2008-01-01から1ヶ月間の記事一覧
『考證永井荷風』の秋庭太郎が澤田について多少詳しく書いている。 同月[昭和7年10月]十四日夜、荷風は銀座オリンピックに於て日本大学教授澤田卓爾、同岡本隆治と逢つた。(略)澤田は荷風と同年輩の浜松出身の英文学者、明治大正の文学に造詣深く、谷崎潤…
谷崎潤一郎の友人、澤田卓爾が『武林無想庵追悼録』に出てきた。 関根大仙(天台宗大僧正文学博士、駒沢大学教授)によると、 世界第二次大戦の真最中であったと思うが、谷崎先生や、佐藤先生の友人である、沢田卓爾君が、私の弟子になって僧籍に入り、坊主…
瀬戸義直(せとよしなお)という人を『日本近代文学大事典』で引くと、明治22年2月26日生、大正13年6月15日没の翻訳家とある。大正2年早大英文科卒、婦人画報記者もつとめたが、海外文藝の紹介研究に貢献したという。日夏耿之介とも親しかったようで、「假面…
森茉莉にかぶれてはいないのだが、茉莉ネタ。従来の年譜には記載がない。 『本間久雄日記』によると、 昭和34年1月18日 五時大隈会館にゆく。森茉莉、安田保雄両氏出版記念会(九日会、表象合同主催)出席のためなり。一場のテーブル・スピーチをする。来会…
野上弥生子の日記から。 昭和7年6月19日 その留守に佐藤春夫の紹介で沢田と云ふ人が来訪。長く米国に行つてゐた人で、佐藤や谷崎の友人の由、ちもとのお菓子をどつさり持つて来た 子供たちから大に賞揚される。 6月26日 父さんには朝この間佐藤春夫の名刺を…
啄木の日記にも中村蓊(古峡)が出てきた。 明治42年3月9日 社で中村蓊といふ人と話した。生田森田辻村君らの友人で文学士、予は忘れてゐたが以前二三度逢つたことのある人だ。案外知らぬところに知つた人がゐるものだ。 「社」は朝日新聞社のことで、「生田…
宮本百合子の日記にはこんな一節があったりする。 大正11年3月23日 夕方、星の六階でコロンビア会。種々な人に会ふ。ベルリナに久しぶりで会ひうれしく思った。 石原さんが見える。日本人の女では二人きり。 おそらく星製薬でコロンビア大学の同窓会が開催さ…
近事画報社時代に『婦人画報』の担当者だった枝元枝風については、昨年12月18日にも言及したけれど、追加の情報があるので紹介。 東京専門学校(早稲田大学の前身)文学科を明治34年に卒業。 この後の枝元が坪内逍遥の日記に出ている。 明治37年3月1日 夜枝…
またまた『編集者 国木田独歩の時代』でおなじみとなった人達を見つけた。 大正6年4月5日 窪田空穂君の妻君が死んだそうだ。 4月6日 午後窪田君の妻君のお葬式があった。同君は去年子供に死なれ、いままた妻君に死なれた。田山花袋、徳田秋声、水野葉舟、大[…
『本間久雄日記』というのは、人名索引があればもっと活用されるのだろう。こんな一節もあった。 昭和35年12月28日 引きつゞき午後二時頃大沢実君来る。茶の間に通し、学校内の裏話など種々きく。(谷崎氏の独裁、取巻連の横暴其他)此間に処にしての大沢君…
中村古峡、本名蓊が跡見花蹊の日記に出てきた。 大正2年4月30日 来客、台湾小畑照世其母と、中村蓊と結婚して其婿と来る。 年譜(曾根博義編)によると、中村はこの月の18日に照世(明治28年生)と結婚、入籍している。 新婚さんの中村夫妻が挨拶に来たのだ…
後に津田塾大学塾長となる星野あいは、大正7年9月のコロンビア大学入学について自伝『小伝』で次のように振り返っている。 ニューヨークでは住居を探すのに一苦労しましたが、偶然の機会に昔、海岸教会でオルガンを弾いていらしたので顔見知りであった吉田信…
宮本百合子の詳しいことについては、田村先生(小谷野敦「山室なつ子の生涯」)に聞いてほしい(笑)が、女史の日記に『婦人画報』の女記者が出てきた。 大正11年2月8日 ○又びしょびしょ雨で陰気な日だ。昨日来た、『婦人画報』の記者は、女、大、で一緒であ…
もちろん桜庭の小説は読んだことはないのだが、『桜庭一樹読書日記』は読んだ。 2007年1月某日 夕方、家を出て徒歩五分の紀伊國屋書店>>新宿本店に向かった。 本当に、おおきな本屋さんである。ビルぜんぶが本、と知ったとき、その昔の、上京直後のわたし(…
二人目も女記者。水島爾保布夫人で、SF作家今日泊亜蘭の母である水島幸子については、一昨年7月19日、7月20日、昨年1月13日で言及したところだが、『婦人画報』の記者でもあった。 『跡見花蹊日記』第3巻によると、 明治41年12月5日 来客、岡崎忠子、婦人画…
『本間久雄日記』(松柏社)の解説(平田耀子)によると、 昭和三十三年早稲田大学定年一年後、本間は実践女子大学教授となる。(略) (略)英文科教授にはその他山田惣七、坪内章(略)がおり、本間とも親しかった英文学、比較文学の島田謹二(一九〇一−一九…
『婦人画報』の近事画報社、独歩社時代については、『編集者 国木田独歩の時代』に詳しいので、東京社時代の同誌の記者について、何人か記録しておこう。ただし、不定期連載。やはり、最初は「グレさん」こと坂本紅蓮洞に語ってもらおう。 『中央公論』28年9…
黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』に出てくる独歩周辺の人物のうち、例えば窪田空穂、吉江孤雁、前田晁などは既にこのブログでも登場していたみたいだが、私にとっては単なる記号でしかなかった。しかし、同書を読んだ後では、少し身近な人間として感じ…
助手のウェルス女史から日本にキリスト渡来伝説があることを聞いたチャーチワードが、その話を自著の何年の版から導入したのか、原書を確認する必要がある*1が、戦前チャーチワードの原書でその記述を見た人がいる。 久保木朝之助『イエスキリスト日本におけ…
天羽英二に接触したのは、天羽が辞めたとは言え、昭和16年10月まで外務次官だった関係と思われる。 天羽と接触したもう一人の人物永井柳太郎も衆議院議員だが、別の肩書きは大政翼賛会興亜局長。昭和16年興亜局の前身東亜局において永井局長の下、直属の庶務…
チャップリンの秘書が日本人だったというのも面白い話だが、ムー大陸を提唱した、というか捏造した人というべきか、チャーチワードというトンデモない人がいるが、その女助手が戦前日本に送り込まれていたというのも驚くべき話だ。 これについては、既に藤野…
日露戦争期の絵はがきブームについて、黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』に出てたので絵葉書ネタを。 幸田露伴の日記に、明治43年永井三星堂から創刊された月刊誌『絵葉書世界』の女記者が出てくる。 明治44年2月14日 薄暮石橋思案紹介にて井出百合とい…
金尾文淵堂が『仏教大辞典』の予約金を集めながら、明治40年7月の刊行を延期し、41年8月以降に倒産したことは、石塚純一『金尾文淵堂をめぐる人びと』に記されている。また、同書によると、40年10月7日の『万朝報』が文淵堂の窮状や予約金が1万9千円に達して…
久保田万太郎が谷崎潤一郎と後藤末雄について書いていてくれた*1。 −忘れもしない、後藤末雄が高等学校へ入つてまだ間もないとき、「べつたら市」といふ詩を学校の雑誌へ出して、大へんに学校の先輩からほめられた、後藤はすつかり得意になつた。さうして、…
島崎藤村の神津猛宛書簡に金尾文淵堂が出てきた。 明治38年5月8日付け書簡には、5月4日のこととして、 この夜金尾文淵堂なる書店の主人来訪、「文芸倶楽部」紙上にて小生の出版事業を聞きたりとて、その一手発売の委托を乞ひに来る。書肆の機敏可驚、尤も思…
堀一郎の「「日の御子」の伝説」が掲載された『新若人』の前号に当たる昭和17年3月号に小島威彦も執筆している*1。 このアメリカが侵略せる太平洋は嘗てマヤ文化やインカ帝国の発展してゐた「陽の御子文化圏」と呼ばれてゐる地域であり、いはば日本の一分身…
新年早々スメラ学塾。昭和15年5月創設のスメラ学塾に講師として参加することになる市河彦太郎が、まだ文学青年の雰囲気を残していたと思われる頃の話。 野上弥生子の日記(『野上弥生子全集第2期第5巻』)によると、 昭和13年5月24日 六時半から帝国ホテルで…
朝日の「人生の楽園SP」を見てたら、会社を早期退職して2004年に金沢の住宅街にある自宅を改築して、「あうん堂」という古本屋カフェを開いた本多夫妻という人が出ていた。カフェ部分に比べ古本の方は全く売れていないみたい。 金沢まで言っても、泉鏡花記念…
今年は国木田独歩没後100年であるとともに、日本SFの父、海野十三(うんのじゅうざ)の生誕110年の年*1でもあるらしい。 徳島県立文学書道館で1月5日〜2月10日の間、「日本SFの父・海野十三展」が開催される。「徳島のSF文学展」も併催。 …
あけましておめでとうございます。 『國文學』の2月号(1月10日発売)の予告によると、「特集 早稲田と慶應」をやるらしい。 石山洋「図書館の歴史−早稲田と慶應」なんてのも挙がってた。『日本古書通信』の連載と少し重なるような気も。 今日の箱根駅伝…