神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎


最終章 シュメールの黄昏(承前)


4 弘文堂と国民精神文化研究所所員山本饒


国民精神文化研究所助手、所員を務めた山本饒の公職追放該当事項は「著書」。具体的にどの著書が該当するのか不明*1であるが、どのような人物であったかある程度判明した。


小島威彦の自伝『百年目にあけた玉手箱』第4巻には、「弘文堂の八坂社長*2のお婿さんで、あの数年前世界哲学史プラトンアリストテレスの二体系に整頓した山本君の弟。兄弟揃って東大哲学科を大きなスケールに纏めた」とか、「東大哲学助手兼務の山本饒は十九世紀前期のシェリングヘーゲルと並ぶフィヒテの研究と翻訳で知られるが、最近は林子平賀茂真淵の全集編者として日本学の開拓者でもある」とある。


戦後の山本については、田所太郎『戦後出版の系譜』にその姿を見ることができた。


山本が京大の哲学を出て大学院にいたか講師のようなことをしていたかの時分、フィヒテの翻訳を岩波から出すこともあったが、戦後しばらくして弘文堂の専務となって、アテネ文庫の出版などに力を入れていた。軈てそこを辞し、自宅に鳳舎の看板をかかげて、たった一人で法律書の刊行をはじめた。
(略)ほとんど名は無く、あたりをさわがせず、誰にも迷惑をかけず、しめてまず五〇冊の本を遺して去った一出版人であった。

*1:戦争文化叢書『天皇政治』(日本問題研究所、昭和14年)などの著書がある。

*2:弘文堂の創業者八坂浅次郎のことか