神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都新聞「凡語」欄に寿岳文章登場ー12月8日に遠藤織枝氏の寿岳章子に関する講演ー


 昨日の京都新聞第1面「凡語」欄に、寿岳文章一家が暮らした向日市の住宅「向日庵」(澤島英太郎設計)を国の登録文化財とするよう答申された関係の記事。向日市教育委員会は、所有者の理解を得ながら公開していければとの方針らしい。これは、楽しみですね。記事では、国語学者だった長女にも触れられていた。
 この長女が寿岳章子(1924-2005)で、今年が生誕100年である。その記念すべき年に遠藤織枝『寿岳文章:女とことばと憲法と』(かもがわ出版、2024年9月)が刊行されたところである。文章一家については、NPO法人向日庵による機関誌『向日庵』が第7号まで刊行されるなど、研究・顕彰が進められている。12月8日(日)には、遠藤氏を講師としてキャンパスプラザ京都で「30歳代の寿岳章子ー学び、働き、楽しみ、悩んだ時代」を開催するとのこと。有料、申込み不要。御関心のある方は、是非参加されますように。
参考:「壽岳文章邸「向日庵」を設計した澤島英太郎の生没年 - 神保町系オタオタ日記」、「寿岳章子の古本人生3段階ーー『京古本や往来』(京都古書研究会)からーー - 神保町系オタオタ日記

西部古書会館で『仏教講義録』第1号(龍谷学会、明治45年)を


 皓星社の古本まつりに合わせて、上京してました。お買い上げいただいた皆様、ありがとうございます。古本道の諸先輩や研究者の方々にもお会いできました。一種の文化サロンですね。皓星社や古書会館でお会いした先輩方には杖をつく方もおられた。また、闘病中とお聞きした方もおられ、私もいつまで古本漁りができることやらという気持になった。私の方は肩の痛みで病院通いの日々だったが、幸いほぼ治った。
 東京古書会館や西部古書会館の古本まつりには、開会2日目の参戦。初日ではなくても、それなりに拾えました。生活がかかってセドリに必死の業者や邪魔者への「殺意」すら感じる蒐書家が紛れ込む初日よりも、2日目の方がゆったりと見られてよいかもしれない(^◇^;)
 さて、画像を挙げたのは西部古書会館で見つけた『仏教講義録』第1号(龍谷学会、明治45年1月初版・同年3月第3版*1)。龍谷大学が仏教大学と称していた時代の講義録である。越後屋書店出品で200円。龍谷大学図書館にも1巻2号~2巻12号のうち不揃い17冊しか所蔵されていない。奥付を挙げておく。

 発行所の龍谷学会については、『龍谷大学三百年史』(龍谷大学出版部、昭和14年7月)831・832頁に次のような記載がある。

(略)明治四十五年正月鈴木法琛・森川智徳・朝倉暁瑞等三講師が発起惣代となり、薗田学長を会長とし、本学諸講師を編輯顧問として組織された会で、一般派内僧侶の智識啓発に資するため、毎月一回『仏教講義録』を発行することを目的とした(略)その初号は一月二十日に発刊したところである。

 「一月二十日」とあるが、正しくは奥付を示したとおり1月25日である。同書の年表大正元年の条では、正しく「一月二五日 龍谷学会発会し、仏教講義録を創刊す」とある。なお、『龍谷大学三百五十年史:通史編上巻』(龍谷大学、平成12年3月)の年表明治45年・大正元年の条で『仏教講義録』の発刊を2月20日(典拠は『教海一瀾』)としているのも、誤りということになる。
 薗田宗恵会長以下の顧問・名誉賛助員・編輯顧問・役員の一覧を同誌から挙げておく。初めて見る人が多いだろう。大谷探検隊に参加した人達の名前が含まれていて、嬉しい。

 ここに名前がないが、奥付で龍谷学会の代表者で発行人とある和歌山の玉置韜晃が気になるので調べてみた。家蔵の『仏教年鑑:昭和十三年版』(仏教年鑑社、昭和13年4月)の「現代仏教家人名録」から要約しておく。

玉置韜晃
明治21年9月10日 和歌山県
大正5年~昭和4年 龍谷大学*2教授
大正11年~現在 臨済宗大学教授
昭和10年4月~現在 本願寺総会所主監
昭和7年~現在 研究科目唯識学顕真学苑にて研究(印度大乗教学)

 これでは明治45年時点の状況が不明である。どこかで拾っておいた森川智徳ほか『森川智徳先生回顧五十年』(森川智徳先生を偲ぶ会、昭和46年9月)を見てみよう。森川「回顧五十年」の第5回で、玉置を大正2年仏教大学卒業者として挙げていた。『仏教講義録』第1号発行時点では、玉置はまだ仏教大学の学生だったことになる。

*1:国会デジコレで見られる『信仰界』25年5号(布教叢誌社、明治45年5月)に載る『仏教講義録』の広告中に「第壱号三版を重ねて」とあるのが、事実と裏付けられる。

*2:大正11年5月に龍谷大学に改称するまでは、仏教大学

石崎光瑤と近代仏教者の交流に注目:京都文化博物館の「生誕140年記念石崎光瑤展」へ急げ~


 京都文化博物館で開催中の「生誕140年石崎光瑤展」も今日(11月10日)で終了である。私は、展示を観る前に関連イベントとして開催された講演会(9月21日)と座談会(同月29日)を拝聴した。そこで光瑤の2度に渡るインド旅行(大正5~6年と昭和8年)やヒマラヤ志向を知った。光瑤は近代仏教者と交流があったかもと思って、図録(毎日新聞社、令和6年7月)の年譜(植田彩芳子編)を見た。そうすると、大正4年の条に「秋 河口慧海と共に来日したチベット学者のチャンドラ・ダス親子が光瑤の京都の下宿に滞在」とあって驚いた。大正6年の条には、「一月~二月 カルカッタ(現コルカタ)滞在。青木文教と会う」とある。
 座談会の参加者だった渡邊一美氏の近著『評伝石崎光瑤:至高の花鳥画をもとめて』(桂書房、令和6年7月)に、より詳しく光瑤と近代仏教者との交流について記載されていた。
大正4年10月7日付け志賀重昂からの葉書には、安藤正純から電話で駒澤村の曹洞宗大学で河口の歓迎会があり、山上や安藤が光瑤も来会すれば好都合との連絡があったという。同書によると、山上は後の駒澤大学学長山上曹源。
・大正5年11月11日光瑤はインドへ向かう途中、上海で大谷光瑞からインドの情報を得ている。帰国後刊行した『印度窟院精華』(便利堂コロタイプ印刷所、大正8年2月)は光瑞の揮毫、高楠順次郎の序文である。展覧会で同書を拝見できた。
大正6年8月29日付け青木からの手紙によると、7月にインドから帰国した光瑤の様子を大谷尊由から聞いた青木は早速光瑤の下宿を訪ね、写真等を見せてもらっている。
 近代仏教者との交流については、まだまだ知られていないエピソードがあるかもしれない。紹介が遅れたが、近代仏教研究者の諸君は時間があったらのぞいてみましょう。来年1月25日~3月23日には静岡県立美術館に巡回します。
 渡邊著でもう一点驚いたのは、光瑤と光瑞の接点にいた人物として、光瑞の弟尊由と共に、富山県福光(光瑤の出身地)の谷村西涯の長子谷村一太郎が挙げられていたことである。西涯は光瑤の後見人の一人で、一太郎大正2年尊由の要請で財政の逼迫していた西本願寺の財政立て直しの相談相手になったという。一太郎は、私が「新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー - 神保町系オタオタ日記」などで追いかけていた実業家・蒐書家である。意外な所で、出会うことになった。

「神保町のオタ」が当たり年の2024年


 流行語からは程遠いが、今年は「神保町のオタ」が妙に文献で言及される年である。まずは、御恵与いただいた小田光雄近代出版史探索Ⅶ』(論創社、令和6年1月)の「1258 前田河広一郎『三等船客』、自然社、「新人叢書」」。次のような過分の言葉をいただいた。6月に亡くなられた小田氏には、改めて感謝を申し上げる。

 なおアップする前に検索してみると、「神保町系オタオタ日記」(2011・10・1)がすでに「プロレタリア出版社自然社の梅津英吉」を書いていることを知った。
「必読」と付記しておく。

 北見継仁編著『知られざる佐渡郷土史家・蒐集家:青柳秀雄の生涯とその業績』(皓星社、令和6年4月)も謝辞と献本をいただき、ありがとうございます。
 そして、『『謄写版』:人びとのメディアーーガリ版/アート/印刷史』第3巻・第4巻(金沢文圃閣、令和6年9月)。資料提供への謝辞である。拙ブログ「風船舎で買った小泉與吉の昭和10年創刊『謄写版』(謄写版研究社)に「全国謄写人名簿」 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『謄写版』の復刻版で、推薦文は磯部敦先生。
 続いて、田中聡・斎藤英喜・山下久夫・星優也編『〈学知史〉から近現代を問い直す』(有志舎、令和6年3月)の栗田英彦「ポスト全共闘の学知としてのオカルト史研究ーー武田崇元から吉永進一へーー」。「なお、U超研-近代ピラミッド協会からは、在野の古書マニアでブロガーとしても知られる「神保町のオタ」も輩出している」とある。岩波の「帝国日本の学知」以来「学知」という言葉が好きなので、タイトルに「学知」を冠した本に名前が出て嬉しい。私なんかは、京大UFO超心理研究会や近代ピラミッド協会に参加していたことが自慢である。しかし、世間的には必ずしも自慢できるサークルとは受け止められないので、他に「輩出」したアカデミズムの研究者名を追加するのは遠慮しておこう(^_^;)
 栗田論文の存在は、旧Twitterの「斎藤英喜教授@広報秘書(HNくたくた)」で御教示いただき、本体価格8,600円なので「貧乏なのでまだ買えてない」とつぶやいた。すると、栗田さんからpdfをお送りいただいた。ありがとうございます。他にも面白そうな論文が載っているので、借りてきている。補足を書ける論文があったら、またアップします。編者の1人である斎藤先生は9月に亡くなられた。御冥福をお祈りします。
 同じく栗田さんの論文「昭和一〇年代の文部省と知識人ーー日本神話派(「生みの哲学」派)周辺人脈を中心にーー」は『藝林』73巻1号(日本学協会、令和6年4月)掲載。抜刷をいただいている。こちらは、戦争文化研究所、国民精神文化研究所スメラ学塾に関連して拙ブログに言及している。
 昔からの知り合いである斎藤光先生には『健康塾通信』27号(京都健康管理研究会、令和6年10月)の「消えたモダン京都:スターバー(1930~1939?)」で言及いただいた。拙ブログ「寸葉会で発見されたスター食堂の社内報?『スター食堂ニュース』57号(昭和14年10月) - 神保町系オタオタ日記」である。
 そして、古本道の大先輩高橋輝次さんから届いたばかりの『戦前モダニズム出版社探検:金星堂、厚生閣書店、椎の木社ほか』(論創社、令和6年11月)。「毎回、興味深く拝見している”神保町のオタさん“の最近のブログ」云々と登場していた。ありがとうございます。いつまでもお元気で御活躍いただけますように。
 U超研の先輩横山茂雄さんと武田崇元氏の対談集『霊的最前線に立て!:オカルト・アンダーグラウンド全史』(国書刊行会、令和6年10月)はまだ買えてないが、拙ブログが出てくるはずである。
 雑誌では、上記の他にも、盛厚三さんの『北方人』別冊『野中賢三Ⅲ』(北方文学研究会、令和6年5月)の「野中賢三の周辺の人たち①:画家武田壽・武田比佐のこと」と『草の根研究会会誌』2号(草の根研究会、令和6年5月)のTakashi Kamikawa「細い道ーー私の在野研究とSNS」に登場しました。
 それから、書物蔵著・小林昌樹解説『あったかもしれない大東亜図書館学:ガラパゴス的日本主義図書館学の形成』(近代出版研究所、令和6年8月)には、数えきれないぐらい出てくる。もっとも、『文献継承』誌からの再録で、本書が初出ではない。しかし、まとまって読めて楽しい。
追記:失礼しました。岩瀬彰利編著『愛知の名所いまむかし:明治・大正・昭和』(風媒社、令和6年2月)の近藤順「五色園 文献・資料から辿る“迷処”の謎【日進市】」に画像協力者として登場しています。
 以上、思い出せる範囲内で「神保町のオタ」や「神保町系オタオタ日記」に言及していただいた文献を列挙しました。年内には、あと某同人誌に謝辞が載る予定である。1年に1回言及されるだけでもありがたいのに幾つもの文献で言及していただいた。関係者の皆様、ありがとうございます。
 
 

平生釟三郎と日蓮信仰ー三輪是法『近現代日本における日蓮信仰』(法藏館)へ補足ー


 三輪是法『近現代日本における日蓮信仰』(法蔵館、令和6年2月)は、主として日記、手紙、著書、講演録等から近現代における日蓮仏教の信仰者における心理的動向を扱ったものである。扱われた信仰者としては、長松日扇(本門佛立宗の開祖)、田中智学、高山樗牛姉崎正治石原莞爾牧口常三郎戸田城聖北一輝、妹尾義郎などよく知られた人が多い。そのほか、「あとがき」によると、日蓮宗の季刊誌『正法』の連載で、宮澤賢治、小笠原長生、小島愛之助、山本峯吉(桃中軒雲右衛門)、穐吉定次(双葉山)について資料調査を行っているという。
 そこで、私が日記読みの中で見つけた人をあげておこう。東京海上保険大阪・神戸両支店長で後に甲南学園第2代理事長(大正15年~昭和20年)となる平生釟三郎である。『平生釟三郎日記』*1補巻(甲南学園、令和2年12月)の巻別人名索引で「日蓮」をみると、全18巻ほぼすべての巻の日記に「日蓮」が登場することがわかる。そのうち、第2巻(平成22年12月)から引用してみよう。次郎(次男)の3回忌に際して会食中に主僧が日蓮宗だったため、たまたま話が日蓮上人に及び、平生は次のように語ったという。

(大正五年)
十二月二十四日 日曜日 快晴
(略)日本人ハ有色人種ノ代表者、統率者、指導者トシテ他日白晳人種ヲ屈服セシメテ世界ノ覇者タルノ天命ヲ有スベキモノナルコトヲ確信シ、其信念ヲ以テ同胞相掖シテ世界ニ雄飛センコトヲ覚悟セザルベカラズ。而シテ日蓮上人ハ七百余年前ニ於テ日本ニ根拠ヲ置キ、日本帝室統治ノ下ニ法華経ヲ以テ世界ヲ統一シ、一天四海、皆帰妙法ノ理想ヲ実顕セント力行奮闘シタル人ナレバ、其説クトコロ其告グルトコロハ総テ現時ノ日本人ガ服贋シテ之ヲ実行セザルベカラザルモノナリ。故ニ余ハ、智識階級ニ属スル人々ガ現今大ニ日蓮主義ノ研究ニ意ヲ用ユルニ至リタルコトハ慶スベキ現象ナラズヤト。(略)

 平生が日蓮を研究するに至った切っ掛けは、大正5年12月31日の条によると、崇拝する加藤清正日蓮宗の信者だったためだという。一部の巻しか読んでいないが、索引を利用して日蓮が登場する分だけ読んでも、平生の日蓮信仰の変遷を辿れるかもしれない。
参考:「三輪是法『近現代日本における日蓮信仰』(法藏館)に北一輝・北昤吉兄弟に催眠術を教えた永福寅造登場 - 神保町系オタオタ日記

*1:『平生釟三郎日記』に柳田國男らしき人物が出てくることは、「柳田國男が貴族院書記官長を辞めた本当の理由? - 神保町系オタオタ日記」参照

天神さんの古本まつりで新田錦城編『都市と藝術作品集』(マリア画房、昭和14年)ー石崎光瑤《浅春》掲載ー


 天神さんの古本まつりをのぞいてきた。今回100円均一コーナーが珍しく?くろっぽい本が少なくて、さっぱりだった。しかし、古書ダンデライオン、南部堂、初参加の古書フジエダからいい本が買えた。更に厚生書店が段ボール箱数箱に詰まった初出しのような紙ものを出していて、良さげであった。ただ、出遅れて収穫は明治38年の日記1点だけであった。
 それとは別に厚生書店の単行本300円均一の中に、新田錦城編『都市と藝術作品集』(マリア画房、昭和14年5月)があった。「都市と藝術」からモダニズムを期待したが、その要素はなく迷った。しかし、京都文化博物館で観た「生誕140年記念石崎光瑤展」(~11月10日)によりマイブーム中の光瑤の作品が載っているのと、マリア画房(京都市上京区)の発行なので購入。マリア画房は、拙ブログ「元美術記者神崎憲一が発行した『アートグラフ』創刊号(マリア画房、昭和26年)ーーマリア画房の高野敏郎と新京の大陸美術社もーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した美術出版社である。
 本書は、国会図書館サーチ、CiNii Books、美術図書館横断検索や日本の古本屋の出品記録ではヒットしない。そのため、マリア画房の出版史を語る際には貴重な発見と思われる。もっとも、よくよく調べると京都学・歴彩館が所蔵していた。扉には「春の巻第一輯」とあるが、続篇が出たかどうか。編者の新田は、『京都画壇大観』(昭和8年1月)や雑誌『都市と藝術』(大正6年7月創刊)を発行した都市と藝術社(京都市上京区)の主宰者である。新田がマリア画房に企画を持ち込んだのかもしれない。

 光瑤の作品《浅春》の写真を挙げておく。見覚えのある気がしたものの、前記展覧会の図録には載っていなかった。図録で「静謐なる境地へ」とされた昭和10年代の作品と思われる。現存するだろうか。

 

三輪是法『近現代日本における日蓮信仰』(法藏館)に北一輝・北昤吉兄弟に催眠術を教えた永福寅造登場

 三輪是法『近現代日本における日蓮信仰』(法藏館、令和6年2月)は、500頁を超える本なのでつまみ読み中である。そうすると、第5章第3節「北一輝の信仰」に懐かしい霊術家永福寅造が出てきた。
 平成22年の拙ブログ「古屋鉄石の孫弟子、北一輝 - 神保町系オタオタ日記」に、古屋鉄石の弟子で北一輝や弟の北昤吉と霊的交流があった霊術家として紹介した人物である。あらためて読むと、柳田國男も永福に会っていて驚きますね。その時に吉永さんからは、古屋が発行していた『精神新報』79号(明治44年夏)に永福が精神研究に従事していると報告していることや、84号(明治45年秋)に母親が亡くなったので帰郷するとある以降の続報はないとのコメントをいただいた。三輪氏も東京大学総合図書館所蔵の同誌から同じ内容を引用している。もしかしたら、拙ブログを参考にされたのかもしれない。
 吉永さんは『精神新報』原本を持っていたのかどうか。書庫を見せてもらった時に『太霊道』をかなり持っているのを見たけれど、『精神新報』には気付かなかった。蔵書目録の作成が期待されるところである。