神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎


最終章 シュメールの黄昏(承前)


7 大文豪と小島威彦・原智恵子


小島威彦の自伝には、もう一人大文豪も登場する。某文豪が、妻の末妹にピアノを教えてほしいので、ピアニスト原智恵子を紹介してほしいと、小島に依頼するのである。この文豪と小島がいつ、どのような形で知り合ったのか記されていないが、いくら何でも戦前スメラ学塾とかには関係していなかったと思われる。


昭和21年9月25日、京都の俵屋で、文豪夫妻・末妹と、小島・原が夕食を共にする。
原は翌日帰京するが、小島は当時京都に住んでいた文豪の居宅へ招かれ、色々話し合う。
その会話によると、文豪は近くの寺の一室へ、毎朝八時から昼まで執筆のために通っていることや、「毎日幾枚ぐらいお書きになるんですか」という小島の質問に「書けない日には二枚ぐらいかね」というやりとりがなされている。この日時が正しければ、当時、上京区寺町通今出川上ル五丁目鶴山町に住んでいたことになる文豪ははたして誰か?
わからない人は、小谷野敦氏に聞いてちょ。


この文豪は、小島が昭和23年に創設した財界人の交流の場であるクラブ関西に出入りしていたとされる。しかし、だれぞと同じく戦後にはあまり関心のない私はこれ以上追跡調査はやめておこう。


小島威彦(こじまたけひこ)は、平成8年12月1日死去*1。翌日の朝日新聞夕刊によると、
明星大学名誉教授。肺炎のため、川崎市の病院で死去。93歳。喪主は次男弦(げん)氏。
新聞記事を見て、どれだけの人があのスメラ学塾の小島と気づいただろうか。



追記:原智恵子との出会いについて、文豪自身は次のように記している。*2

此の間京都大学の「ロマンロラン友の会」で、此の文人が愛してゐたピアノの古典曲数番を原智恵子さんが演奏した時、私は始めて智恵子さんに紹介され、智恵子さんの泊つてゐた柊屋の二階の一室で暫く彼女と談話を交へる機会を得たが(略)。


谷崎の妻谷崎松子『蘆辺の夢』中「谷崎の趣味」には、谷崎について次のように記している。

敗戦直後、京都の同志社大学の講堂で原智恵子さんの演奏を聞いた時の感激は、ちょっと類例のないくらい純粋且新鮮で、それ以来ピアノにも惹かれるようになった。


追記:小島は、「僕が大阪で、谷崎潤一郎(中略)たちと親しくなったのも川勝[堅一。高島屋常務]の通路があったからであろう」と記していた。

*1:生前の小島に取材している『原智恵子 伝説のピアニスト』の著者石川康子は、どういうわけか小島を平成9年春死去としている。

*2:「所謂痴呆の藝術について」(『新文學』昭和23年8月号、10月号、『全集』第21巻(1983年1月)所収)