神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

サンカ

仏教者としての三角寛と浄土真宗本願寺派最乗寺住職の大原寂雲

昭和60年10月号から平成22年10月号まで300冊刊行された『彷書月刊』という本好きの人向けの雑誌があった。全冊蒐集しようとする人も多いようだが、特集形式なので先ずは総目次の付いた最後の2冊を入手して、それを見て自分の関心のある特集号だけ集めておけ…

昭和13年渡仏する宮本三郎画伯を見送る三角寛

三角寛のサンカ小説と挿絵を描いた宮本三郎については、「ようやく解けた謎の宮本三郎『サンカ画集』 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。私は世田谷にある宮本三郎記念美術館は何回か行ったことがあるが、「宮本三郎と三角寛のサンカ小説展」のよ…

昭和12年9月歌舞伎座で上演された三角寛原作『山窩の女』

山窩(サンカ)という存在を始めて知ったのはいつのことだっただろうか。UFO超心理研究会に入る前から知っていたのか、入ってから部員に聞いたのかもはっきりしない。確実なのは、京大教養部の図書館で書庫*1に並んでいた『三角寛全集』(母念寺出版)を全巻読破…

ようやく解けた謎の宮本三郎『サンカ画集』

私には長らく抱えている未解決の謎が幾つかある。そのうちの一つが宮本三郎のサンカ画集である。これは、サンカ研究会編『いま、三角寛サンカ小説を読む』(現代書館、平成14年8月)の佐伯修「三角寛サンカ小説を読者はこう読むーー読者アンケートよりーー」…

戦時下のユダヤ研究会と丸山敏雄の日記

久しぶりに驚愕の日記を発見。『丸山敏雄全集』日記篇(社団法人倫理研究所)だが、この日記が凄い。増田正雄のユダヤ研究会、田多井四郎治のウエツブミ研究会、契丹古伝などがボンボン出てくる。未知のトンデモ本にも言及されていてたまげました。とりあえず…

姨捨山だった日本女子大学校

正体不明の自笑軒主人による『秘密辞典』(千代田出版部、大正9年6月)を見ると、 [おばすてやま 姨捨山] 小石川豊川町の日本女子大学の異名。不美人が多い処といふ意より来る。 とある。日本女子大学(戦前は「日本女子大学校」)は、昔ブスが多かったらし…

島尾敏雄が聞いたNHKラジオ「社会探訪」の「山窩の瀬降りを訪ねて」

『新潮』連載の「島尾敏雄 終戦後日記」が終了。楽しませていただいたが、先月号の昭和25年9月9日の条には驚いた。 昭和25年9月9日 Radioの社会探訪、山窩のセブリを尋ねての録音。突然新聞記者がフラッシュをたいたので山窩の女房怒る。心にしみて残る。 …

三角寛を激怒させた宮本幹也の『魔子恐るべし』

KAWADE道の手帖『サンカ 幻の漂泊民を探して』所収の田中英司「まぼろしのサンカ映画『魔子恐るべし』」によると、鈴木英夫監督の「魔子恐るべし」は昭和29年6月封切り。原作は、宮本幹也の同名の作品で、『東京タイムズ』に28年6月21日から29年7月20…

三角寛と人世坐

名古屋の上前津〜鶴舞間の古本屋は多すぎて、個別の情景は思い出せない。そんな中でも、上前津の海星堂書店で何年も売れ残っていた『日本探偵作家クラブ会報』の合本が印象的であった。さて、同誌の167号(昭和36年9月1日)の土田喜三(世文社社長)「『三角…

都島のサンカと志賀志那人

岡田播陽『大衆経』(昭和5年6月)に一文を寄せた一人*1、志賀志那人は、大阪市立市民館の初代館長であった。森田康夫『地に這いて 近代福祉の開拓者・志賀志那人』には、志賀の日誌が収録されているが、その大正13年12月30日の条によると、 都島橋下山窩の…

サンカから石亀を買う三好達治

三好達治は、明治33年8月に大阪で生まれ、39年から四、五年兵庫県有馬郡三田町の祖父母のもとで暮らしていた。この時にサンカの女が売りに来た石亀を祖母に買ってもらった思い出を「石亀」に書いている。 ある晩秋の日暮れ近い時刻であつた。髪をひつつめに…

『江戸川乱歩小説キーワード辞典』に「比佐子」あり

『江戸川乱歩小説キーワード辞典』(東京書籍、平成19年7月)は高いので座り読み。 カフェー、上山草人、山窩、神保町、谷崎潤一郎、図書館、古本屋なども立項されている。 「鳩、ハト」を見ると、6作品に登場しているらしい。そのうち、伝書鳩として登場す…

堀田善衛とサンカ

堀田善衛の「奇妙な一族の記録」(『文藝春秋』1956年6月号)*1にサンカ関係の凄いネタがあった。 その頃、私の家に、碁石という奇怪な姓の女中さんがいた。十七、八の若い娘であったが、これが、母の話によると、なんでも山窩の娘だということで、選挙が近…

昭和最大の怪物矢次一夫と清水精一

戦前、大蔵公望らと共に国策研究会*1を創設した矢次一夫(やつぎかずお。1899-1983)。大宅壮一は矢次を「昭和最大の怪物」と呼んだという。 その矢次が、サンカ文献『大地に生きる』の著者清水精一に出会っていた。『現代史を創る人びと(4)』(毎日新聞社、…

三角寛以前のサンカ小説(その2)

サンカ文献の一つ、清水精一『大地に生きる』によると、 曽つて中村吉蔵さんが「無籍者」といふ脚本を書かれたものがあるが、これはポンスの一部を表はして居るものである。また、大朝、東朝の夕刊小説に「照る日曇る日」といふものが掲載されたことがある。…

退屈男が目撃したサンカ

旗本退屈男で知られる佐々木味津三は、明治29年3月愛知県北設楽郡下津具村生まれだが、少年期にサンカを目撃していたという*1。 近頃山窩が、大衆物の呼びものの一つになりかけてゐるらしいが、三河の山奥で育ツた僕は、少年のころ、しばしばこの山窩の移動…

三角寛以前のサンカ小説

沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』(文藝春秋、2001年11月)によると、 大正期には、柳田*1が手がけたような目ぼしいサンカ論は見当たらないが、当時の社会主義運動のリーダーであった堺利彦が、一九一六(大正五)年に『山窩の夢』と題する小論を発表している…

三角寛に提供された『ウエツフミ』の出所

田中勝也『倭と山窩』(新國民社、昭和52年10月)によると、 因みに、三角氏と『上記』との関係についてであるが、三角氏は戦後の昭和二十年代に氏と同郷の彫刻の大家である朝倉文夫氏から面白いから読めといわれて、『上記』を提供されたという。これは、三…

 戦後の三角寛のもう一つの姿

『下中彌三郎事典』中の「ほめよう運動」の項によると、 昭和二十九年(一九五四年)九月一日、文京区雑司ヶ谷町三七田村霊祥主唱により発足したものである。機関誌は月刊『ほめよう』を発行し、事業としては、随時各所で、講演会、座談会、音楽会、映画の会…

朝倉文夫と三角寛

『野依秀市全集』第2巻(実業之世界社、昭和41年9月)中の「朝倉文夫の巻」に、三角寛も出てきた。 私が初めて会ったのは昭和二十年ごろ、大分県人会の会合の席だったと思う。(略) その後、「一夕君と飯を食いたいのだが、料理屋なんか嫌いだから、家へ来…

高群逸枝とサンカ

『高群逸枝自伝 火の国の女の日記』(理論社、1965年6月)には、高群が子供時代に目撃したサンカが記されている。 勝太郎は山窩がお宮に避難するのを黙認しただけでなく、暴風雨の夜などには校舎まで専断で貸し与えることがあって、それが他から非難されると…

小谷野敦とサンカ

タイトルを見て、「小谷野敦は、サンカだったか!?」と思ってはいけない(笑 小谷野氏は、『軟弱者の言い分』(晶文社、2001年3月)中の「ウオッチ文芸1998.4〜2000.3」*1の1998年10月分として、 吉村昭『生麦事件』(新潮社) 三浦寛子『父・三角寛 サン…

 それでも三角寛は偉い!

筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』(文春新書、2006年10月)には、 三角が実際に接した、サンカと呼んでよい人びとは、辰三郎と、その周辺にいた、せいぜいで十数家族にすぎない。三角は、ほかの地方では、取材といえるほどのことは、ほとんどしていない*…

宮本常一と三角寛

宮本常一の日記*1によると、 昭和41年1月31日 アチックへゆく。かえりに渋谷で『木佐木日記』『岡本太郎の眼』などを買う。『サンカ物語』も。これは『サンカの社会』よりもおもしろい。私はこれほど1つのものを追いかけたことがない。 とある。『サン…

『我等』でサンカ論を読む

なぜか『我等』を読む。 大正9年10月号に森眞琴「山窩の話」なる寄稿を発見。 『歴史民俗学』20号の「サンカに関する文献110」にも記載されていないので、参考として記録しておこう。サンカの研究者が私のブログを読んでいるとは思えないが、いつか…

江見水蔭のサンカ小説

黒岩さんは、無事に海外で旅行を続けているかしら。 村井弦斎ネタは、ひとまず置いておいて、ライバル(?)の江見水蔭ネタをアップしてみよう。 追記:黒岩さんは、昨日、無事に帰国されています。よかった。 昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢…

桜澤如一と関根康喜(関根喜太郎)(その3)

柴田宵曲の「柴田宵曲翁日録抄」(「日本古書通信」昭和59年5月号)中、昭和17年11月10日の条に、 森氏より電話あり、誠之書院の関根氏との会合けふになりたるよし、午後一時頃来訪、いろいろ話す。四時頃出でて驪山荘に行く。関根氏、後藤興善氏在…

三角寛、佐藤栄作首相にセブリバを売りつける!?

『佐藤栄作日記』によると、 昭和31年7月28日 晴。午前中は三角寛(原注)をよみ、(後略)。 原注:作家 昭和38年3月30日 正午三角寛氏(原注)宅で漬物料理で中[ママ]食。面白い経験をしたもの。 原注 作家、曹洞宗桂木寺住職。 昭和43年5月…