神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

小谷野敦とサンカ


タイトルを見て、「小谷野敦は、サンカだったか!?」と思ってはいけない(笑
小谷野氏は、『軟弱者の言い分』(晶文社、2001年3月)中の「ウオッチ文芸1998.4〜2000.3」*1の1998年10月分として、
吉村昭生麦事件』(新潮社)
三浦寛子『父・三角寛 サンカ小説家の素顔』(現代書館
中島義道『孤独について 生きるのが困難な人々へ』(文春新書)


を紹介した。この時、小谷野氏は「なぜ、三角の著書をどこでも復刊してくれないのだろう。」と書いている*2が、その後、現代書館から『三角寛サンカ選集』が刊行され、サンカ小説の再ブームや三角のサンカ研究の再評価(とともにバッシングも)につながったことは、記憶に新しい。


小谷野氏が、吉村昭三角寛を並べて取り上げたのは、偶然であろうが、昨年亡くなられた吉村は、かつて三角のサンカ小説を愛読した人間であった。


『私の読書遍歴』(かのう書房、昭和58年11月)中の吉村昭「戦後文学の強い刺激」によると、


小学生時代は「キング」「富士」「日の出」の愛読者だった。三角寛山窩小説などに熱中したが、漢字にルビがふってあったので漢字の読み方を知る上では大いに役立った。


とのこと。小谷野氏がこれを知っていて、吉村と三角を一緒に紹介したとすれば、「アキレス、恐るべし」、じゃない、「小谷野敦、恐るべし」。

*1:ちくま文庫版には収録されていない。

*2:三浦大四郎「復刊にあたって」(『三角寛サンカ選集』第6巻、現代書館、2001年4月)は、「本書『サンカ社会の研究』は、三角寛の死後も、復刊を望む声が多かったことは、当時、私たち夫婦も承知していた。しかし、私たち夫婦が復刊を許諾する気になかなかなれなかったのは、父・三角寛の晩年の私生活の乱れにより、当時、病に伏していた母が苦しみ嘆き、母の死後、私たち夫婦にも迫害が及ぶに至って、母の無念さを想い、どうしても父を許すことができなかったのが、大きな理由である。」と記している。