神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

石田幹之助を好きで好きでたまらなかった長澤規矩也


学生時分から、石田幹之助のことが、「好きで好きでたまらなかつた。氏のやうにありたいと思つたことは度々であつた」という長澤規矩也の「石田幹之助氏を悼む」(『書誌学』24・25合併号、昭和49年7月)によれば、


大正五年、東京帝国大学文科大学史学科卒業、主として白鳥倉[ママ]吉教授に師事して、東洋史学を専攻、卒業に際して恩賜の銀時計を授けられ、卒業後直ちに史学研究室副手となつた、所謂秀才コースの方であり、当然東大教授となられる筈であつた。それが教授になられなかつたことについては、故人の某文学部長や消息通から聞かされたエピソードがある。在学中、池内宏教授が黒板に書かれた地図を、氏が学生の前で訂正されたことが、池内博士の怒を買つて、教授会で通らなかつたといふのである。氏はお若い頃、直情径行と考証学的研究法と両面を有された結果、東京の支那学界では、京都の内藤湖南博士に勝るとも劣らぬ毒舌家といふ定評を受けてゐられた。(略)
氏は細務は得意でなかつた。事務処理は早くないし、執筆は遅かつた。適切な計画は立てられても、その実行に必要な事務処理はお得意でなかつた。研究を口で発表されることは速でも、筆にすることは遅であつた。(略)
氏が東洋文庫を辞された一因は井上理事長の昭和七年二月の物故の後を受けられた桐島理事長スケールの小にあらうか。九年二月、氏は主事を、五月には嘱託をも辞して、財団法人国際文化振興会嘱託となり、その後理事として活躍。


いくら優秀な人間でも、世渡りが上手でない毒舌家は、どこでも衝突してしまうということか。
ん、毒舌家。ま、まさか、誰ぞも、かつて優秀な図書館員でありながら、その毒舌故に、館界を追われた?、なんちて。


石田の退職に追い込まれた理由も謎だが、短期間に二度辞職している理由がわからない。
推測すれば、最初の辞職は辞職と言いつつ、主事の解任、嘱託への降格。閑職に耐え切れずに、石田は嘱託を辞職ということか。


谷沢永一先生、この謎を解いて!


(参考)石田幹之助の略歴(「石田幹之助博士略年譜」『國學院雑誌』昭和51年3月)

明治24年2月生
大正5年7月 東京帝国大学文科大学史学科卒
大正13年11月 財団法人東洋文庫主事
昭和9年2月 東洋文庫主事を辞し、研究部嘱託となる
昭和9年5月 東洋文庫嘱託を辞し、4月発足せる財団法人国際文化振興会嘱託を命ぜられ、図書室の創設に従い、傍ら日本文化を海外に紹介する事業に参画す
昭和17年4月 國學院大學教授
昭和21年4月 日本大学教授
昭和49年5月 没