久保田万太郎が谷崎潤一郎と後藤末雄について書いていてくれた*1。
−忘れもしない、後藤末雄が高等学校へ入つてまだ間もないとき、「べつたら市」といふ詩を学校の雑誌へ出して、大へんに学校の先輩からほめられた、後藤はすつかり得意になつた。さうして、私と、もう一人矢張、高等学校の、これは二部に行つてゐた柿沼といふ友だちと、いさゝかそれを記念するため、こゝを奢つて呉れたことがあつた。
(略)
話のついでだからいふけれど、この後藤の「べつたら市」といふ詩をほめた先輩といふのが今の谷崎君だつた。−柿沼といふ友だちは、その時分、材木町の質屋の息子で、私たちの仲間の誰でもが推服してゐた俊才だつた。大学を出て、この間まで早稲田の理工科の先生をしてゐた。
「こゝ」とは汁粉屋の松邑という店のこと。後藤の「べつたら市」は『校友会雑誌』第171号(明治40年12月9日発行)に「すゑを」名義で掲載。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-