天羽英二に接触したのは、天羽が辞めたとは言え、昭和16年10月まで外務次官だった関係と思われる。
天羽と接触したもう一人の人物永井柳太郎も衆議院議員だが、別の肩書きは大政翼賛会興亜局長。昭和16年興亜局の前身東亜局において永井局長の下、直属の庶務部長だったのがムー大陸を自己の妄想体系に取り込んだ藤澤親雄。永井の背後には、藤澤ら偽史運動の活動家の影がうかがえる。
天羽の日記の昭和17年8月30日の条に「一船延期」とあるのは、日米交換船のことと思われる。9月14日に第二次交換船が横浜港から出港している。第三次はなかったから、ウェルス女史は結局帰国できず、終戦まで拘束されたと思われる。
昭和9年に来日されたとされる女助手だが、実践女子専門学校の昭和7年12月現在の教職員の中に、英語の講師として「ミス・ウエルス」という名前が見える。これがチャーチワードの女助手だとすると、ムー大陸説が発表された昭和6年秋からそれほど時間を置かずに女助手を日本へ派遣していたことになる。
さて、日本においてムー大陸の痕跡を調査していたウェルス女史だが、どのような成果があったか。
小泉源太郎訳のチャーチワード『失われたムー大陸』(大陸書房、昭和43年3月)を見ると、
また、キリストはチベットに滞在中、神道を研究するために日本に渡来し、数年間滞在したという説もあり、さらにゴルゴダの丘の十字架を逃れて再び来日し、百歳過ぎまで存命して、青森県五戸在で死亡、その土地に墓があり、沢口家なる子孫が現存するという話だが、真偽のほどは明らかでない。
キリストが結婚していた上、日本人の子孫までいたという「ダ・ヴィンチ・コード」も真っ青な妄説に、さすがのチャーチワードもにわかには信じがたかったと思われる。この竹内文献の信奉者らが創り上げた「キリストの墓伝説」は、ウェルス女史を通してチャーチワードに伝えられたのであろう。
戦前あれほどムー大陸に御執心だった藤澤、仲木、仲小路彰*1だが、戦後はすっかり足を洗ったのか、ムー大陸について語っていない。
さて、ウェルス女史は戦後どうしたか。実践女子大学の昭和34年の英文科の教職員の中に、ウエルズ教授という名前を見ることができる。チャーチワードの女助手は、戦後も実践女子大学において教鞭を執っていたのである。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
赤坂真理『モテたい理由』(講談社現代新書)は店頭で見かけて多分読んでもしょうがないだろうと思いつつ、猫猫先生が仕事柄(?)読むのを期待して待っていたが、どうも読まないようだ。