神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

2006-01-01から1年間の記事一覧

慶應義塾図書館のトンデモ図書館員井上芳郎と柳田國男

慶應義塾図書館が、戦前うっかり採用してしまったトンデモ図書館員井上芳郎(7月8日参照)については、書物奉行氏により「スメル学図書館員」と名づけられたが、な、なんと柳田國男の『炭焼日記』に登場していた。 昭和19年5月13日 大東亜[会]館にて学術協会…

靖国神社宝塚化計画

昭和21年、靖国神社アミューズメントパーク化計画があったことについては、坪内祐三氏の名著『靖国』に記されているところである。浅草オペラやレビューの影の仕掛け人内山惣十郎なんて人も関与していたらしい。 同書には書かれていないが、『小林一三日記(…

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎

最終章 シュメールの黄昏(承前) 7 大文豪と小島威彦・原智恵子 小島威彦の自伝には、もう一人大文豪も登場する。某文豪が、妻の末妹にピアノを教えてほしいので、ピアニスト原智恵子を紹介してほしいと、小島に依頼するのである。この文豪と小島がいつ、…

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎

最終章 シュメールの黄昏(承前) 6 上林暁と小島威彦が目撃した山田順子 戦前は、スメラ学塾や戦争文化研究所、世界創造社、日本世界文化復興会を創設し、戦後は、クラブ関西、クラブ関東の設立に奔走した小島威彦。軍人や財界人、同僚である国民精神文化…

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎

最終章 シュメールの黄昏(承前) 5 国民精神文化研究所所員吉田三郎の謎 国民精神文化研究所歴史科の所員兼興亜練成所練成官であった吉田三郎は、スメラ学塾の講師を務めたり、佐藤卓己 『言論統制』によれば講談社の顧問になるなど志田延義同様積極的な活…

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎

最終章 シュメールの黄昏(承前) 4 弘文堂と国民精神文化研究所所員山本饒 国民精神文化研究所助手、所員を務めた山本饒の公職追放該当事項は「著書」。具体的にどの著書が該当するのか不明*1であるが、どのような人物であったかある程度判明した。 小島威…

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎

最終章 シュメールの黄昏(承前) 3 国民精神文化研究所所員志田延義の記憶の片隅 小島の著書『世界創造の哲学的序曲』の出版記念会については、6月30日に言及したところであるが、小島自身は自伝『百年目にあけた玉手箱』第2巻で次のように回想している。 …

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎

最終章 シュメールの黄昏(承前) 2 スメラ学塾とスメラ民文庫 鈴木庫三(佐藤卓己 『言論統制』)はともかく、「クラブシュメールって?」という人は、4月15日、22日、23日あたりを見ていただきたい。また、スメラ学塾についいては4月21日を参照。 スメラ…

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎

最終章 シュメールの黄昏 今月号の「彷書月刊」の執筆者に坂倉準三の妻ユリの名前があって驚いた。クラブシュメールの関係者で健在の方がまだいたとは。ということで、ほっておいたこのシリーズの最終章をアップすることにした。 1 海後宗臣と国民精神文化…

明治堂書店主三橋猛雄の結婚

反町茂雄のライバル、明治堂書店の三橋猛雄については、青木正美『古本屋奇人伝』に詳しいが、同書にも書かれていない三橋の結婚披露宴についての記述が、吉野作造の日記*1にあった。 昭和3年1月13日 午後明治堂主人の依嘱にかゝる原稿*2を草す 昭和6年12月2…

カフェーパウリスタとおとわ亭の時代

『珈琲』*1を飲んでいたら、いや、読んでいたら、おとわ亭に出会った*2。 私が宇野浩二等とカッフェエを歩きまわったのは、それから大分後の事になる、鴻の巣に青い酒、赤い酒を飲んだ連中がカッフェエ第一期生とすれば、我々はさしずめ第二期生と呼ばれるの…

中山太陽堂を2週間で逃げ出した画家

中山太陽堂については、浜崎廣『女性誌の源流』に、 この『婦人世界』を支えていた広告*1は、創刊号(明治39年)から第10巻(大正4年)までは津村順天堂。第11巻(大正5年)から最終の第28巻(昭和8年)までは中山太陽堂*2であった。 とあり、『婦人世界』を…

毛利宮彦米国留学の陰に朝河貫一あり

坪内逍遥の日記によると、 明治45年9月11日 毛利の後家(おかぎ妹)倅の事にて来る 明治45年10月11日 毛利生来 明治45年10月24日 毛利生の母来 大正3年12月21日 毛利生来 ライブラリヤン修行の件に付 大正4年4月16日 朝河よりLibraryに関する件 くはしく知ら…

神保町カフェブラジルに書痴二人

林哲夫氏の『喫茶店の時代』には、神田神保町桜通りのブラジルのマッチラベルの写真が掲載されているが、戦前のある日、このカフェブラジルに、書痴二人が会した(ただし、両者が同一の喫茶店という絶対的根拠はない)。 斎藤茂吉の日記によると、 昭和4年8…

日露戦争勝利のあとの図書分配

日清・日露戦争期の図書略奪かと思われる事例を幾つか紹介したけれど、早稲田大学図書館も無関係ではなかったようだ。市島春城の日記(『早稲田大学図書館紀要』第42号、1995年12月)によると、 明治42年3月18日 加藤万作来り、海軍省より、日露戦役中旅順ニ…

プラトン社の終焉と斎藤茂吉

プラトン社と坪内逍遥については、8月23日に紹介したけれど、同社は斎藤茂吉の日記にも登場する。 大正14年2月16日 女性ノ清水氏ニ原稿*1ワタス 大正15年1月12日 女性ノ清水彌太郎来り。「現代百人一首」*2ヲ選ベト言フ。晶子ガ自派ノモノ35首エラビ、信綱ガ…

中村古峡の変態心理談話会

ついでに中村古峡ネタを。 三田村鳶魚の日記(『三田村鳶魚全集第26巻』)によると、 大正13年5月14日 北野*1氏、中村古峡氏同道、来十七日自宅談話会へ出席を求む、林*2氏へも同様との事なり、車人形のことあれば明答なりがたきよし申聞ける。 大正13年5月1…

「大阪人」廃刊の危機から一転、市直営へ

読売新聞の記事によると、来年度から「大阪人」が市の直営になるそうな。 廃刊もとりざたされたそうだが、まずは一安心か。でも、公務員の発想では、「古本愛」みたいな特集を引き続きしてくれるかすら・・・

吉野作造の見た私立函館図書館

吉野作造の日記(『吉野作造選集第14巻』所収)に、 大正11年9月13日 早朝小樽にてたまのと落ち合ひ函館に着きしは昼過なり(略)此日は図書館の岡田健蔵君の好意により古本屋をたづね五稜郭を見物す 夜は中村古峡君の講演ありといふを聴きに行く 大正11年9…

島田翰と静嘉堂文庫

明治40年から明治41年にかけて、市島春城の日記には朝倉無声とともに、島田翰の名前が頻出する。その一部を引用すると、 明治40年11月29日 島田翰来話。 明治40年12月1日 島田翰ニ書を投す。 明治40年12月13日 島田翰(略)の書到る。 明治40年12月18日 不在…

伝書鳩班にいたのらくろ

マンガの中で伝書鳩を見た覚えがあるが、もしかしたら「のらくろ」だったのかもしれない。 『のらくろ一代記 −田河水泡自叙伝』によると、大正10年、22歳の田河は、陸軍一等兵として軍用鳩通信班に配属されるが、その時の中隊長の命令。 第十九師団軍用鳩研…

生方敏郎のユーモア雑誌

坪内逍遥の日記によると、 昭和3年12月6日 午後 生方敏郎のユーモア誌のためにFalstaffの或る一場抄の前書を艸す 昭和5年6月4日 生方敏郎来、山田案によりて、拠金し ユーモア雑誌を出す計画いかゞかと問ふ、賛成と答へおく(一口壱円の案也) 生方の個人雑…

神保町三省堂前のお登和亭

俳人の水原秋櫻子は、一高入学を目指していた中央大学の予備校生時代を次のように回想している(『私の履歴書 文化人2』所収)。 神保町の三省堂の前の横丁に「お登和亭」というのがあった。そのころ評判の村井弦斎の小説「食道楽」の主人公のお登和さんと…

江見水蔭のサンカ小説

黒岩さんは、無事に海外で旅行を続けているかしら。 村井弦斎ネタは、ひとまず置いておいて、ライバル(?)の江見水蔭ネタをアップしてみよう。 追記:黒岩さんは、昨日、無事に帰国されています。よかった。 昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢…

帝国図書館司書としての朝倉無声

朝倉無声 本名亀三。明治10年3月生、昭和2年4月没 早稲田大学で国文学を修めた後、帝国図書館司書となり、近世の文芸・風俗研究を専攻 『見世物研究』(ちくま学芸文庫)の著者「書物蔵」には出てこないので、館界では無名か(こういう判断基準に使うなって…

石田幹之助を好きで好きでたまらなかった長澤規矩也

学生時分から、石田幹之助のことが、「好きで好きでたまらなかつた。氏のやうにありたいと思つたことは度々であつた」という長澤規矩也の「石田幹之助氏を悼む」(『書誌学』24・25合併号、昭和49年7月)によれば、 大正五年、東京帝国大学文科大学史学科卒…

芥川龍之介に東洋史研究をあきらめさせた石田幹之助

後に東洋文庫主事となる石田幹之助と広津和郎は、麻布中学で同級であったが、広津による石田の回想に面白い記述があった。 『年月のあしおと』(『広津和郎全集』第12巻所収)によれば、 私と同期の卒業生に石田幹之助がいる。私は同級ではあったが、石田君…

帝国図書館100年目の逆襲

上野の国立国会図書館国際子ども図書館(3階ラウンジ、一部3階ホール)にて、9月26日から開催される「旧帝国図書館建築100周年記念展示会」。 期待しておるのだが、12月21日からは東京本館2階常設展示コーナーで開催ということは、しょぼそうな規模の展示…

スタール博士の不幸(その3)

日本を愛し、度々来日したスタール博士だが、その訪日回数の多さに疑惑の目を向けられたようである。 三田村鳶魚の日記(『三田村鳶魚日記』第25巻)大正6年12月3日の条には、 スタール帰国、米探の噂高くなりたる為めといふ。 とある。また、小島烏水「山の…

スタール博士の不幸(その2)

大正8年12月18日付け會津八一の今井安太郎(山形県米沢市)宛絵葉書(『會津八一全集』第八所収)によると、 拝啓 スタールが御地へ行きしことは、先日此問題にて淡嶋寒月翁と会見したる際、翁よりも聞き居り候。スタールは割合に著名なる男なれども、割合に…