神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

三角寛に提供された『ウエツフミ』の出所

田中勝也『倭と山窩』(新國民社、昭和52年10月)によると、

因みに、三角氏と『上記』との関係についてであるが、三角氏は戦後の昭和二十年代に氏と同郷の彫刻の大家である朝倉文夫氏から面白いから読めといわれて、『上記』を提供されたという。これは、三角氏のお嬢さんの寛子さんが証言して下さった事実である。三角氏は『上記』について一切沈黙して語ってはいないが、氏がこの書物の存在を知っていたことは間違いない。


とされる。


この朝倉文夫から三角寛に提供された『上記』の出所が判明した。
朝倉文夫の日記は公刊されていないようだが、彼の従兄弟である朝倉毎人の日記は公刊されている。その『朝倉毎人日記』第6巻(山川出版社、1991年2月)によると、

昭和21年7月14日 夜朝倉文夫君使来リ「ウエツフミ」二十二冊ヲ貸ス。


とある。『上記』は、朝倉毎人→朝倉文夫三角寛と渡されたようだ。


(参考)
藤野七穂偽史源流行」第21回(『歴史読本』2001年9月号)によると、

田中氏は触れていないが、朝倉文夫は戦前戦後を通じて、斯界に知られた『上津文』研究家であった。朝倉は竹田中学時代、吉良吉風と同時代の国学者・田近長陽(陽一郎)から『上津文』について教えを受けており、大正十年(一九二一)に帰郷した際には「新聞記者のやうな文学青年のやうな人」から「先生の御先祖と思ふのですが朝倉信舜といふ方が大友能直公の命を受けてかゝれた書物を持つて来ましたから読んでみて下さい」と『上記鈔訳』を渡されたという過去がある(「ウヱツフミと私のゆかり(上)」)。その後、神代文化研究会版の原文『ウヱツフミ』二十二冊をも入手しており(「同(下)」)、三角に関係資料を提供できる人物であった。