最終章 シュメールの黄昏(承前)
戦前は、スメラ学塾や戦争文化研究所、世界創造社、日本世界文化復興会を創設し、戦後は、クラブ関西、クラブ関東の設立に奔走した小島威彦。軍人や財界人、同僚である国民精神文化研究所の学者のほかに、クラブシュメールではフランス帰りの芸術家達との交流もあった。その他、彼の自伝『百年目にあけた玉手箱』には、文豪の名前も登場する。
小島は、昭和22年の晩夏、山陰線で徳田秋声の恋人、山田順子に再会。帝大生時代に初めて山田を目撃した当時を次のように回想している(同書第5巻)。
震災の翌年、大正十三年の晩秋だった。僕は英文科の上林暁と万藤でコーヒーを飲んでいたところへ、紅雀の羽根のマフラを纏った派手好みの女が入ってきた。万藤は小さな店で、十名ばかりの東大生で一杯だった。彼女に睥睨されたまま、彼女の通り路をあけた。「おい、小島!あれが徳田秋声の恋人の山田潤[ママ]子だよ」と上林が僕に耳打ちした。
小島と上林は、五高の同期生。大正13年共に東京帝国大学へ進学。小島は、翌年、西田幾多郎を慕い京都帝国大学に転入。
八木書店から最近刊行された『徳田秋聲全集」別巻の年譜によると、徳田と山田夫妻の出会いは大正13年4月。同年秋にはもう帝大生には知られる仲であったのだろうか。徳田の居宅は東大の近くにあり、この喫茶店万藤について、徳田は次のように述べている*1。
正門前の万藤はつい両三年の新店だが、新鮮な水菓子や飲みもの、殊にコーヒは今のところ銀座あたりでもちよつと飲めないやうな香味をもつてゐるので、自分のところに原稿催促に来る人のなかには、きつとそこへ寄つて飲んで行く人があるくらゐである。
編集者だけではなく、徳田・山田のカップルがしばしば訪れて帝大生の噂の的になっていたのだろうか。