神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

北野天満宮の骨董市で見つけた明治期の『家庭週報』ーー成瀬記念館で日本女子大学創立120周年記念展ーー

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 尾崎翠の年譜*1を見ていると、大正8年4月日本女子大国文科に入学し、5月週刊校報『家庭週報』515号に「木蓮」を発表、6月同紙519号に短歌「富春園にて」を発表している。『家庭週報』は、明治37年4月創立の同窓会「桜楓会」の機関紙で、同年6月25日に創刊された。同紙を北野天満宮の骨董市で買った覚えがあるので、大量の積ん読本から発掘してきました。我ながら何でも持ってますね。
 家蔵の『家庭週報』は、11号,明治37年11月12日と19号,38年3月11日である。後者には、国文学部教授の三宅龍子(花圃)の名前が見える。
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 ところで、一面の左手に地球を持つ女性の絵が気になる。どこかで見たような気がする。オリジナルなのか、ミュシャ等の借用なのか。木股先生なら分かるだろうか。
 広告も見ていると発見があった。牛込区西五賢軒町の写真学校。これは、黒岩比佐子さんが『編集者国木田独歩の時代』(角川学芸出版、平成19年12月)で調べていた近事画報社の女写真師「梅子」が学んだ女子写真伝習所(女子写真学院)ではないですか。
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 なお、日本女子大学は今年が創立120周年で11月24日~3月4日成瀬記念館で記念展があるようだ。→「年間予定 | 成瀬記念館 | 日本女子大学
  

*1:『定本尾崎翠全集下巻』(筑摩書房、平成10年10月)

四天王寺秋の大古本まつりで浅井忠『新編自在画臨本』(金港堂書籍)を掘り出すーー京都工芸繊維大学美術工芸資料館で「美術の教育/教育の美術」展を開催中ーー

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 京都工芸繊維大学美術工芸資料館で開館40周年企画展第2弾「美術の教育/教育の美術」を開催中。11月6日(土)まで。有料*1だが、72頁の豪華図録は無料*2。私は先日観てきた。
 展示品や図録掲載の図案関係の古書を見ていて、四天王寺秋の大古本まつりで出会えたらいいなあと思っていたら、初日の8日(金)に本当に見つけてしまった。Cosyo Cosyoの和本300円台から。今回ここは、美術関係、仏教関係等で掘り出し物が多かった。冒頭に挙げた写真の浅井忠『新編自在画臨本』第1編(金港堂書籍、明治39年12月初版・40年3月訂正再版)が、見つけた図案教育書である。図録には、工繊大附属図書館所蔵本が出ている。
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 展覧会を観た直後に見つけるのは奇跡と言ってもいいだろうが、古本の世界では割とよくあることではある。本自体も教科書なので、それほど珍しくはなさそうだ。ただし、国会図書館には第4編しかない。「近代教科書デジタルアーカイブ」では全8編が公開されている。また、日本の古本屋には第1編が2店、その他の編が5店で出品されたが、すべて売り切れていて人気があるようだ。
 図録の解説には、次のようにあった。

 これらの教科書が京都高等工芸学校で使用されていたことを示す資料は残っていない。『訂正浅井自在画臨本』*3によると、浅井自身が緒言で「中学校教授要目ニ準拠」して「中等程度ノ諸学校ノ図画教科書」とするために編纂したと記しており、専門教育機関である京都高等工芸学校では使用されなかった可能性が高い。

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*1:一般200円/大学生200円/高校生以下無料

*2:過去の展覧会の図録で在庫のある分の見本も展示されていて、申し出れば無料で貰える。

*3:浅井の死後、都鳥英喜と渡辺審也が明治42年に『新編自在画臨本』を改訂したもの

予言者隈本有尚の第七官と尾崎翠の「第七官界彷徨」ーー石原深予『尾崎翠の詩と病理』(ビイング・ネット・プレス)からーー』

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 石原深予『尾崎翠の詩と病理』(ビイング・ネット・プレス、平成27年3月)を御恵投いただきました。ありがとうございます。石原先生との初対面は、人文研で日本心霊学会(人文書院の前身)関係の作業があった時だったか。挨拶で「尾崎翠の作品『第七官界彷徨』で使われている『第七官』について調べています」とおっしゃっていた(追記:これは私の記憶違いだったようで、失礼しました)のが、印象的である。確か新稲法子先生(@niina_noriko)がTwitterで石原先生に言及していたので、御名前は存じ上げていた。
 本書第1章「『第七官』をめぐってーー明治期から昭和初期における「第七官」の語誌と尾崎翠の宗教的・思想的背景ーー」が特に注目される。昭和6年に発表された尾崎の「第七官界彷徨」の「第七官」は従来尾崎の造語とされてきた。しかし、

(略)管見の限りにおいては「第七官(感)」という語は、明治半ばに「七官」という語として井上円了によって仏教の文脈で用いられたのが早い例である。その後明治四十年代に内村鑑三が「第七感」という表記で用いる。これらについては先に「第六官(感)」の用例のところで述べた用法と同様である。同じく明治四十年代に骨相学の文脈で、はじめて「第七官」という表記が用いられた。(略)

 この初めて「第七官」という表記を使用したのが、『性相』16号(性相学会、明治43年1月)掲載の「第六官及び第七官」である。冒頭に写真を挙げた雑誌である。同誌は2冊持っていて、古本まつりの均一台で見つけた気がする。
 石原著によれば、「この記事には署名がないが、河西善治氏によると隈本有尚(一八六一ー一九四三)の執筆」らしい。隈本は、東京大学理学部数学物理星学科を出た天文学者で、占星術家でもあった*1。最近読んだ高橋箒庵『萬象録』巻3(思文閣出版、昭和62年6月)に、この隈本の予言が出てくるので紹介しておこう。

(大正四年)
七月三十一日
(略)
[天文学者隈本氏の政事予言]
 さるにても本月初め天文学者隈本有尚氏が、現内閣は八月九日を以て顛覆すべしと予言したる時世人は一笑に付したりしに、八月九日をを待たず昨日内閣辞職あり、或は其辞職の聴許せらるゝが八月九日頃なるやも知れず、氏は何に依て斯くの如き予言を為したるにや。座客の一人、隈本は司法官中に知己ありて涜職事件の進行が到底内閣の存在を許さずと云ふ事を知り得たるに非ずやと云ふ。隈本氏は明治十六、七年頃、大学を出でたる許りにて諸所の演説会場にて天文学の演説を為したるを余は一度聴聞したる事あり。演説中眉を揚げ眼を動かし其口調講談師の如く、広大無辺なる天体の中に様々の星が出没する有様を面白く語り出でゝ聴衆を飽かしめざる工合、一種奇矯なる人物と思ひしが其後大学の教授として長く学界に在り、今は罷めて閑居すとなり。

 河西『『坊っちゃん』とシュタイナー:隈本有尚とその時代』(ぱる出版、平成12年10月)によると、隈本は明治16年星学科を修了し*2東京大学理学部星学教場補助になっているので、高橋が講演を聴いたのはその頃だろうか。また、高橋の前記日記の書かれた時期は第一次世界大戦中で、隈本は『丁酉倫理会倫理講演集』に「欧州戦乱の将来」、『廿世紀』に「天文より見たる交戦国の運命予言」を掲載して、ドイツの敗北や第二次世界大戦の予言をしているという。もっとも、こういう「予言」は当たったものばかり列挙しても意味がなく、全体を見てどの程度の的中率だったのかが重要だろう。
 石龍子が主宰した「性相学会」は「せいそうがっかい」と読む。これに対して石原著によると、

 なお法相宗倶舎宗の学問を性相あるいは性相学というが、この意味では「しょうそう」あるいは「しょうぞうがく」と訓むのが通例である。(略)

 「明治24年京都婦人協会における島地黙雷の演説ーー村上護『島地黙雷伝』(ミネルヴァ書房)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した『東洋新報附録』242号、明治24年9月30日に「性相学」の研究のため曹洞宗僧侶が真宗大谷派大学寮への入学を許可されたとの記事があるが、ルビが「しやうさうがく」とあって、後者の意味の「性相学」と分かる。
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*1:山本英輔と交流があったことについては、「海軍大将山本英輔のトンデモ遍歴 - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:明治15年菊池大麓学部長の面前で卒業証書を破り捨てたため、卒業は翌年になった上、学士号は授与されなかったという。

昭和4年のライオン歯磨本舗の年賀状と大手拓次

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 松野博一官房長官がライオンに勤めていた経歴があって、ライオン歯磨本舗小林商店広告部に勤めていた大手拓次に言及するツイートがあった。それで、先日の平安神宮における古本祭りでシルヴァン書房から入手した昭和4年のライオン歯磨本舗(株式会社小林商店)の年賀状を思い出した。冒頭に挙げた写真である。600円。
 昭和4年年始における大手の日記を見ると、次のとおりである*1

(昭和四年)
一月一日 火
 前夜おそく逸見氏来訪、二人で十二時すこしすぎまで矢来町通りへあるいていつた。帰つて来たら、年賀状がきた。(略)
 巣鴨社長宅へゆき、神谷、井口、小野沢宅へまはつた。
 詩一篇、散文一つ、

 大手の所に年賀状が来ている。社長や上司個人から年賀状は来ただろう。しかし、入手した年賀状はおそらく取引先や顧客向けのもので、大手には届いていないだろう。ただ、文面を大手が作っていれば貴重だ。しかし、それは確認できない。右下に絵の説明だろうか、何か書かれているものの、不鮮明で□□「田□の朝」と推測できるだけである(追記:Twitterで勅題「田家の朝」と御教示いただきました。ありがとうございます)。
参照:「大手拓次がライオン歯磨広告部員だった時代の広告が載った『ヒコバエ』(女子大学講義大正15年3月附録) - 神保町系オタオタ日記

*1:大手拓次全集』5巻(白凰社、昭和46年8月)

国際シンポジウム「20世紀の和紙ーー寿岳文章 人と仕事ーー」が10月16日開催:関連特別展「寿岳文章 人と仕事ーー向日庵と和紙の旅ーー」開催中

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 寿岳文章が残した「20世紀の和紙」と手漉紙をめぐる世界の状況に関する国際シンポジウムが10月16日(土)に開催されるようだ。詳しくは、「催し物案内/京都府向日市ホームページ」参照。私もオンライン配信の方を申し込んだ。まだ空きがあるが、早めに申し込みましょう。
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 向日市文化資料館では、関連特別展として「寿岳文章 人と仕事ーー向日庵と和紙の旅ーー」が10月24日(日)まで開催中。先日観てきました。昨年度開催された同名の展覧会と概ね展示品は同じである。柳宗悦の寿岳宛書簡(昭和34年、ネパール・カトマンズの紙同封)や『新版・絵本どんきほうて』(吾八、昭和51年)など新規の出品もあり、前回観覧した人でも楽しめる内容であった。前回貧乏で買えなかった『寿岳文章の集めた和紙:『紙漉村旅日記』から』(兵庫県多可郡多可町、平成28年6月)、2000円を購入できた。
 なお、新村出記念財団では所蔵する寿岳の新村宛書簡や新村の寿岳宛書簡の大部分の画像を公開した。研究の進展が期待される。→「◆新村出と寿岳家の人びととの間の書簡 | 一般財団法人 新村出記念財団
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四天王寺の秋の大古本祭りで見つけた須原玄雄『坐禅の力』(護国山聖徳寺、昭和13年)ーー大谷栄一「『皇道仏教』の形成」も活用する「ざっさくプラス」ーー

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 いよいよ四天王寺秋の大古本祭りが近づいてきました。古本強化月間である10月の始まりですね。ということで、昨年コロナ禍のせいでテント無しの上に小規模だった100円均一コーナーで見つけた本を紹介しよう。須原玄雄『坐禅の力』(護国山聖徳寺、昭和13年7月)、52頁である。聖徳寺は現在も北海道中川郡池田町にある曹洞宗の寺である。初日に見つけたが買わず、翌日だったかに購入。目次の一部を挙げておく。
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 曹洞宗師家の大道英仙「序」によると、須原は山本徹玄師に随侍して参禅の第一歩を仰し、更に原田祖岳師の門を叩いたという。本文中では、「聖戦せずして平和なし」が皇道仏教的、皇道禅的で興味深かった

聖戦の力なくして、永久に平和は此の地上に現出せない。我が国が世界三大強国の一つとして東洋に君臨し、国威を世界に宣揚せるは、上に万世一系天皇を戴き、精鋭無比なる戦闘の実力あるによる。
禅は、世界無数の宗教の最高峰に君臨し他の追従を許さず、大宇宙の生命の真実相を世界に高唱し得るは、坐禅肉弾の聖戦の実行あるによる。
(略)
坐禅は心霊の聖戦である。坐禅の聖戦なくして、無我の大平和境は断じて打開出来ない 諸賢諸志 単なる御先き真暗な空虚なる観念の盲意識の生活に浮蝣してゐては生命の堕落である。

 「皇道仏教」について、大谷栄一「『皇道仏教』の形成」『戦争社会学3:宗教からみる戦争』(みずき書林、令和元年6月)を読んでみた。そもそも「皇道」が戦前の日本社会で刊行された新聞記事や論文等のタイトルにどれだけ使われたを調べた新野和暢『皇道仏教と大陸布教:十五年戦争期の宗教と国家』(社会評論社平成26年2月)に続き、「ざっさくプラス」を使い、

(略)最新のデータ(二〇一八年一二月二七日時点)で調べ直すと、一九一三年に五件、一九二一年に一四件、一九三二年に一三件、一九三三年に五〇件、一九三四年に九一件を数えた。ただしピークは一九四二年の九二件だった。(略)
 以上から、「皇道」が飛躍的に新聞・雑誌等で使われるようになったのは、一九三三年以降であることがわかった。

としている。その後収録件数は増えているが、この傾向は現時点でも同じである。文字よりもグラフで示した方が分かりやすいだろう。「ざっさくプラス」で「皇道」を検索した結果(戦前・戦中分)のグラフは、次のとおりである。
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 「ざっさくプラス」はグラフ付きなので便利ですね。
詳しくは、「雑誌記事索引集成データベース - ざっさくプラス」参照。研究者の諸君はどんどん使いましょう。

日清戦争期における緊急勅令による事前検閲制及び『萬朝報』の発行停止ーー奥武則『黒岩涙香』(ミネルヴァ書房)への補足ーー

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 奥武則『黒岩涙香:断じて利の為には非ざるなり』(ミネルヴァ書房、令和元年11月)に、戦前の緊急勅令による事前検閲制に関する記述がある。

 (略)相馬事件報道をめぐって『萬朝報』が四回もの発行停止処分を受けたことにふれた際に記したように、一八七五年の新聞紙条例と讒謗律以来、新聞は政府の統制下にあった。
 この統制は納本制に基づく事後検閲だった。しかし、日清戦争が始まると、政府は八月一日、草稿段階での事前検閲を規定する緊急勅令を公布した。(略)

 新聞・雑誌の検閲について、戦前の内務省による検閲は事後検閲、戦後のGHQによる検閲は事前検閲。ただし、戦前の陸海軍大臣による軍事に関する記事禁止命令は、事前検閲的性格があった、と大枠の理解をしていた。緊急勅令による事前検閲というのは意識していなかったので、驚いた。
 早速、緊急勅令について調べてみた。明治27年勅令第134号「新聞雑誌及其ノ他ノ出版物ニ関スル件」が当該緊急勅令である。官報の写真を挙げておく。
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 公布日は明治27年8月2日が正しい。「外交又ハ軍事ニ関スル事件ヲ新聞紙雑誌及ヒ其ノ他ノ出版物ニ掲載セントスルトキハ行政庁ニ其ノ草稿ヲ差出シテ許可ヲ受クヘシ」と定められた。
 この緊急勅令は、同年9月13日公布の明治27年勅令第167号により廃止された。廃止により日清戦争に関する報道が自由になったわけではなく、同日公布された明治27年陸軍省令第20号及び明治27年海軍省令第13号により、「当分ノ内(軍艦)軍隊ノ進退及軍機軍略ニ関スル事項ヲ新聞紙雑誌ニ記載スルコトヲ禁ス但予メ陸(海)軍大臣ノ認可ヲ経タルモノハ此限ニ在ラス」とされた。事前検閲制の代わりに記事禁止命令が出されたわけである。記事禁止命令が事前検閲的性格を有したとされるのももっともなことである。
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 ところで、ここに数ヶ月前に平安蚤の市で入手した朝報社が『萬朝報』読者に送った葉書がある。冒頭に写真を挙げたものである。明治27年10月29日付けで同月28日発行の『萬朝報』第572号が「治安妨害、然り治安妨害の廉を以て内務大臣より発行を停止せられたり」という内容である。この発行停止については、奥著も言及している。

 一一月三日の『萬朝報』の社説「解停の辞」によると、日清戦争が始まった後、二回の発行停止処分を受けたという。この「解停の辞」は二回目の処分が解けたのを機に書かれたものである。(略)

 復刻版の『萬朝報』を見ると、「解停の辞」には日清戦争が起きてから「第五回の停止」にあい、今又「第六回の停止」にあった旨が書かれていた。『萬朝報』は相馬事件の関係で既に明治26年4回発行停止にあっていたので、日清戦争関係で5回目に続き6回目の発行停止を受けたという意味である。入手した葉書にも「既往、一回、二回、三回、四回、五回の停止に由りて」云々という記載があった。
 奥著によると、明治27年における『萬朝報』の1日当たりの平均発行部数は4万8940部と推定されている。購読者のすべてに発行停止を知らせる葉書を出したとは限らないが、数万部は発送されたのだろう。多分他にも残っているであろう。しかし、実際に入手するのは困難かもしれない。新聞の発行停止を知らせる葉書自体は割合見かけるもので、私も他に明治28年の『鳥取新報』発行停止に係る葉書を持っている。