神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大東亜図書館学の小川寿一旧蔵『趣味之北日本』(郷土研究社)と谷村一太郎、そして中田邦造


 昨年知恩寺の古本まつりで竹岡書店の8冊まで500円台から、『趣味之北日本』3号(郷土研究社、昭和6年11月。以下「本誌」という)を発見。郷土研究社は金沢市に所在し、発行兼編集人は金沢市の大蔵一郎である。『書誌学』5号(日本書誌学会、昭和41年7月)所収の山森青硯「春日本万葉集断簡と金沢」によれば、大蔵は山中温泉の旅館大蔵屋の主人であった。
 本誌は表紙の目次にあるように、趣味誌というよりは、郷土研究誌、書誌学雑誌である。金沢文圃閣なら「いい値段」を付けそうと思ったら、「日本の古本屋」で加能屋書店が創刊号~4号を1万2千円で出していた。

 ところで、本誌を買った決め手は、実は小川寿一の旧蔵だったからである。写真を挙げた帯封の宛先が京都の小川宛であった。小川については、『戦時下日本主義の図書館:『日本図書館学』・皇道図書館』(金沢文圃閣、令和元年9月)の解題である小林昌樹「戦時期ガラパゴス化の果てに見えた日本図書館界の課題:アメリカ流を奉ずる我々に日本主義図書館学が教えてくれること」に詳しいところである。私も「では小林昌樹「戦時期ガラパゴス化の果てに見えた日本図書館界の課題」に補足してみようーーもう一つあった皇道図書館ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及しているので、今回小川の旧蔵書を見つけて、驚いたことであった。
 小川は明治40年生まれの国文学者で、昭和16年京都帝国大学附属図書館司書官の三田全信と共に大東亜図書館学とも言うべき日本図書館学会を創立することになる。小川は、本誌が発行された昭和6年龍谷大学文学部を卒業したと思われる。2年後の昭和8年に「谷村文庫の谷村一太郎は本当に東京専門学校卒か - 神保町系オタオタ日記」で言及した谷村一太郎と『老松堂日本行録:校注』(太洋社、昭和8年2月)を刊行している。同書の「はしがき」で、谷村は小川を「友人」と呼んでいる。この二人の関係については、中田邦造編『秋村翁追懐録』(秋村翁追懐録編纂会、昭和12年12月)の小川「しのぶぐさーー故谷村一太郎大人の一周年にーー」に記載があった。

 昭和三年の梅が香の薫ずる早春であつたらうか。烏丸書楼とて、故太田虹村氏の書屋に、私は主人の気焔と古書とを見較べてゐた時、「お若い人もゐらつしやるんですなあ」と、私と私の前の古書との対象を、端的に主人に表白せられた方が戸口に居られた。これが谷村さんであつた。爾来、谷村さんから書物に就いてのお導きを受けることゝなつた。
(略)
 昭和五年の「万葉展」には、谷村さんと共に私は金沢に赴いた。(略)

 この追懐録を編集した中田は、昭和2年石川県立図書館長事務取扱に就任し、昭和6年からは同図書館長であった。同図書館の所蔵する中田関係史料の中に昭和4年の谷村から中田宛寒中見舞の書簡などがあって、谷村と中田も相当昔から親しかったことがわかる。本誌には、同図書館主催の郷土文化展覧会の記事も載っている。おそらく小川と本誌をつないだのは、谷村や中田であっただろう。なお、追懐録には本誌の寄稿者である宮武竹隠や日本図書館学会のメンバーだった中神天弓(利人)の名前も見える。

後の大谷大学学長山辺習学が昭和3年島津忠重公爵邸で開催した仏教講話


 尚友倶楽部・季武嘉也・櫻井良樹編『財部彪日記』(芙蓉書房出版、令和3年11月)の索引を見てたら、山辺習学が出てきた。8回出てきて、すべて財部が袖ヶ崎の島津忠重公爵邸で開催された山辺の仏教講話に参加したという記述である。一部を引用しておこう。

(昭和三年)
九月十八日 火曜
(略)
夕七時より島津公の招に依り袖ヶ崎邸に於ける山辺師の仏教講話を聴講。
 釈迦の発心
    老
 現実{*1病   理想(不死)
    死
 仏教の筋道「聞思修」
(略)
十月二十二日 月曜
(略)六時半妻同伴袖ヶ崎島津邸に赴き、山辺博士の十二縁起講義を聞く。九時過帰邸。
十一月二十日 火曜
(略)
夜島津公爵邸の山辺博士の仏教講義に赴く。十二因縁の、行、無明の講釈頗る面白し。英[ママ]心理学者ゼームス氏の潜在意識も、亦頗る傾聴に価するものあるを覚ふ。

 昭和3年9月から4年6月まで毎月のように山辺の仏教講話が開催されていたようだ。ウィリアム・ジェームズにも言及していたことがわかる。山辺は、当時大谷大学教授(のち昭和18年~19年学長)で京都に住んでいたはずなので、毎月上京していたのだろう。
 島津公爵は、貴族院議員(明治44年10月~昭和21年5月)で、昭和2年12月から海軍大学校教官、3年12月から英国在勤帝国大使館付武官(ロンドン着任は4年2月)である。山辺と島津との関係は不詳である。二人とも英国に留学しているが、期間は重ならない。名和達宣先生や福島栄寿先生なら判るかしら。
 山辺も出てくる大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編『近代仏教スタディーズ:仏教からみたもうひとつの近代』(法藏館平成28年4月)については、「近代の仏教者達と国家主義団体大亜細亜建設社ーー笠木良明のもとに集まる多田等観・山辺習学・足利浄円・中井玄道ーー - 神保町系オタオタ日記」でも言及したところである。その『近代仏教スタディーズ』は4月に増補改訂版が出るようだ。編者の一人である吉永さんは昨年亡くなったが、近代仏教研究は着実に進展している。吉永さんも見守っていることだろう。

*1:「{」は実際は、「老」「病」「死」の3つにかかる。

カード・インデックスで在庫管理をしていた?大阪の古書店アジア書房


 これも、難波神社のヒマガミで入手。『経済と社会』(アジア書房、昭和7年10月)。戦前の古書目録というだけで買っていたら切りが無いので、面白そうな寄稿が載っているものに限定して購入するようになってきた。今回は、「東亜同文書院教授植田捷雄宛絵葉書 - 神保町系オタオタ日記」で言及した植田捷雄が「支那の政治外交に関する文献資料に就て(五)」を書いていたので買ってみた。ナンブ寛永出品、500円。

 奥付によれば、アジア書房は大阪市北区桜橋交叉点東に所在し、2千部発行。しかし、あまり残っていないようで、『日本古書目録大年表:千代田区千代田図書館所蔵古書販売目録コレクション』(金沢文圃閣平成27年1月)には、『文献目録』2号、昭和10年11月と同4号、昭和11年5月のみ挙がっている。タイトルを『経済と社会』から『文献目録』に変更している。また、『大阪個人古書目録年表:自明治二十三年至昭和五十年』(大阪府古書籍商業協同組合、昭和58年7月)*1では、『外国古書販売目録』、昭和7年月不明と『経済と社会』15号、昭和8年5月が挙がっている。「日本の古本屋」には、『支那昭和6年10月号や『文献目録』などが出品されている。
 さて、実は植田の寄稿よりも写真を挙げた店の写真の方が興味深かった。向かって右側が洋書の棚、左側が和書の棚である。中央にあるのが、カード・インデックス・ボックスである。カードで倉庫に置いてある古書の管理をしていたのだろうか。

*1:大正13年7月に創立された大阪府古書籍商業協同組合創立六十周年記念に発行された。来年が創立百周年である。『文献継承』41号(金沢文圃閣、令和5年2月)の「受贈書誌」に坂本卓也「『組合百年史』の編纂に向かって」掲載の『大阪古書月報』令和5年1月号が出ているので、『大阪府古書籍商業協同組合百年史』の作成が進められているようだ。

桜男の笹部新太郎が昭和19年大阪造兵局で開催した桜の会と南木芳太郎


 昨年5冊目で完結した『南木芳太郎日記』(大阪市史料調査会)。本当に趣味人が多く出現する日記である。@wogakuzuさんが「人名索引や事項索引がほしい」とつぶやいておられたが、誠にそのとおりである。「田中緑紅が創設した演芸研究会「柝の音会」の幹事加藤菊次郎 - 神保町系オタオタ日記」で言及した加藤菊次郎も、実は『南木芳太郎日記五』に登場している。

(昭和十九年)
二月六日
(略)
◯京都太秦西蜂岡町九、加藤菊次郎氏より146号以下残本の問合あり、返事出す。
(略)

 更に、白鹿記念酒造博物館(酒ミュージアム)で「桜男笹部新太郎を育てた文化」展が開催された笹部も出てきた。笹部とは、南木が主宰する『上方』88号、昭和13年4月に「近畿の桜」を寄稿してもらうなど交流があった。 

(昭和十九年)
四月十二日
(略)
造幣局案内状着につき松鶴*1・志村政元・孝橋一夫・松本茂平・朝倉斯道(朝日新聞)*2・池田谷久吉・高尾彦四郎へそれ/\送る。
(略)
四月十五日(土曜日)
(略)一時前、造幣局へ行く。三階に笹部氏既に陳列品を整へてあり。二時開会。局長の挨拶、佐多博士*3の笹部氏紹介、笹部氏の講演、松鶴の「桜の宮の仇討」にて無事終了。来会者約百名盛会であった。(略)

 この大阪造兵局で開催された桜の会について、酒ミュージアムで笹部の年譜昭和19年の条に記載があった。それによると、東京桜の会が戦争のために開催できなくなったので、大阪造兵局で開催したという。笹部の『櫻男行状』(平凡社、昭和33年4月)の「造兵局と桜の会」にも記載があった。

 文献展観には、桜癖として、江戸中期から明治初期へかけての画家で、桜の絵に科学性をとり入れながらも芸術の香りも失わせず、桜の画ばかりしか描かなかった一方、名桜の保存に盡した人びとの作品と併せて、桜に因む書画や蒐集品の類を陳列した。戦時では他家の蔵品の借出しなどできることではないので、ことごとく私の蒐めたものばかりであった。(略)
 桜の講演も私の独り芝居だったから、これだけでは明るさがないと考えるにつけて、これは私のいたずらっぽい演出ながら、彩りにもと松鶴の落語“桜の宮の仇討”一席を余興として加えることとした。(略)

 酒ミュージアムには、「戦前の西宮で創立された蒐集家ネットワーク「西宮雅楽多宗」 - 神保町系オタオタ日記」で言及した西宮雅楽多宗関係の写真、案内状も展示されていた。笹部は西宮雅楽多宗の会員ではなかったが、例会に参加したり講演したりしたという。笹部さくら資料室として所蔵するコレクションは度々展示しているようなので、今後も注意して観に行きたい。なお、西宮雅楽多宗について大正5年創立とパネルにあった気がするが、昭和5年ではないだろうか。ネットで読める山内英正「『西宮雅楽多宗』の人々(一)戦前編ーー趣味人ネットワークの成立・展開ーー」の92頁には大正5年5月5日結成とあるが、94頁に昭和5年5月5日開創、113頁に昭和15年8月に結成10年記念の鈴塚を建立とあり、昭和5年創立が正しいと思われる。

*1:笑福亭松鶴

*2:昭和19年《國之楯》を完成した直後の小早川秋聲が『南木芳太郎日記五』に - 神保町系オタオタ日記」で言及した『南木芳太郎日記五』昭和19年3月10日の条に出てくる「朝倉」と思われる。

*3:佐多愛彦

須田国太郎や明石染人と交流のあった田中緑紅と豊ヶ丘農工学院の漢見信子


 太田喜二郎や須田国太郎と年賀状のやり取りをした津崎信子(のち漢見信子)については、「太田喜二郎人生最後の年賀状ーー津崎信子宛年賀状からーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。その後@pieinthesky氏からおまけに貰った(又は追加で買った?)年賀状を紹介しておこう。明石染人から漢見宛昭和30年の年賀状である。以前紹介した年賀状では漢見の住所は滋賀県彦根市や愛知県豊ヶ丘農工学院だったが、これは大阪の河内少年院官舎となっている。
 染人は歌人の明石海人とは無関係で、詳しい経歴は「Kokeshi Wiki」の「明石染人 | Kokeshi Wiki」を見られたい。染織工芸の研究者で、こけしの蒐集家でもあった。また、大正7年1月田中緑紅らと共に『郷土趣味』を創刊したメンバーである。昨年歴彩館で展覧会があった*1明石博高(あかし・ひろあきら)の三男でもある。漢見と染人のつながりは、不詳である。ただ、染人の本名である明石国助名義の昭和31年及び32年の年賀状(宛先は豊ヶ丘農工学院)もあるので、一定期間交流が続いたことになる。
 ところで、令和元年6月三人社から復刻された『緑紅叢書』の別冊に付録として付いた『京を語る会会報』を読んでいたら、驚いた。36号、昭和37年12月で緑紅が須田との関係について言及していた。

▽竹馬の友であつた芸術院会員須田国太郎君は惜まれて昨冬十二月十六日、七十才で亡くなりました。(略)幼稚園、日影小学、第五高小、府立一中まで一緒でした。生徒中でも平凡な子で、絵画に趣味をもつていることも知りませんでした。(略)

 調べてみると、須田は「京を語る会」の会員であっただけではなく、緑紅や染人が創設した郷土趣味社の正会員でもあった*2。また、染人も「京を語る会」の会員であった。漢見は、緑紅と深く繋がる須田や染人の両方と交流があったことになる。ただし、漢見と緑紅との接点は確認できないので、今のところ偶然と考えた方が良さそうではある。いずれにしても、瓢箪から駒で画家としての須田に知られざる側面が判明して、勉強になった。「図書研究会々員だった?須田国太郎 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように、須田は戦前「図書研究会」の会員だった可能性もあり、漢見共々今後も注目したい。

*1:令和4年4月16日~6月5日に開催された「明石博高ーー京都近代化の先駆者ーー」

*2:『郷土趣味』4巻12号の(郷土趣味社、大正13年1月)の「郷土趣味社会員名簿」(大正13年1月10日調)

田中緑紅が創設した演芸研究会「柝の音会」の幹事加藤菊次郎


 先日難波神社の骨董市「ヒマガミ」をのぞいてきました。9時~11時は有料(千円)なので、11時過ぎに入場。貧乏なのと千円出して何も買わなかったら馬鹿みたいなので、いつも有料時間帯には行っていない。人より先んじていい物を入手したいという気迫もないのである。
 それでも、今回ナンブ寛永氏(@kan_ei_sen)からいい物が買えた。写真を挙げた『加藤菊次郎氏家蔵劇に関する書物展目録』(郷土文化研究会、昭和19年)である。主催した郷土文化研究会は、田中緑紅が主宰した団体である。菊地先生の代わりに?購入、2千円。先生の持っている緑紅日記に出てくるだろうか。
 緑紅の「序」によると、加藤は演芸研究会「柝の音会」の幹事で、多年劇に関する資料を蒐集してきたという。今回は、1度に陳列しきれないので、脚本・舞踊・喜劇・歌劇に属する物は次の機会に譲り、歌舞伎を主に出品した130余点の目録だともある。
 目録に記載された書籍の分類は、次のとおりである。京都のピヨンピヨン堂が発売した中川象司*1『隈取百集』(昭和4年)が載る頁の写真も挙げておく。

歌舞伎概説
演劇史
芸談
演劇論
劇評集
演劇評論及随筆
花柳章太郎演劇関係随筆集
隈取
舞台装置
舞台化粧

小道具他
歌舞伎画集
雑誌特集号
文楽関係及人形劇
(別枠として)土佐太夫芸談(新聞切抜帖)


 「柝の音会」(きのねかい)については、森西真弓編『上方芸能事典』(岩波書店、平成20年3月)に立項(森西執筆)されていた。それによると、緑紅の主宰で、昭和15年1月から21年1月まで延べ90回に及んだ芸能文化サロンである。堂本寒星、福岡みつぎが理事で、約160名の会員を擁した。能楽、歌舞伎、文楽、新派などの鑑賞会、俳優の座談会、演劇書の展観、SPレコードによる名人を偲ぶ会などが開催された。「演劇書の展観」が目録の「劇に関する書物展」に該当するのかもしれない。ただし、目録には「主催 郷土文化研究会」とあって、郷土文化研究会と柝の音会との関係は不詳である。森西先生には「田中緑紅と〈柝の音会〉」『池坊短期大学紀要』31号があるが、未見。ネットでは読めないですね(´・_・`)
 『昭和人名辞典第3巻』によれば、加藤は製氷業者であった。同書から経歴を要約しておこう。

加藤菊次郎 菊香氷室 製氷業 中京区河原町四条上ル
明治44年5月8日生
昭和5年東山中学卒業祖業を継ぐ
趣味 俳句、郷土研究

 住所が書物展の開催された加藤邸のある太秦とは確認できないが、趣味が郷土研究とあるので同定してもよいだろう。
 次回のヒマガミは、6月11日(日)。どのような紙々に出会えるだろうか。
追記:森西論文を読めました。ありがとうございます。催し一覧に「劇ニ関スル本展観」(太秦加藤邸、昭和19年4月29日)が挙がっていました。他には、「怪談会」(民政会館、昭和16年9月20日)、「紙芝居研究会会員招待/錦影絵の会」(法林寺、昭和17年3月7日)、「祭礼と指人形の会」(竹内栖鳳邸、同年5月28日)などが気になる。

*1:目録では、「中川宗司」と誤植

吉永進一「ピラミッドゼミ」 VS. 神保町のオタ「日本オカルティズム入門ゼミ」ーー横山茂雄ロングインタビュー掲載『近代出版研究』2号が4月発売ーー


 早いもので吉永進一さんが亡くなられて、今月末で1年になる。亡くなって数ヶ月間は思い出すだけで涙が出たが、もうそういうこともなくなった。吉永さんとは、大学に入ってUFO超心理研究会で出会って以来の仲である。当時の吉永さんは相手によっては厳しい人であった。しかし、私は同郷で高校の後輩でもあったので、可愛がられた方だと思う。
 吉永さんに頼まれて私も寄稿した栗田英彦編『「日本心霊学会」研究:霊術団体から学術出版への道』(人文書院、2022年10月)は、吉永さんの没後に刊行された。その栗田「あとがき」231頁には、次のような過分の言葉があった。

(略)神保町のオタさんは、吉永先生が学生時代に所属したサークル「京都大学UFO超心理研究会」の後輩で、これまた伝説となった近代ピラミッド協会の一員でもある。吉永先生のパソコンに残された未発表草稿には、一九七八年の特筆すべき出来事として「×××という異才が(UFO超心理研に)入ってきたこと」とあり、また、オタさんの編集したUFO超心理研の機関紙[ママ]『宇宙波動』二〇号に対しては「×××偏執[傍点]長の手腕が窺える」という賛辞がある(失礼ながら本名を伏せた)。いかに吉永先生が当時からオタさんの才能を高く買っていたかがよくわかる。私自身もオタさんのブログ「神保町系オタオタ日記」を読むたびに、「古書マニア」という在野の知の深淵にいつも舌を巻かされている。

 吉永さんや栗田さんが私のことをそんな風に思っていてくれたと知り、とても感激した。ただ、「異才」というのはリアルタイムの感想ではないだろう。1回生の時の私は、田舎から出てきて特に人見知りの強い何の取り柄もない青年だった。当時の吉永さんの口癖を借りれば、「しょうもないやっちゃ」と思われていたのではなかろうか(^_^;)
 吉永さんと過ごした懐かしいU超研(UFO超心理研究会の略称)時代の勉強会のレジュメが出てきたので、この際紹介しておこう。青焼きの「ピラミッドゼミ-1」は、1978年開催と思われる吉永さんによる全3回の勉強会*1の分の一部である。武内裕『日本のピラミッド』(大陸書房、1975年12月)に感化された有志のU超研メンバーは、前年11月に近代ピラミッド協会の機関誌『ピラミッドの友』を創刊していた。後に京大大学院宗教学専修で特殊(な)講義「心身論から見た日本近代思想」を開催することになる吉永さんだが、往年の「ピラミッドゼミ」を思い出すことはあっただろうか。
 「日本オカルティズム入門」の方は、1981年私が開催した勉強会のレジュメである。第1回分しか残っていない*2。「日本オカルティズム」が「山窩(さんか)」から始まるというのは、随分けったいな構成である。当時の私の趣味を反映してるのかな。「次週予定」には、「ついに出た!日本のピラミッド」とある。この頃吉永さんはもう部室には来られず、私の勉強会は聴いていない。参加されていたら、あれこれ突っ込まれたことだろう。
 吉永さんの畏友で古本仲間(にしてライバル?)だった横山茂雄さんへのロングインタビュー「川島昭夫吉永進一らとの交友、そして古本収集話」が『近代出版研究』2号(皓星社発売)の巻頭に載ります。4月7日発売予定です。私も聞き手の一人として、協力しています。よろしくお願いします。詳しくは、↓
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*1:他に、Sさんの「ESPゼミ」やIさんの「西洋オカルティズムゼミ」があったと思う。

*2:他に、「異端考古学ゼミ」や「超古代大陸入門」のレジュメが残っている。