神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『心』とクラブ関東の小島威彦


小谷野敦氏の里見本に、安倍能成を中心として組織された生成会が、平凡社を版元として昭和23年7月に創刊した雑誌『心』が出てくる。それで思い出したのだが、小島威彦が事務局長を務めたクラブ関東から『心』に資金援助されていたことが、野上彌生子の日記に出てくる。

昭和30年3月7日 保坂運転手が迎ひに来て、まづ百人町の大内家に行き、夫妻をのせて法政に行く。今度の新校舎を奥さんに見せる私の誘ひだしの実行である。(略)
関東クラブで午食を倶にする。ここに入つた時私のアタマに一番浮んだのは、いつか大島康正氏にきいた*1、××さんがここをマネージしてゐるとの事であつた。それ故大内氏にその話をもちだすと、この間クビになつた、と答へたので、びつくりした。ヤリ手だが少々インチキとの批評。そこで田辺先生かつぎだしかけの話をすると、その挫折を可とされた。××氏は退職についてクラブの方で色をつけてやつたらしく、妻君と近くドイツに行く筈。法政の哲学科への希望を、多田さんを通じて洩らされたが、それは拒絶したうんゝゝ。「心」へ毎月二十万円やる事の話も、それは広告をそれくらゐとつてやるとの話であつた。しかしこれとてもほんのはじめに十数万円集めたに過ぎなかつた。クラブを退くにいたつた原因も、大ぶろしきの言行不一致が祟つたらしい。安倍さんなどは、もう少し寛容を示してもよいではないかとの意見であつたが、やつぱり退かなければならなかつたのは、ここの出資者なる資本家たちは、さうなると現実的で甘くはないからであらう。
食事がすみ、大内夫人と私は手洗ひ場に入つたりで、大内さんよりすこし遅れて玄関に出ると、大内さんが外套を着ながら一人の男と立ち話をしてゐる。オールバツクの鼻の高い、鼠いろの背広を着た長身の男で、快活な高調子で、大内氏ら学術委員の諸氏がロシアに行くころには、自分もドイツにゐるから云々−−と語つてゐる。私にはすぐぴいんと来た。大内さんが奥さんと私を紹介した。彼は野上先生のことは田辺先生によく伺つてをり、ヘッセのものを私に誘はれてよんだ。−−そんなことを語つた。私は、山へは近ごろ参りましたか、とたづねると、このごろは御無沙[汰]してゐるとの返事であつた。


「安倍」は安倍能成、「大内」は大内兵衛。大内や里見とんは生成会の会員であった。「田辺」は田辺元、「法政」は法政大学。小島の名前はここでは伏字であるが、この出来事を田辺に報告した野上の昭和30年3月9日付け書簡(『田辺元野上弥生子往復書簡)』)で小島とわかる。


野上が、戦前、市河彦太郎と面識があることは、昨年5月2日本年1月5日に紹介したが、戦後小島とも出会っているのだね。


(参考)昭和30年1月11日の条には「おひる前から谷川たき子さん。(略)田辺先生下山のことがニュースになつてゐるらしい。中止のことを伝へる。××氏は谷川さんにも出入した人物。だいぶ評判がよくない。戦争中はちよつと誇大妄想的でさへあつた由、一二年まへまでは身をひそめてゐたかたちであつたさうな。先生がかつがれなかつたのは仕合はせであつた」とある。谷川たき子(多喜子)は谷川徹三夫人。

                                                                                • -


日経の瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」。永遠に続くかと思ったが、今日で終わり。最終回は「小田仁二郎の時代小説」。1月4日からは亀山郁夫の「ドストエフスキーとの旅」。

                                                                                  • -


某紙にて黒岩さんのコメントを見る。sakura-iro-yumeさんが黒岩さんの弦斎本の紹介をしている。→「http://d.hatena.ne.jp/sakura-iro-yume/20081227

*1:昭和29年12月29日の条に「午後大島康正氏(略)/先生を中心にして哲学アカデミーを作らうとカクサクしてゐるお弟子は××さんといふ人で、いまは心に毎月二十万円づゝ出資してゐる方とのこと。高山さんとよく来山された事は先生にもきいてゐたが、名前ははじめて知つた」とある。