神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

三角寛、佐藤栄作首相にセブリバを売りつける!?

佐藤栄作日記』によると、



昭和31年7月28日 晴。午前中は三角寛(原注)をよみ、(後略)。
  
 原注:作家


昭和38年3月30日 正午三角寛氏(原注)宅で漬物料理で中[ママ]食。面白い経験をしたもの。

 原注 作家、曹洞宗桂木寺住職。


昭和43年5月22日 千々波君が、三角寛氏(原注)を連れて突然やってくる。(中略)埼玉県に雑木林で手ごろのものがあるので、それをすすめに来たといふ。

 原注 作家。仏典研究家。
 千々波敬太郎については、別の日の注によると、「総調和運動の推進団体、日本会理事。」
 また、日本会については、「総調和連盟」の注のところに、「日本会。古田重二良日大会頭が提唱する総調和運動(世界平和をめざす精神運動)の推進団体。佐藤が総裁を務める。」とある。


昭和43年5月当時、佐藤は首相(第二次佐藤内閣)。首相に売りつけようとした埼玉県の雑木林って、なんか、セドリ、じゃないや、瀬降(セブリ)する場所ではないだろうね!?


三角寛佐藤栄作の関係について、言及した文献は管見の限りでは見当たらない。
ちなみに、三角自身は佐藤について次のように言及している。
『つけもの大学』(昭和44年5月)中の「漬物と健康」に、


帝大以来の東大の使命は既に終ってゐる。今は、人間の最低の屑である巷の暴力団養成学校に転落してゐる。佐藤首相も、よほど考へて、国政を過たないやうにしないと、下手に温存すると、彼等によって、その生命を絶たれるやうなことになる。


この本の発行時点で、三角は佐藤首相とは、自宅で漬物料理をふるまい、雑木林を売りつけるようとする仲だったはずだが、そんなことには全然言及していない。



(参考)『右翼事典』によれば、千々波敬太郎:「明治32年2月12日生まれ。戦前、大日本生産党委員。昭和6年風雲倶楽部を設立し主盟となる。8年光風塾を設立、戦後29年、緒方竹虎久原房之助らの賛同を得て自主力拡充運動本部を結成、統監に就任。佐藤栄作の日本会、日本総調和連盟の常任理事でもある。」
古田重二良:「日本大学会頭、日本会会長、日本青年講座顧問。明治34年6月3日生まれ。秋田県出身。日大高等専攻部法科卒。今泉定助に師事。昭和39年日大総調和研究会をスタートさせ「総調和」と「日本精神」を説く。」とある。



またまた、登場。
大日本生産党
今泉定助!・・・・皇道図書館はどうなった?


今のところ、判明したのはこれぐらい。引き続き、調査中。
日本各地の古書店・古書展を駆け巡る「書物蔵」や「はほへほ旅日記・書物日誌」は、いわば、「瀬降の山窩」ならぬ、「セドリのサンカ」ともいうべきもの、なんちて。