るーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した五色園には少女歌劇団も存在したのか。家蔵の『萬國史蹟宗教公園創建趣旨』を見てみると、森夢幻が京都府八幡町(現八幡市)に建設を進めていた「萬國史蹟宗教公園眞修五色園」の「施設の概要」に附属施設として、「宗教劇團組織公演/宗教情操豊な劇及舞踊を公演観覧せしむ現在愛知県五色園に養成実施中なり」とある。少女歌劇団は、この「宗教劇團」に当たるのだろう。倉橋滋樹・辻則彦『少女歌劇の光芒:ひとときの夢の跡』(青弓社、平成15年8月)の「全国の少女歌劇一覧表」に記載は無い。鵜飼正樹先生や、岩瀬彰利編著『明治大正昭和愛知の名所いまむかし』(風媒社、令和4年2月)に「五色園 文献・資料から辿る“迷処”の謎」を書かれた近藤順氏は、何か御存知だろうか。
五色園少女歌劇団を観た京大文学部生小野信爾氏は、昭和26年下鴨署の近くで反米反戦ビラを撒いたため、「占領目的阻害行為処罰令」違反として軍事裁判にかけられ京都刑務所に拘禁中であった。昭和5年に大分県竹田市の碧雲寺に生まれた小野氏だが、昭和25年共産党に入党しているので宗教に対する視線は厳しかったのだろう。一燈園のすわらじ劇団にも次のような感想を残している。

(昭和27年)
一月十三日 (晴) 日曜日
◦慰安演芸として一燈園の「すわらじ劇団」の興行があった。演物は、城山余聞(一幕)、故郷(一幕)、天野屋利兵衛(三幕)。衣裳も、小道具も仲々豪華なもの。熱演だとは、云へたようだが、このような宗教運動の反動性だけは、つくづく考えさせられた。あらゆる問題がすべて個々人の善意で解決させる。一つブルジョア相手にとっくりと御説教やって貰いたいもんだ。

『イエーZINE』第2号に「南木芳太郎邸で発行された市川新升のファン雑誌『廿日艸』」を執筆


狂言屋発行の『イエーZINE 』第2号(令和8年5月)に、「南木芳太郎邸で発行された市川新升のファン雑誌『廿日艸』」を寄稿しました。大阪古書会館の「たにまち月いち古書即売会」で古本横丁から入手した『廿日艸』第2号(新升後援会、大正7年7月)という雑誌について紹介したものです。歌舞伎役者四代目市川新升(明治18ー昭和10)の後援雑誌で、発行所は後に郷土研究誌『上方』を創刊する南木芳太郎邸に置かれました。古本横丁がその在庫を入手したと思われる亡くなった唯書房や『廿日艸』全17冊揃いを所蔵していた肥田晧三先生についても言及しています。常連の林哲夫、ら・むだ書店西村宗典、大島なえ各氏らのほか、高橋輝次氏が初参加しています。目次をあげておこう。

入手(有料)は、二条駅近くの狂言屋で。偶数月の第2土曜日(古本イエー)・奇数月の第2日曜日(古本日和)に同家で開催される古本市か、関西の一箱古本市への出店で入手できるので、X(旧Twitter)の「一箱ふるほん狂言屋」(@kyougenya2)で随時確認してください。
スペースの関係で拙稿ではカットしましたが、新升が参加した一燈園のすわらじ劇団(昭和6年5月創立)による新升1周忌*1の追善公演(名古屋の御園座、大阪の角座)*2のプログラムを持っています。特に角座分には、「新升素描」と題して、西田天香(一燈園創立者)、食満南北、中井浩水、岸本水府、高安吸江、市川三升、中村扇雀、山田隆也が寄稿しているので、いずれ紹介します。
『イエーZINE』と前身の『古本イエーZINE』に載る拙稿は、次のとおり。

『古本イエーZINE』
第5号(令和4年11月) 「松尾尊兊先生の古書探索記」
第6号(令和5年5月) 「藤田嗣治や橋本関雪が戦地に派遣された帝国日本にタイムスリップ」
第7号(令和5年11月) 「谷澤永一が青猫書房に注文した?古書のリスト」
第8号(令和6年4月) 「京都市絵画専門学校の関係者が結成した美術劇場とカフェカナリヤ」
第9号(令和6年11月) 「小早川秋聲と玄洋社の頭山満・黒龍会の内田良平とのファーストコンタクト」
第10号(令和7年4月) 「1981年度における京大UFO超心理研究会と吉永進一先輩」

『イエーZINE』
第1号(令和7年11月) 「戦時下に佐野繁次郎ら6人展を見る尖った青年の正体」

*1:『南木芳太郎日記2』(大阪市史料調査会、平成23年12月)昭和11年2月23日の条に食満(南北)から新升追悼会に関する来信があった旨の記載がある。

*2:すわらじ劇団結成5周年記念公演と兼ねている。

矢崎千代二の金曜談話会における談話が載る『大阪ユーラン新聞』とは:伊達俊光とパステル画家矢崎千代二


 伊達俊光らが開催した金曜談話会については、「伊達俊光の金曜倶楽部とオカルティスト達ー福来友吉・浅野和三郎・関昌祐・間部詮信らー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。この金曜談話会をどこかで見た覚えがあると思ったら、「パステル画家矢崎千代二と近角常観を繋ぐネットワーク - 神保町系オタオタ日記」で使った横田香世『パステル画家矢崎千代二:風景の鼓動を写す』(思文閣出版、令和5年6月)でした。人名索引によると4回ほど出てくるが、たとえば282頁の次のような記述である。

 矢崎は、一九三六(昭和十一)年の暮れに開催された伊達俊光主催の「金曜談話会」で、肖像画制作について講演している。伊達が講演のテーマを「私の描いた五千余人の肖像」と勝手に決めて発表してしまったために、矢崎は五千枚描いたというのは自慢話ではないと語りはじめた。「(略)私は一枚の肖像画を他人の五十分の一、百分の一の時間で描く、それを五十年續けたから、この大數に上つたといふだけの事(1)」と、肖像画を描くことは日常であると説明している。

(1) 矢崎千代二「肖像画五千枚」(『大阪ユーラン新聞』第一二二号、発行年月日不明)。なお、『大阪ユーラン新聞』は週刊で、関西の観光・文化関係のニュース記事を掲載していた。発行人は久松博一。

 伊達『大大阪と文化:長春庵随想録』(金尾文淵堂、昭和17年6月)の「金曜(錦燿)談話会二百二十五回記事」によれば、この談話会は、第154回(昭和11年12月28日)である。出典の『大阪ユーラン新聞』が「発行年月日不明」とあるのは、横須賀美術館所蔵のスクラップブックに貼られた切り抜きのためと思われる。「週刊」や「発行人は久松博一」とあるのは、『全国新聞雑誌通信社名鑑』(全国新聞雑誌通信社聯盟、昭和7年12月)が典拠だろう*1。「ユーラン」は「遊覧」の意だろう。注目すべきですね、『大阪ユーラン新聞』。横田著234・235頁は、矢崎の略伝や金曜談話会の講演録を発行する矢崎会の所在地である「大阪市住吉区田辺本町五丁目六〇番地、久松方」の久松を久松博一と推測している。
 最近矢崎の名前を目にする機会が複数あった。4月4日まで開催中の星野画廊「明治・大正・昭和名作発掘品展」で《ヒマラヤ遠望ーダージリンにて》(大正9年)を観た。3月2日の国文学研究資料館のシンポジウム「明治の人文学ネットワークー書簡にみる文化人の交流ー」では、紹介された新収の中澤弘光宛書簡群の中に矢崎の書簡が含まれていた。あと、池田威が発行していた『文藝新報』*2第9号(文藝新報発行所、昭和2年4月)の「個人消息」に「矢崎千代二氏 東区大川町西照館に滞在中」とある。これは、横田著の「年譜」昭和2年4月の条に「「矢崎千代二パステル画展覧会」(10日~15日、大阪朝日新聞楼上)を開催する」とある関係だろう。

*1:金沢文圃閣から『帝国日本雑誌新聞総カタログ:紙メディアの昭和戦前期1932年版』として復刻版あり。

*2:『文藝新報』については、 北村兼子のスキャンダルと池田威の『文藝新報』(大正15年12月創刊) - 神保町系オタオタ日記」参照