最終章 シュメールの黄昏(承前)
5 国民精神文化研究所所員吉田三郎の謎
国民精神文化研究所歴史科の所員兼興亜練成所練成官であった吉田三郎は、スメラ学塾の講師を務めたり、佐藤卓己 『言論統制』によれば講談社の顧問になるなど志田延義同様積極的な活動家であった。
吉田については、小島威彦の自伝『百年目にあけた玉手箱』に、「僕の親友だったフィリピンで戦死してしまった京大講師」、「フィリピン青年指導所の責任者」(第5巻)とか、「フィリピン人訓練所長」(第7巻)と記されている。これにより、志田延義の『歴史の片隅から』に「史学・国史の兼任所員西田直二郎博士の下で助手を勤め所員となったY君は、興亜練成所の設立に参画し進んで同所の練成官となり、応召して南の戦場で戦死した。」とあるY君は吉田のことと思われる。
スメラ学塾について言及した*1数少ない論文の一つである昆野伸幸「吉田三郎の<皇国史観>批判」(『日本思想史研究』第33号、平成13年3月)によれば、吉田は明治41年生、昭和6年京都帝国大学文学部史学科国史学専攻卒。昭和18年9月頃、南方に「応召」され戦死(没年不明)とされている。
また、吉田については「住友財閥の大番頭吉田真一の三男、国際公法の権威者、立作太郎の女婿」(『百年目にあけた玉手箱』第4巻)ともある。面白げな人物なので引き続き要調査。
櫻本富雄『本が弾丸だったころ』(平成8年7月)で「反国家的な論策を多く掲載して、いわゆる知識人の甘心を満足せしめていた「中央公論」や「改造」の内容も総じて国を憂える誠を示し始めて来たように思われる。(吉田三郎「雑誌月評」『読書人』1942年11月号)」と紹介し、「吉田三郎は1908年生まれの京都大学講師で『米国の野望を撃つ』などの著書がある。(略)鬼籍に入っているだろうか。」とされているが、吉田が戦時中に亡くなっていることについては既に記したとおり。