神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

2009-02-01から1ヶ月間の記事一覧

二科展覧会・国民美術協会展覧会を見る里見とん

書簡集では武者小路実篤の所に分類されているが、武者・里見とん・園池公致連名の大正3年10月12日付け志賀直哉宛書簡がある。 二科会は好きな絵を見に来る為めに又来てもいゝが国民はもう御免だ。(ソ)*[園池公致] 大倉喜八[ママ]の銅像のエだけは見る価が…

穂積陳重の法理研究会と催眠術

穂積歌子の日記には、催眠術ネタも出てくるのじゃ。 明治37年1月21日 旦那様午前大学、夕より法理研究会へお出。医会と連合にてメスメリズムの実験を行はれしよし。 原注:「メスメリズム」。前年「催眠術」と称する詐欺事件が頻発。当局が取締法規を検討中…

婦人交際会とお近づき

黒岩さんの『『食道楽』の人 村井弦斎』で法学者穂積陳重の妻歌子の日記を活用していたことは、強く印象に残っている。さて、その歌子の日記に「婦人交際会」なる興味深い団体が出てくる。 明治24年4月30日 婦人交際会より明日招かれしが、気分すぐれざるゆ…

中一弥と倉田啓明

朝日の新連載小説である乙川優三郎「麗しき花実」の挿絵を担当する中一弥氏。森まゆみさんの聞き書き「東京転々 中一弥の人と仕事(前編)」(『谷中・根津・千駄木』90号)によると、倉田啓明の新聞小説の挿絵も担当したことがあるようだ。 その太陽館て、…

母子で「食道楽」を見る森峰子・潤三郎

森峰子の日記(『増補版森鴎外・母の日記』)によると、 明治38年3月7日 晴、午後一時より歌(哥)舞伎座に弦(玄)斎(斉)芝居見に行く。潤三郎と弐人におもしろく夜(る)八時頃帰宅。 凡例:( )は編者が修正する前の語句 - 黒岩さんが出ているという『…

バチェラーの催眠術の弟子だったか、赤司繁太郎

赤司繁雄『自由基督教の運動 赤司繁太郎の生涯とその周辺』(朝日書林、1995年8月)から。 なお余談になるが繁太郎はアイヌ救主バチェラーから地下水を探り当てる秘術を伝授されている。このことは筆者にもしばしば語ったエピソードだが、野間海造も次のよう…

野口復堂と船井梅南

大正6年3月1日『主婦之友』創刊。創刊号には、野口復堂の「講談古今名婦鑑(小川直子)」や船井梅南「写真鑑定婦人の運命判断」が掲載されている。野口の「講談古今名婦鑑」は同年12月まで連載。船井は数年に渡り連載を続けることになるから、今も昔も女性は…

永代静雄の満蒙研究所

永代静雄が主宰した満蒙研究所について記載された資料を発見。陸軍省「調査彙報第四十五号 右翼団体名簿(増補改訂版)」(昭和十年三月三十日調整)*1にあった。 満蒙研究所 所在地 東京市京橋区銀座西三丁目三 新聞研究所内 主要人物 所長永代静雄、理事上…

台北帝国大学附属図書館司書達の戦後

昭和20年8月、大日本帝国敗戦。すぐにでも内地へ引き揚げたい者が多かったであろうが、金関丈夫を始めとして、台北帝国大学の教官達の多くが留用されることとなる。同大学附属図書館の司書もまた、その仲間となった。 京都帝国大学経済学部を出た星野弘四(4…

巨大なキリンを描いたアイツ

旧教養部A号棟の壁面に巨大なキリンが出現して週刊誌等に報じられたことがあった。描いた(屋上から命綱を付けて、ぶらさがりながら描いた?)のは文学部の人だったと思うけど、今頃大物になっているかすら。 - 誰ぞの家のホワイトボードに書かれている文字…

大槻憲二の東京精神分析学研究所と平塚らいてう・奥村博史夫妻

大槻憲二が主宰した東京精神分析学研究所の昭和8年現在の所員に奥村博史という人がいる(昨年9月23日参照)。このブログを見ている常連者の中には気付いた人もいると思うが、この人は平塚らいてうの「若いツバメ」と揶揄された人と同じ名前である。いや、実…

立原道造と大槻憲二の『精神分析』

立原道造が大槻憲二が主宰した『精神分析』を読んでいたようだ。立原の夢日記ともいうべき「一九三三年ノート」中に、「御岳から持って帰る本」として、「三田文学 2作品 新潮 精神分析研究」とある。『立原道造全集3』(筑摩書房、2007年3月)の「解題」…

花粉症ですじゃ

一昨日からのどが痛いと思っていたら、やはり花粉症みたい。毎年のことだけど。薬もマスクも嫌いなので、特に対処せず。 - 「すんません、ただのオタです」というところか。 紀伊國屋書店の創業者田辺茂一の岳父(妻敏子の父。妻とは昭和7年1月結婚、15年頃…

平成の絵葉書展覧会

元気のない誰ぞのためか、名古屋市博物館で3月1日まで絵葉書展覧会が開催中。「日本の絵葉書1900−1945」。 - 何年も前のこと、『京都古書組合綜合目録』に載った浅野和三郎『英文学史』*1(大日本図書、明治40年2月)、1万円前後したと思うが、何を…

小村雪岱遺作展と里見とん

昭和14年4月、戸板康二は明治製菓の販売営業部門・株式会社明治商店に入社。菓子部宣伝係に配属された。当時の上司は、田辺茂一の義兄である内田誠。戸板は、ここでPR誌『スヰート』*1の編集に携わることとなる。戸板の『思い出す顔』所収の「「スヰート」…

徳田秋聲と里見とん

徳田秋聲の年譜から里見とん伝に記載のないものを拾ってみると、 大正12年10月15日 第八回「新潮創作合評−凶災後の文藝事項六項」末吉楼 宇野浩二、芥川龍之介、菊池寛、佐藤春夫、近松秋江、里見、久保田万太郎、久米正雄、水守亀之助、中村武羅夫(『新潮…

悪魔の辞典と神智学

アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』に出会ったのは相当昔で、当時は神智学なぞ知らなかったわけだが、今度文庫化された筒井康隆訳の辞典を見てたら、神智学やブラヴァツキーおばさんが出てくることを発見。 THEOSOPHY【神智学】名 宗教の持つ確…

山口三之助の催眠術講義

久し振りに催眠術ネタ。小林一三の日記に出てきた。 明治35年10月29日 三友クラブに哲学博士山口三之助氏の心理学的サイ眠術の講義があつた 中々面白い、そして不思議なものだつた 12月10日 三友倶楽部ニ高橋某ノ骨想[ママ]学ノ話が存つた、余り感心シナイ …

明治製菓宣伝部の内田誠

明治製菓の内田誠さんが、『日本近代文学大事典』に出てた。 内田誠 うちだまこと 明治二六・三・一〇〜昭和三〇・八・一三 随筆家。東京生れ。東京農大卒。俳号水中亭東京。いとう句会同人。作詞も手がけた。明治製菓宣伝課顧問などをつとめた。昭和一五年…

演出家としての里見とん

里見とんの話ばかり続くが、けふもまた。秋田雨雀の日記に、 大正7年10月2日 芸術座の研究劇についての意見が、読売にではじめた。上下二回。舞台が一通りできた。「誘惑」も「死と其前後」もりっぱな舞台だ。新しい芝居ができて以来の舞台だ。八時すぎから…

佐藤春夫と里見とん

佐藤春夫の年譜*1から里見とん伝に記載のないものを拾うと、 日 時 講演会名 場所 他の出席者 昭和3年6月13日 「新しき村」講演会 朝日講堂 武者小路実篤、広津和郎ら 4年5月11日 『劇と評論』文藝講演会 読売講堂 吉井勇、久保田万太郎ら - 『spin』がいつ…

岸田劉生と里見とん

岸田劉生の日記*1でもトンを発見。 大正14年4月6日 今日は邦楽坐の第一回の修行会の舞台げいこ、三津五郎の和唐内をみるために三時前自働車で邦楽座へ行く。(略)里見弓享君などに会ふ。里見の芝居はまゝ子いぢめのはなしにてつまらぬもの紀州道成寺もつま…

しつこく戦時下の里見とん

戦時下の里見とんをハツケン。『木佐木日記第四巻』。 昭和20年10月22日 今年の四月、帝国ホテルで志賀さんに会ったとき(*1)は、髪の毛も目立って白くなり、白いひげを胸のあたりまで長くたらし、それを見ると一度に十年も歳をとられたようで、驚きの眼…

亡くなる直前の吉岡信敬彌次将軍

晩年の吉岡信敬の状況はよくわかっていないが、徳田秋聲の日記にそれらしい人が出てくる。 昭和15年1月25日 「病院船」といふ赤十字の看護班の一婦人大嶽康子の記録が「女子文苑」で発行され、既に二十万部が売れたといふので出版記念会が東京会館で催され、…

村井弦斎と国木田独歩の時代を生きる小林一三

小林一三の明治36年の日記*1に黒岩比佐子さんが大喜びしそうな記載がある。 明治36年3月15日 朝、上野公園にゆき、屏風画展覧会と東京百美人写真展を見る 十二時帰宅 3月17日 東洋画報第一号を買ふ こういふ雑誌は甚だ有益で趣味があるから面白い 4月4日 東…

ますます古本臭くなってきた『ちくま』

林哲夫氏が表紙を描き、表紙裏にも「ふるほんのほこり」を執筆している筑摩書房のPR誌『ちくま』2月号は、いよいよ古本臭くなってきたぞ。今回の表紙は、「讃州堂書店」。また、連載中の荻原魚雷氏の「魚雷の眼」は新居格の話。新たに市川慎子さんのコラム…

慶應義塾図書館員井上芳郎と柳田國男の深い交流

慶應の窓際図書館員で『シュメル・バビロン社会史』の著者である井上芳郎については、2006年7月8日、同年9月21日に言及したが、『炭焼日記』にあるように柳田國男と親しかったようだ。柳田の年譜(『柳田国男伝別冊 年譜・書誌・索引』)にも井上の名前があ…

漢和辞典に「敦」を訊く

円満字次郎『漢和辞典に訊け!』(ちくま新書)を見てたら面白いことを見つける。43頁に、「あつい」と訓読みする漢字の中から比較的よく知られた「厚、淳、敦、暑、熱、篤」が『新選漢和辞典』(小学館)から引用されていて、「敦」について、 【敦】1<あ…

市河彦太郎の『小さき芽』を酷評する川端康成

大正6年9月に一高分科乙類(英文)に入学したばかりの川端康成が、市河彦太郎の『小さき芽』を読んでいた。川端の日記*1によると、 大正6年12月25日 隣りの十五番室[に]誰かゞ置いて行つた「小さき芽」をだまつて借りて来たのだが今日読み了つた。昨夜細川さ…