京都文化博物館で開催中の「生誕140年石崎光瑤展」も今日(11月10日)で終了である。私は、展示を観る前に関連イベントとして開催された講演会(9月21日)と座談会(同月29日)を拝聴した。そこで光瑤の2度に渡るインド旅行(大正5~6年と昭和8年)やヒマラヤ志向を知った。光瑤は近代仏教者と交流があったかもと思って、図録(毎日新聞社、令和6年7月)の年譜(植田彩芳子編)を見た。そうすると、大正4年の条に「秋 河口慧海と共に来日したチベット学者のチャンドラ・ダス親子が光瑤の京都の下宿に滞在」とあって驚いた。大正6年の条には、「一月~二月 カルカッタ(現コルカタ)滞在。青木文教と会う」とある。
座談会の参加者だった渡邊一美氏の近著『評伝石崎光瑤:至高の花鳥画をもとめて』(桂書房、令和6年7月)に、より詳しく光瑤と近代仏教者との交流について記載されていた。
・大正4年10月7日付け志賀重昂からの葉書には、安藤正純から電話で駒澤村の曹洞宗大学で河口の歓迎会があり、山上や安藤が光瑤も来会すれば好都合との連絡があったという。同書によると、山上は後の駒澤大学学長山上曹源。
・大正5年11月11日光瑤はインドへ向かう途中、上海で大谷光瑞からインドの情報を得ている。帰国後刊行した『印度窟院精華』(便利堂コロタイプ印刷所、大正8年2月)は光瑞の揮毫、高楠順次郎の序文である。展覧会で同書を拝見できた。
・大正6年8月29日付け青木からの手紙によると、7月にインドから帰国した光瑤の様子を大谷尊由から聞いた青木は早速光瑤の下宿を訪ね、写真等を見せてもらっている。
近代仏教者との交流については、まだまだ知られていないエピソードがあるかもしれない。紹介が遅れたが、近代仏教研究者の諸君は時間があったらのぞいてみましょう。来年1月25日~3月23日には静岡県立美術館に巡回します。
渡邊著でもう一点驚いたのは、光瑤と光瑞の接点にいた人物として、光瑞の弟尊由と共に、富山県福光(光瑤の出身地)の谷村西涯の長子谷村一太郎が挙げられていたことである。西涯は光瑤の後見人の一人で、一太郎は大正2年尊由の要請で財政の逼迫していた西本願寺の財政立て直しの相談相手になったという。一太郎は、私が「新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー - 神保町系オタオタ日記」などで追いかけていた実業家・蒐書家である。意外な所で、出会うことになった。