神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

玉置文弥論文「第二次大本事件が残したもの」に「神保町系オタオタ日記」登場


 「国会図書館デジタルコレクション」で「神保町系オタオタ日記」を検索すると、2件ヒットする。1件は「東大の博士論文に「神保町系オタオタ日記」登場ーー鈴木聖子『「科学」としての日本音楽研究』にスメラ学塾ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した鈴木聖子氏の博士論文である。もう1件は、平野亮「日本の骨相学者高橋邦三の伝」『国際井上円了研究』10号(国際井上円了学会、令和3年)である。拙ブログ「山口三之助の催眠術講義 - 神保町系オタオタ日記」が引用されているようだ。
 検索ではヒットしないが、御連絡をいただいて判明した引用論文がある。玉置文弥「第二次大本事件が残したもの:日中戦争・「大東亜戦争」下における道院・世界紅卍字会の「日本化」」である。東京工業大学未来の人類研究センターのオンラインジャーナル『コモンズ』2号「Commons Vol.2(2023年2月発行) | 未来の人類研究センター」掲載。「謝辞」として、

 なお、本論文執筆に係る史料収集の一部は、「オタどん」氏のブログサイト「神保町系オタオタ日記」における「紅卍字会」関係の記事を参考にした。

とある。ありがとうございます。
 玉置論文は世界紅卍字会後援会について、私が未見の『中外日報』、『心霊研究』、アジア歴史資料センター所蔵文書などを駆使してよくまとめておられて、とても感心した。一点だけ補足するとすれば、同会発行書として書影を挙げた『道慈問答』(昭和15年3月)も存在する。
 玉置論文の注で若林不比等に言及されていた。私も「日蓮主義者若林不比等のその後と講談社 - 神保町系オタオタ日記」などで言及したことがある人物である。しかし、同論文で若林が『農業の満洲』(農業の満洲社、昭和2年創刊)の編集をしていたことを知り、驚いた。「日本の古本屋」に2巻1号,昭和3年1月が出ていたので、早速購入した。発行人は川上賢三で、「川上初枝=若林初枝=内山若枝=日高みほの年譜 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した川上初枝=若林初枝=内山若枝=日高みほの父親である。バックナンバーの目次によれば、不比等の妻である若林初枝も寄稿していたことが判った。日高みほに注目していた海野弘*1は、今年4月に亡くなっている。玉置論文を読む機会はあっただろうか。
 道院・世界紅卍字会については、令和元年7月に日文研フォーラムで孫江「越境する民衆宗教ー大正・昭和前期における大本教と道院・紅卍字会の関係を中心に」が開催された。世界紅卍字会後援会については、講演では言及されず、質疑応答の中で言及されただけであった。玉置論文によって、ようやくその実態の全貌が明らかになったわけである。

心斎橋のヨネツ子供服装店と三条寺町のコドモヤ洋装店

 
 大阪歴史博物館7階に心斎橋筋にあったヨネツ子供服装店が復元されている。この米津禎三が経営した子供服店は、ショーウインドーが有名であった。橋爪紳也『モダン都市の誕生:大阪の街・東京の街』(吉川弘文館、平成15年6月)*1によれば、米津は欧州外遊から帰国後、それまで大人の洋品も扱っていた店を子供服専門店に特化し、店の面積の半分ほどを奥に人を誘導する飾り窓にしたという。「ヨネツスタイル」はインテリ階級の支持を受けたようだともある。

 ヨネツの子供服で育った大阪の子供で最も著名なのが、田辺聖子である。田辺は『しんこ細工の猿や雉』(文藝春秋、昭和59年4月)の「おとなしい子に御褒美」で、空襲に遭うまでは「ええ衆(し)」だったウチ(田辺写真館)の象徴として、「ヨネツ」の子供服を着て幌なしのタクシーに乗せられて心斎橋のレストランで御飯を食べたことを挙げている。そのヨネツも空襲で焼けている。店主の米津は、『第十四版大衆人事録』(帝国秘密探偵社、昭和18年9月)によれば、明治28年3月12日生まれ、大倉高商卒。先に合名会社ヨネツ雑貨店代表だった。妻愛は明治29年生まれ。
 大阪のヨネツ子供服装店に比べると知名度はまったく無いが、京都の三条寺町東にコドモヤ洋装店があった。店主は松本茂治という。「人事興信録データベース」で検索すると第8版(昭和3年7月)がヒットする。明治23年生まれとある。私がこの店を知ったのは、数年前四天王寺の古本まつりで「古書あじあ號」から入手した『日本婦人』(日本婦人新聞社)29号,大正12年4月~33号.大正12年8月の広告であった。この京都で発行された一応「婦人雑誌」に分類される雑誌については、別途アップする予定である。その後、「古本が絵葉書を呼ぶ」?で寸葉さんからコドモヤ洋装店から十合呉服店宛の年賀状(昭和3年)を入手している。400円。子供服の専門店としてはヨネツ子供服装店の先輩に当たるコドモヤ洋装店。田辺聖子みたいに後に著名な作家となる子供に着てもらえただろうか。

*1:橋爪著は「ヨネツ子供雑貨店」と表記しているが、米津禎三の店は「ヨネツ雑貨店」から子供服の専門店化した後は「ヨネツ子供服装店」に改名している。

小泉八雲の研究者パーキンスと南木芳太郎の『上方』


 『第三高等学校一覧』で昭和11年から14年までの文科卒業者を調べると、昭和11年に桑原静雄(後の竹之内静雄)、林田悠紀夫(戦後京都府知事)、12年に会田雄次、14年に杉原四郎がいる。なぜ調べたかというと、三高の英語教師だったパーシヴアル・D・パーキンスに英語を教わった可能性がある生徒を知りたかったためである。
 パーキンスは小泉八雲の研究者として知られている。平川祐弘監修『小泉八雲事典』(恒文社、平成11年11月)によれば、明治30年米国バーモント州生まれ。『ラフカディオ・ハーン作品書誌』(北星堂書店、昭和9年)を刊行後来日し、昭和10年4月から14年3月まで三高で英語を教えた。また、和田敦彦『書物の日米関係:リテラシー史に向けて』(新曜社、平成19年2月)によれば、昭和10年12月4日付けパーキンスの坂西志保*1宛書簡により、学生たちと古書店めぐりをし、多くの書店と深いつながりを持っていたことがうかがえるとある。パーキンスと古書店めぐりをした「学生」の中に竹之内らがいたかもしれないと考えると楽しい。
 パーキンスは、ある日記にも登場する。上方郷土研究社を主宰し、『上方』を編集した南木芳太郎の日記である。『南木芳太郎日記三:大阪郷土研究の先覚者』(大阪市史料調査会、平成26年8月)から引用しよう。

(昭和十三年)
七月二十七日
(略)
予記
京都三高パーキンスより来翰あり。

八月十八日
(略)
◯京都三高教授*2パーキンス氏へ「上方」十三年一月より八月迄送る。振替を送つて置く。
(略)

十二月二十九日
(略)
◯パーキンス氏より十四年度から一ヶ年会費送り来る。
(略)

 パーキンスは『上方』を気に入って、定期購読者になったようだ。

*1:国際文化振興会の坂西志保 - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:第三高等学校一覧:昭和十一年四月起昭和十二年三月止』(第三高等学校昭和11年7月)での肩書きは、「傭外国人教師」

湯浅吉郎が夢見る演劇図書館ーー村島彩加『舞台の面影』(森話社)への補足ーー


 知恩寺秋の古本まつりも11月5日で終了。私の古本生活も一段落である。今回の古本まつりでは、特に竹岡書店の均一台で色々拾えました。写真を挙げた『演劇博物館の栞』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、昭和15年12月)や『歌舞伎劇場図大展覧会目録:演劇博物館開館一週年記念』(演劇博物館後援会、昭和4年10月)がその例である。演劇博物館は、昭和3年10月の開館。初期の博物館の史料が古書市場に出たのだろうか。非常に状態がよく、旧蔵者が気になるところである。上京して博物館で「没後130年河竹黙阿弥ーー江戸から東京へーー」を観たばかりで、一種のシンクロニシティでもあった。
 さて、最近読んだ村島彩加『舞台の面影:演劇写真と役者・写真師』(森話社、令和4年5月)の「第一〇章 回顧とアーカイヴーー「劇に関する展覧会」と演劇図書館の試み」に、演劇博物館以前の大正15年に設立されたとの記録もあるという演劇図書館が出てくる。大正8年東京俳優組合の頭取である五代目中村歌右衛門が主唱し、世話役として山岸荷葉が選ばれ、元京都府立図書館長湯浅吉郎(号半月)が顧問となった。しかし、大正10年12月の『演芸画報』掲載の記事以降、演劇図書館に関する記事は発見できておらず、開館したかは不明とし、実現しなかったと思われると書いている。
 この演劇図書館の顛末については、実は湯浅関係の文献に記載がある。『書物展望』13巻11号(書物展望社昭和18年11月)の山宮允「半月年譜」大正12年9月の条に「俳優組合事務所も大震火災のため烏有に帰したるを以て、俳優図書館設立の計画を放棄し、募集せる設立資金を罹災俳優に頒与し、之を限り俳優組合と絶縁す」とある。これは、半田喜作編著『湯浅半月』(「湯浅半月」刊行会、平成元年11月)でも踏襲されている。これにより、実現しなかったと言える。
 ただ、ある程度は実現したとも言える史料がある。山形美編『大正大震火災誌』(改造社大正13年6月)の河竹繁俊「歌舞伎劇に及ぼせる影響」に演劇図書館の仮建築の焼失として、次のような記述がある。

(略)京橋区木挽町三原橋際に、梨園倶楽部なるものを設けて、階下は既に図書館に充て、諸家より寄贈の図書雑誌を蔵してゐたのであつた。がその建物は、震災によつて河の方へ傾斜し、数時間を出でずして焼失した。折角の好適な企画も一頓挫したことになるであらう。演劇図書館の焼失せる蔵書については、後段の「文献」の部に譲る。

 また、同書の内田魯庵「典籍の廃墟 失われたる文献の追懐」には「マダ公開されない中に全滅」とあるので、「文献」は集まりつつあったが、公開されていなかったと分かる。したがって、実質的には実現していなかったと言ってよいのだろう。
 残された疑問は、『近代文学研究叢書』55巻(昭和女子大学近代文化研究所、昭和58年12月)で山岸荷葉の章を執筆した赤松昭氏が「大正15・5創館」とした根拠である。これが、私にも分からない。ただ、
・『図書館雑誌』(日本図書館協会)大正15年及び昭和2年分に関係記事が無いこと
坪内逍遙の日記に記載がないこと
・国会デジコレで検索する限りでは、関係記事が見当たらないこと*1
から大正15年5月の創館は疑問である。可能性としては、同月に報道された*2坪内の日本最初の演劇図書館建設に向けた期成同盟会設立に関する記事と混同したのかもしれない。ただ、研究者がそのような誤りを犯すとも思えないので、すっきりはしない。引き続き調査してみたい。
 
 

*1:もちろん、国会図書館所蔵の文献に限られる上に、特に戦前の雑誌・新聞については所蔵率が限られているので、過信してはいけない。

*2:大正15年5月6日付け『東京朝日新聞』夕刊や『文藝時報』12号(文藝時報社、大正15年5月)など。前者について、坪内は日記同月5日の条で言及している。

楠部南崖の俳誌『変人』(俳華堂)と小川千甕ー『縦横無尽』(求龍堂)の「小川千甕年譜」「小川千甕書誌」への補足ー


 10月28日、出品している皓星社の古本市への表敬訪問のために上京。東京古書会館で前日から開催している特選古書即売展も覗いてきた。2日目のしかも開場から数時間経っていたので、「特選」度は薄かった。しかし、あきつ書店で『変人』(俳華堂)なる俳誌を発見。発行人は、東京市下谷区谷中町の楠部善男(号南崖)である。俳誌そのものには興味がないが、目次に小川千甕(おがわ・せんよう)の名前があるので買ってみた。2冊で1,500円。
 1巻2号,大正15年7月には、「からだとみさほと」掲載。「遊女の貞操観」に関する随筆である。「編輯後記」に「原稿をお願した先生方はどなたも快く、すぐに御執筆下さいました。本号の執筆者、千甕氏は画壇に(略)有名な方」とあるので、同誌への初登場と思われる。
 2巻4号,昭和2年4月では、表紙題字を担当している。また、南崖「編輯室より」には、「四月二日出発、伊勢、三河方面へ千甕画伯と旬日の旅をしました」とある。素堂報「勝浦俳句会」には、旅行中の作と思われる千甕の2句が出ている。千甕の旅行好きについては、「大正11年今日も旅する小川千甕 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したことがある。
 千甕については、平成27年12月~28年1月京都文化博物館で開催された展覧会の図録『縦横無尽:小川千甕という生き方』(求龍堂平成26年11月)に詳しいところである。私は観に行って図録も持っているので、早速調査。上記については、増渕鏡子編「小川千甕年譜」と橘川英規編「小川千甕書誌」に記載が無かった。拙ブログにより補足とさせてもらおう。
 本誌は、『俳句辞典:近代』(桜楓社、昭和52年11月)によれば、大正15年6月創刊のホトトギス派の俳誌である。千甕は度々『ホトトギス』に表紙画、裏画、挿画等を描いたり、俳句を寄稿していたので、南崖とは交流があったのだろう。また、『俳文学大辞典』(角川書店、平成7年10月)によれば、師系は村上鬼城で、昭和7年12月7巻12号を発行した後、南崖の満州中国東北部)移住のため休刊したと思われるとされている。ただし、群馬県土屋文明記念文学館が8巻1号,昭和8年1月を所蔵しているので、終刊号についての記述は不正確である。

書肆夏汀堂永見徳太郎の葉書ー長崎県美術館で「浪漫の光芒 永見徳太郎と長崎の近代」展開催中ー


 長崎県美術館で来年1月8日まで「浪漫の光芒ー永見徳太郎と長崎の近代」を開催中である。旧Twitterで知って、フライヤーはまだ入手していない。長崎には学生時代の友人鼎君(筆名。京大U超研・SF研OB)がおられるし、観に行きたいところである。こういう有名人ではないが、特定の地方や分野で知る人ぞ知る人物に関する展覧会が好きだ。
 永見は、昔よく通った神戸市立博物館の前身である池長美術館の池長孟に南蛮屏風等を売却した蒐集家として、名前は知っていた。また、実は書肆夏汀堂*1の肩書きがある永見から大友佐一宛の絵葉書を持っている。600円で寸葉さんから入手。裏面は、「聖母マリヤ 浦上信者舊蔵」の写真である。切手は貼られておらず、大友の住所も書かれていない。投函するのを止めたか、大友に会う知人に託したのだろう。
 文面は、
・報知の浮世絵展は大盛況で、展覧会のレコードを破り、近く聖上も来られるらしい
・7月10日~16日に永見が主となり、南蛮展覧会を三越で開催し、寛永前の物のみ並べる予定
・大友の方に慶長頃の古い極上の物があれば、知らせてほしい
・近く『南蛮屏風集成』を刊行する*2
ことなどが書かれている。
 『日本美術年鑑1929』(東京朝日新聞発行所、昭和3年12月)の「古美術展一覧」によれば、浮世絵展は昭和3年6月6日から25日まで報知新聞社の主催により東京府美術館で開催された。永見は、《狩野元秀洛中洛外図》《南蛮人来朝図》を出品している。これにより、葉書は同月に書かれたことが判明した。また、同一覧によれば、南蛮美術展は、南蛮会の主催により三越で同年7月10日~16日に開催されている。永見や山村(山村耕花ーー引用者注)所蔵の南蛮屏風を始め、新村博士(新村出ーー引用者注)が発見した切支丹宗徒の墓等が展示された。
 葉書の宛先の大友は、『石川県人名辞典 現代編三』(石川出版社、平成5年9月)に、「大友奎堂」として立項されている人物と思われる。明治23年金沢市尾山町生まれ、本名佐一。家業の駅弁当屋大友楼を息子に任せ、もっぱら自分の好きな道、郷土史や刀剣等の研究に専念したという*3。永見と大友の関係は、不明である。永見については詳細な大谷利彦『長崎南蛮余情:永見徳太郎の生涯』(長崎文献社、昭和63年7月)及び『続長崎南蛮余情:永見徳太郎の生涯』(同、平成2年10月)があるが、後者の「正編・続編人名索引」を見ても大友は立項されていない。ただ、後者の282頁によれば、昭和3年5月7日の「よみうり文芸」欄の「よみうり抄」に「金沢市で氏(永見ーー引用者注)が中心となり海外文化展開催昨日同地に赴いたが北国地方を廻はつて帰る予定」とあるそうので、その時に二人の接触があったかもしれない。
追記:『西洋文化移入に関する図書展覧会目録』によれば、昭和3年5月5日~7日石川県立図書館で同図書館及び金沢市書香会主催で「西洋文化移入に関する図書展覧会」が開催され、永見や大友が出品している。

*1:大谷利彦『続長崎南蛮余情』234頁に「とくに本格的な出版社経営を意図していたわけではなく、自著の刊行にのみ用いた名称と考えてよい」とある。ただし、春山育次郎『月照物語』(書肆夏汀堂、昭和2年10月)という永見著以外の書も刊行されている。

*2:『南蛮屏風大成』上・下(巧藝社、昭和5年7月)か。

*3:大東亜図書館学の小川寿一旧蔵『趣味之北日本』(郷土研究社)と谷村一太郎、そして中田邦造 - 神保町系オタオタ日記」で言及した中田邦造編『秋村翁追懐録』(秋村翁追懐録編纂会、昭和12年12月)の「編纂餘滴」によれば、同書を計画した金沢の有志(北六一郎、桂井健之助、太田敬太郎、大友、毎田周治郎、中田)の一人でもある。

小川一眞の写真に手彩色をする画家原憮松ー『一寸』(学藝書院)に「原撫松の日記」連載中ー


 『一寸』87号(学藝書院、令和3年12月)以降の同誌に丹尾安典氏による「原撫松の日記」が掲載されている。数年前発行者である書痴同人の一人山田俊幸氏旧蔵の『一寸』が「本おや」に出て、数冊持っている。しかし、最近の号は持っておらず、更に所蔵する図書館も限られていて、読みたいのに困ってしまった。
 ところが、知人が創刊号から最新号まで持っておられて、拝読することができた。ありがとうございます。早速読んでみると、昨年岡塚章子『帝国の写真師小川一眞』(国書刊行会)が刊行された小川一眞(おがわ・かずまさ)が出てきた。小川については、印刷博物館で11月18日~2月12日「明治のメディア王 小川一眞と写真製版」も予定されていて、タイムリーである。原の日記から小川が出てくる箇所の一部を引用しておこう。

(明治三十六年一月)
十日 晴
 午後袖岡氏来訪。小川写真店百美人展覧会のぼりの図案依頼す。承諾す。

(同年二月)
六日 晴
(略)
 鉦太子*1小川フロマイト写真着色三枚を手伝ひの依頼に来る。小川の究(*窮)状きのどくにて断りかね、諾す。三面着色料二十円也。

十三日 晴
 朝よりフロマイトを着色す。空の色にコバルト/ホワイトを用ひたる為め何となくにごりたればブルシヤンブリユーにて再三色上げせんと試みたれども却て面白からず。遂に画面洗浄を思立て白布にてぬぐひたり。然るに下張の骨現はれ遂に策の施すなく全く失敗に終りたり。
(略)

*は、丹尾氏による注

 平成9年に開催された「知られざる正統-原撫松展:伝えられた英国絵画のこころ」の図録(原撫松展実行委員会)の年譜によれば、原は慶応2年備前岡山出石村生まれ。明治17年1月京都府画学校全科を優等第1位で卒業、京都府宮津中学校・滋賀県師範学校の教員を経て、20年頃岡山に戻る。29年頃上京し、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、森村組総帥森村市左衛門など著名人から肖像画を依頼されたという。
 日記明治36年1月10日の条の「百美人展覧会」は、同年3月3日付け『読売新聞』朝刊によれば、上野公園第5号館で同月1日から開催された。小川撮影の東京百美人を縦3尺5寸、横2尺5寸の掛額で展示したものである(追記:岡塚著の年譜に記載がある大阪で同年3月1日~7月31日開催された第5回内国勧業博覧会における「百美人写真展」の方かもしれない。)。
 また、2月6日・13日の条に記載された小川撮影の写真への原による手彩色が面白い。どういう人が手彩色を描いていたのか考えたことはなく、名のある画家が行った場合もあるとは面白い。しかし、原は結局失敗していて手彩色も難しいものである。

*1:丹尾氏による明治36年1月1日の条への注によれば、銀座の額縁店「八咫屋」主人の岩松鉦太