神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

中山太陽堂を2週間で逃げ出した画家

中山太陽堂については、浜崎廣『女性誌の源流』に、



この『婦人世界』を支えていた広告*1は、創刊号(明治39年)から第10巻(大正4年)までは津村順天堂。第11巻(大正5年)から最終の第28巻(昭和8年)までは中山太陽堂*2であった。


とあり、『婦人世界』を裏から支えていたという。


この中山太陽堂を大正8年6月、わずか2週間でやめた男がいる。
私の履歴書 文化人6』によると、


ある日、便所の中に置いてあった古新聞を何気なく見ていると、クラブ化粧品の中山太陽堂が図案家を募集している広告記事が目についた。その締め切り日がすぐ翌日になっていたので、原田夫妻には内証で、こっそり試験を受けてみたのだが、意外にも百人以上来ていた応募者の中から、採用になる二人のうち一人に私が残ったのである。
(略)翌朝から大阪水崎町の太陽堂本社に出勤し始めたのだったが、けた違いの月給を、どんなもののはずみかもらうようになったことが逆作用して、なんとも気づまりなお勤めだった。
さっそく、新聞広告の飾り絵や、表紙裏を描かされて、たどたどと、生まれて初めての経験に没頭したのだが、はたしてそれが役に立つものかどうかさえ、皆目見当がつかなかった。
(略)おそらく二週間ぐらいしか出勤しなかったろう。(略)会社からはしきりに問い合わせが来るので、締めくくりをつけるつもりで水崎町に出かけて行った。それがちょうど月給日で、生まれて初めて月給袋をもらい、二週間の働きだから、半ヵ月分の給料だと封を切ったら、六十円封入されていた。もし私に成長した思考力があって、中山太一社長のこの温情を真正面に受け止めていたら、私は文句なしに彼に献身していたかもわからない。そして、私の一生も広告図案家として終始したに違いないのだが、いかんとも、私にとっては荷が重すぎたのである。


彼が、そのまま勤めていれば、プラトン社の『女性』や『苦楽』の表紙を描いた可能性もあるわけである。この彼とは、東郷青児である。

*1:ここでは、裏表紙の広告を指している

*2:原注:明治36年4月、中山太一が神戸・花隈に洋品雑貨、化粧品の卸商を開業。「中山太陽堂」と店名。弟・豊三と共に経営に精進し製造業に転進、クラブ洗粉を誕生させる。さらにクラブ白粉、クラブ歯磨など発売。一方文化活動にも力を入れ「中山文化研究所」や「プラトン社」を創設、『苦樂』『女性』など雑誌出版にも進出し話題を呼ぶ。昭和46年1月、中山太陽堂から(株)クラブコスメチックスに改称する。