坪内逍遥の日記によると、
明治45年9月11日 毛利の後家(おかぎ妹)倅の事にて来る
明治45年10月11日 毛利生来
明治45年10月24日 毛利生の母来
大正3年12月21日 毛利生来 ライブラリヤン修行の件に付
大正4年4月16日 朝河よりLibraryに関する件 くはしく知らせ来る、夜大造に托して毛利へ渡す
大正4年4月18日 毛利来訪、朝河の来書に[ママ]件
大正4年4月27日 毛利来
大正4年5月14日 毛利洋行の告別に来る
大正4年5月18日 毛利改めて告別に来る
大正4年5月25日 毛利の母より有松染三反贈付、餞別への返礼也
追記:
大正5年3月21日 米国の毛利及朝河より来書
大正5年5月6日 朝河、毛利へ返書
朝河貫一は、明治40年11月から40年間エール大学図書館の東アジアコレクション部長を務めたという(阿部善雄『最後の「日本人」』)。早稲田大学図書館員毛利の米国留学に協力していたのだね。
そういえば、毛利の名前は意外な所にも出ていた。八木福次郎『書痴斎藤昌三と書物展望社』に、
東京堂は『出版年鑑』を昭和五年版から出しているが(現在は出版ニュース社)、出版界一年史や印刷界、製本装幀史その他で、斎藤昌三は庄司浅水、毛利宮彦、郡山幸男らと共に執筆に参画していた。
とあった。
毛利の留学について調べてみた。彼は通常の派遣留学とは異なり、自費留学に対して早稲田大学が旅費補助をしたものである。毛利が自費留学までして、意気揚々と帰国してみると、図書館には、米国でデューイ(十進分類法の創始者)に直接指導された湯浅吉郎が常勤顧問としてどっかりと座っていた。毛利の気持ちはいかばかりであったか、というのは私の妄想か?