神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『古本イエーZINE』9号に「小早川秋聲と玄洋社の頭山満・黒龍会の内田良平とのファーストコンタクト」を寄稿


 年末に、みやこめっせ昭和館巡回特別企画展「くらしにみる昭和の時代:京都展」を観に行った。出品の中に木版画の小早川秋聲《国旗は輝く》(昭和16年)があって、おっと思った。京都市東山区銃後奉公会が制作を依頼したものだという。令和3年京都文化博物館で開催された展覧会の図録『小早川秋聲:旅する画家の鎮魂歌』(求龍堂令和3年8月)を見ると、原画が出品されていたようだ。記憶には残っていない。山田修平先生の解説には、「一九四三年に伏見区銃後奉公会が《日本刀》を版画化し、出征した兵士の家族へ贈っていることから、同様に版画「国旗は輝く」も、兵士の家族へ贈られたものであると思われる」とある。木版画昭和館に所蔵されていることは、研究者に知られているだろうか。
 ところで、私が「小早川秋聲と玄洋社頭山満黒龍会内田良平とのファーストコンタクト」を寄稿した『古本イエーZINE』9号(狂言屋、令和6年11月)が刊行されました。今月5日に三回忌を迎えた故青田寿美先生からいただいた『近世風俗文化学の形成:忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(国文学研究資料館平成24年3月)に掲載された内田宗一先生の労作「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」中の画家池田立堂(別号松華)の書簡に秋聲に関する記述があることを紹介したものです。
 これまで同ZINEに寄稿した分は、次のとおりです。

5号(令和4年11月)
「松尾尊兊先生の古書探索記」
6号(令和5年5月)
藤田嗣治橋本関雪が戦地に派遣された帝国日本へタイムスリップ」
7号(令和5年11月)
「谷澤永一が青猫書房に注文した?古書のリスト」
8号(令和6年4月)
京都市立絵画専門学校の関係者が結成した美術劇場とカフェーカナリヤ」

 冒頭の画像に写真を挙げていますが、肝心の9号が所在不明で寒い中探す元気が無く、含まれていません。なお、入手されたい方は二条駅近くの狂言屋か、同店が参加される一箱古本市で入手できると思います。有料(200円?)。手作りで、執筆者用プラスアルファの数十部しか作成されません。何十年か後、「謎の神保町のオタさんが~について書いた入手困難なZINEを掘り出した」と叫ぶ研究者が現れることを妄想しています(^_^;)
参考:「昭和19年《國之楯》を完成した直後の小早川秋聲が『南木芳太郎日記五』に - 神保町系オタオタ日記
追記:図録の年譜(淺田裕子編)昭和16年6月の条に「《国旗は輝く》の版画をマリア書房が制作」とあるが、正しくは「マリア画房」だろう。

進々堂の続木斉・続木ハナ夫妻と静坐社の福田與


 昨年12月16日京都新聞に11月17日京都芸術センターで開催されたレコード鑑賞会に関する記事(樺山聡記者)が載った。→「京都で響いた100年前のパリ希少レコード蓄音機で鑑賞“狂騒の時代”熱気に聴衆酔う|THE KYOTO|京都新聞
 百万遍にある喫茶店進々堂の創業者続木斉が100年前フランスに渡り入手して持ち帰ったレコードが遺品から発見され、その鑑賞会であった。孫の創社長による祖父の話もあったようだ。私は、続木斉と妻の続木ハナについて「新井奥邃の英文書刊行に協力した元第三高等学校教授栗原基と進々堂の女主人続木ハナ - 神保町系オタオタ日記」で言及しているが、レコードにはあまり関心がないので、参加はしなかった。
 一昨年(令和5年)百万遍知恩寺の古本まつりで竹岡書店の均一台で見つけた著者自身旧蔵の福田與『草の花:歌集』(初音書房、昭和37年7月)を改めてみると、続木斉と続木ハナの没日が出ていた。前者は手書きで「S九、六、一九」と追加され 、後者は印字に上書きで「三〇、二、四」と訂正されている。『進々堂百年史:パン造りを通して神と人とに奉仕する』(進々堂、平成25年6月)の年表には前者は昭和9年6月死去、後者は昭和30年2月死去とあるので、おそらく合っているのだろう。
 福田は昭和6年頃から小林信子の静坐社(昭和2年創立)に参加していた(「戦前も小林信子の静坐社に通っていた福田與 - 神保町系オタオタ日記」参照)。一方、白隠禅師の『夜船閑話』や『遠羅天釜』を読んでいたというハナも進々堂と同じく京大近くにあった静坐社と関わりがあったかもしれない。これは全くの妄想ではなく、斉が大正2年京都で進々堂を創業する前は新宿中村屋で働いており、中村屋の創業者相馬愛蔵は妻の相馬黒光と共に熱心な岡田式静坐法の信奉者だった。その岡田式静坐法の普及を京都で図っていたのが、静坐社である。このあたりは、日文研図書館が所蔵する静坐社の機関誌『静坐』で確認したいところである。

 

オックスフォード大学時代の田中秀央、黒田チカと加藤文雄:平安蚤の市で田中秀央のアルバム発見


 昨年は、大正2(1913)年8月黒田チカら3人の女性が日本で初めて大学(東北帝国大学理科大学)に入学して110周年であった。冒頭の写真は、その黒田が同大学卒業後オックスフォード大学に留学していた大正12年1月26日の写真である。この写真は、『黒田チカ資料目録』(お茶の水女子大学ジェンダー研究センター、平成12年3月)でも見ることができる。しかし、そのキャプションには「オックスフォードにおいて留学生加藤文雄(中央)がマンチェスター大学に入学するのを記念して チカ38歳」としかない。そこで、オタどんが全員の名前を明らかにしよう。前列左から田中寛(東京高師)、加藤文雄(日蓮宗)、黒田チカ、田中秀央(京都帝国大学)、後列左から神保格(東京高師)、手塚陸軍少佐、皆川正禧(水戸高校)、島村盛助(山形高校)である。「さすがオタどんじゃ」と言われそうだが、実はこの写真の裏に記載されていた。
 この写真が貼られていたアルバムは、今月岡崎の平安蚤の市で購入。別の写真の裏側に、大正11年9月7日朝留学の際榛名丸に同船せし2等船客とマルセーユ港で撮影した旨が記載されていて、その船客の中に田中秀央(京大助教授)の名があったからである。大正期に海外留学しているなら、アルバムの旧蔵者も相当な人物だろうという読みもあった。
 ところが、持ち帰って調べると、表紙裏に「H.Tanaka./2583*1.Ⅶ.26./Oxford.」とあるほか、加藤とお互いを撮り合った写真があるなど、田中自身のアルバムと判明して驚いた。普通は、キャプションに自身のことは「自分」と書いたり、空欄にする場合が多いと思われるが、田中は自分のフルネームを記載していて、ありがたくもあり、紛らわしくもあった。
 日本最初の西洋古典語学・古典文学研究者だった田中*2については、菅原憲二・飯塚一幸・西山伸編『田中秀央 近代西洋学の黎明:『憶い出の記』を中心に』(京都大学学術出版会、平成17年3月)に詳しい。同書に収録された田中の自叙伝『憶い出の記』(昭和41年3月30日)によれば、大正11年7月25日文部省海外留学生として氷川丸で出発。「氷川丸」は田中の記憶違いで、前記のとおり、正しくは榛名丸と思われる。また、マルセーユ港到着日が空欄になっているが、前記撮影の時期と思われる。
 オックスフォード大学留学中は、浜田耕作から紹介された下宿に滞在した。ここには、加藤、島村、皆川のほか、先に同大学に留学していた黒田も同居している。下宿のダイニング・ルームで黒田と共に映る写真もあった。撮影者は、加藤である。

 加藤の経歴は、『仏教年鑑:昭和5年』(仏教年鑑社、昭和4年12月)の「人事篇」から要約すれば次のとおりである。近代仏教研究者なら知っていそうな人物ですね。

加藤文雄
明治21年東京生
大正2年東京帝国大学文科卒後、日蓮宗名刹承教寺に住し、日宗社を宰して文書伝道に努め、又日蓮宗留学生としてオックスフォード大学に学び、『法華経』の英訳を完成し、帰朝後立正大学に基督教を講じた。

 また、田中は東京帝国大学文科大学在学中渋沢栄一の学寮に住んでいて、そこで親しくなった孫の渋沢敬三横浜正金銀行員としてロンドン支店に来ていて再会したため、敬三夫妻の写真もアルバムにあった。新1万円札の肖像になった祖父の栄一に似てますね。

 随分貴重なアルバムを骨董市で見つけたものである。京都大学大学文書館の西山先生が将来田中の伝記を書くようなことがあれば、お貸ししなければいけないか。
追記:東北大学史料館が所蔵する黒田チカ宛田中秀央葉書(昭和28年)(「田中秀央書簡 | 東北大学総合知デジタルアーカイブポータル」)に「Oxford時代の写真帖御用ずみの上は御返送下され度」云々とあって、上記アルバムは一時期黒田に貸されていたようだ。

*1:皇紀2583年は、大正12年に当たる。

*2:一般の人は田中秀央(たなか・ひでなか)を知らないだろうが、皓星社の忘年会でこのアルバムについて話題にしたら、古本フレンズの皆様は、「ラテン語の田中」とすぐ分かってくれた。さすがである。

永楽屋細辻伊兵衛商店が発行していた講演集に江馬務ー細辻伊兵衛美術館では「ダンス、ダンス、ダンス!」展ー


 細辻伊兵衛美術館で2025年2月12日まで「ダンス、ダンス、ダンス!踊るテヌグイ展」開催中。この美術館は、手拭いがチケットで、下数㎝の所を半券としてビリッと破り取られ、残りは手拭いとして使えるように持ち帰るユニークさ。私は過去「昭和のモダンガール展」(令和5年)と「京てぬぐいと京うちわ 昭和初期のスポーツ展」(令和6年)に行っている。妖怪展(令和5年)に行かなかったのは痛恨の極みである。展示された手拭いの製作年が明示されていて、記録の管理には感心する。本と違って、手拭いそのものには製作年は記載されないからだ。
 さて、美術館を運営する永楽屋細辻伊兵衛商店が戦前講演会を度々開催し、講演集まで刊行していたことは知られていないだろう。私も全然知らなかったが、天神さんの古本まつりで厚生書店から見つけて驚いた。数冊出ていて、そのうち江馬務『木綿と染木綿の史的研究:講演10』(細辻商店、大正11年10月)ともう1冊購入。文庫サイズで、22頁。1冊100円。この講演集は、国会図書館が柴田隆明・水谷徹成『禅林寺事蹟と大曼荼羅について・鹿ヶ谷法然院につきて:講演49』(細辻商店、昭和11年9月)を所蔵しているぐらいか。全部買っておけば良かった…。
 本書は、『江馬務著作集別巻』(中央公論社、昭和57年6月)の詳細な年譜にも記載がない。ただし、昭和2年の条に『衣服裏地の沿革』(3月、細辻商店刊)とあって、これも講演集に属すると思われる。更に、江馬が主宰した風俗研究会の機関誌『風俗研究』73号(大正15年6月)掲載の江馬「手拭の歴史」の末尾に「(本編は細辻家の講演集から転載したことを記し同家に謝します)」とあって、『手拭の歴史』という講演集も刊行していたようだ。江馬の講演集は、少なくとも3冊刊行されていたことになる。
 『風俗研究』194号(昭和11年7月)の「主幹学窓日記」6月9日の条には、「細辻商店の新案手拭の展覧会[、]エロもグロもあり、由来手拭好の私の心を唆つたものが少なくなかつた」とある。「エロ」と言っても、現在の基準からいうと全然エロではなく美人のソフトな裸体画程度であろう。グロの方は、どんな手拭いだったのか気になるところである。

京都新聞「凡語」欄に寿岳文章登場ー12月8日に遠藤織枝氏の寿岳章子に関する講演ー


 昨日の京都新聞第1面「凡語」欄に、寿岳文章一家が暮らした向日市の住宅「向日庵」(澤島英太郎設計)を国の登録文化財とするよう答申された関係の記事。向日市教育委員会は、所有者の理解を得ながら公開していければとの方針らしい。これは、楽しみですね。記事では、国語学者だった長女にも触れられていた。
 この長女が寿岳章子(1924-2005)で、今年が生誕100年である。その記念すべき年に遠藤織枝『寿岳文章:女とことばと憲法と』(かもがわ出版、2024年9月)が刊行されたところである。文章一家については、NPO法人向日庵による機関誌『向日庵』が第7号まで刊行されるなど、研究・顕彰が進められている。12月8日(日)には、遠藤氏を講師としてキャンパスプラザ京都で「30歳代の寿岳章子ー学び、働き、楽しみ、悩んだ時代」を開催するとのこと。有料、申込み不要。御関心のある方は、是非参加されますように。
参考:「壽岳文章邸「向日庵」を設計した澤島英太郎の生没年 - 神保町系オタオタ日記」、「寿岳章子の古本人生3段階ーー『京古本や往来』(京都古書研究会)からーー - 神保町系オタオタ日記

西部古書会館で『仏教講義録』第1号(龍谷学会、明治45年)を


 皓星社の古本まつりに合わせて、上京してました。お買い上げいただいた皆様、ありがとうございます。古本道の諸先輩や研究者の方々にもお会いできました。一種の文化サロンですね。皓星社や古書会館でお会いした先輩方には杖をつく方もおられた。また、闘病中とお聞きした方もおられ、私もいつまで古本漁りができることやらという気持になった。私の方は肩の痛みで病院通いの日々だったが、幸いほぼ治った。
 東京古書会館や西部古書会館の古本まつりには、開会2日目の参戦。初日ではなくても、それなりに拾えました。生活がかかってセドリに必死の業者や邪魔者への「殺意」すら感じる蒐書家が紛れ込む初日よりも、2日目の方がゆったりと見られてよいかもしれない(^◇^;)
 さて、画像を挙げたのは西部古書会館で見つけた『仏教講義録』第1号(龍谷学会、明治45年1月初版・同年3月第3版*1)。龍谷大学が仏教大学と称していた時代の講義録である。越後屋書店出品で200円。龍谷大学図書館にも1巻2号~2巻12号のうち不揃い17冊しか所蔵されていない。奥付を挙げておく。

 発行所の龍谷学会については、『龍谷大学三百年史』(龍谷大学出版部、昭和14年7月)831・832頁に次のような記載がある。

(略)明治四十五年正月鈴木法琛・森川智徳・朝倉暁瑞等三講師が発起惣代となり、薗田学長を会長とし、本学諸講師を編輯顧問として組織された会で、一般派内僧侶の智識啓発に資するため、毎月一回『仏教講義録』を発行することを目的とした(略)その初号は一月二十日に発刊したところである。

 「一月二十日」とあるが、正しくは奥付を示したとおり1月25日である。同書の年表大正元年の条では、正しく「一月二五日 龍谷学会発会し、仏教講義録を創刊す」とある。なお、『龍谷大学三百五十年史:通史編上巻』(龍谷大学、平成12年3月)の年表明治45年・大正元年の条で『仏教講義録』の発刊を2月20日(典拠は『教海一瀾』)としているのも、誤りということになる。
 薗田宗恵会長以下の顧問・名誉賛助員・編輯顧問・役員の一覧を同誌から挙げておく。初めて見る人が多いだろう。大谷探検隊に参加した人達の名前が含まれていて、嬉しい。

 ここに名前がないが、奥付で龍谷学会の代表者で発行人とある和歌山の玉置韜晃が気になるので調べてみた。家蔵の『仏教年鑑:昭和十三年版』(仏教年鑑社、昭和13年4月)の「現代仏教家人名録」から要約しておく。

玉置韜晃
明治21年9月10日 和歌山県
大正5年~昭和4年 龍谷大学*2教授
大正11年~現在 臨済宗大学教授
昭和10年4月~現在 本願寺総会所主監
昭和7年~現在 研究科目唯識学顕真学苑にて研究(印度大乗教学)

 これでは明治45年時点の状況が不明である。どこかで拾っておいた森川智徳ほか『森川智徳先生回顧五十年』(森川智徳先生を偲ぶ会、昭和46年9月)を見てみよう。森川「回顧五十年」の第5回で、玉置を大正2年仏教大学卒業者として挙げていた。『仏教講義録』第1号発行時点では、玉置はまだ仏教大学の学生だったことになる。

*1:国会デジコレで見られる『信仰界』25年5号(布教叢誌社、明治45年5月)に載る『仏教講義録』の広告中に「第壱号三版を重ねて」とあるのが、事実と裏付けられる。

*2:大正11年5月に龍谷大学に改称するまでは、仏教大学

石崎光瑤と近代仏教者の交流に注目:京都文化博物館の「生誕140年記念石崎光瑤展」へ急げ~


 京都文化博物館で開催中の「生誕140年石崎光瑤展」も今日(11月10日)で終了である。私は、展示を観る前に関連イベントとして開催された講演会(9月21日)と座談会(同月29日)を拝聴した。そこで光瑤の2度に渡るインド旅行(大正5~6年と昭和8年)やヒマラヤ志向を知った。光瑤は近代仏教者と交流があったかもと思って、図録(毎日新聞社、令和6年7月)の年譜(植田彩芳子編)を見た。そうすると、大正4年の条に「秋 河口慧海と共に来日したチベット学者のチャンドラ・ダス親子が光瑤の京都の下宿に滞在」とあって驚いた。大正6年の条には、「一月~二月 カルカッタ(現コルカタ)滞在。青木文教と会う」とある。
 座談会の参加者だった渡邊一美氏の近著『評伝石崎光瑤:至高の花鳥画をもとめて』(桂書房、令和6年7月)に、より詳しく光瑤と近代仏教者との交流について記載されていた。
大正4年10月7日付け志賀重昂からの葉書には、安藤正純から電話で駒澤村の曹洞宗大学で河口の歓迎会があり、山上や安藤が光瑤も来会すれば好都合との連絡があったという。同書によると、山上は後の駒澤大学学長山上曹源。
・大正5年11月11日光瑤はインドへ向かう途中、上海で大谷光瑞からインドの情報を得ている。帰国後刊行した『印度窟院精華』(便利堂コロタイプ印刷所、大正8年2月)は光瑞の揮毫、高楠順次郎の序文である。展覧会で同書を拝見できた。
大正6年8月29日付け青木からの手紙によると、7月にインドから帰国した光瑤の様子を大谷尊由から聞いた青木は早速光瑤の下宿を訪ね、写真等を見せてもらっている。
 近代仏教者との交流については、まだまだ知られていないエピソードがあるかもしれない。紹介が遅れたが、近代仏教研究者の諸君は時間があったらのぞいてみましょう。来年1月25日~3月23日には静岡県立美術館に巡回します。
 渡邊著でもう一点驚いたのは、光瑤と光瑞の接点にいた人物として、光瑞の弟尊由と共に、富山県福光(光瑤の出身地)の谷村西涯の長子谷村一太郎が挙げられていたことである。西涯は光瑤の後見人の一人で、一太郎大正2年尊由の要請で財政の逼迫していた西本願寺の財政立て直しの相談相手になったという。一太郎は、私が「新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー - 神保町系オタオタ日記」などで追いかけていた実業家・蒐書家である。意外な所で、出会うことになった。