神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

仏教者としての三角寛と浄土真宗本願寺派最乗寺住職の大原寂雲

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昭和60年10月号から平成22年10月号まで300冊刊行された『彷書月刊』という本好きの人向けの雑誌があった。全冊蒐集しようとする人も多いようだが、特集形式なので先ずは総目次の付いた最後の2冊を入手して、それを見て自分の関心のある特集号だけ集めておけばよいだろう。一時期復刊するとの話があったが、まだ具体的な動きはないようだ。平成21年12月号は南陀楼綾繁氏の連載「ぼくの書サイ徘徊録」100回記念で、氏の企画による特集「ミニコミの設計図」であった。この号だったか、南陀楼氏から寄稿を頼まれたが断ってしまった。その節は失礼しました。あらためて執筆メンバーを見ると、豪華な面々でここに「神保町のオタ」が並んでいたかもしれないと思うと、感慨深い。
さて、昨年末三密堂の100円均一台で『ブディストマガジン』5巻3号(ブディスト・マガジン刊行会、昭和29年3月)なる雑誌を発見。西本願寺教学部が出してる雑誌のようだ。
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目次を見ると、三角寛「所生の母」が載っていたので購入。『彷書月刊平成23年3月号特集「没後三〇年・三角寛の世界」所収の「三角寛略年譜」を見ると、昭和26年娘の寛子が山下大四郎と結婚、映画館人世坐(23年開館)に続いて、27年弁天座を開館していた時期に当たる。記事は、昭和21年5月母の死んだ夢を見た後、母が危篤という電報が来たという話から始まる。続いて亡くなったという電報も来て、何とか切符を確保し寛子を連れて大分へ帰郷。一刻も早く母の「死に顔」に対面したいと願った三角だが、既に兄により火葬にされていた。母親も「死に顔は見せんでもいい、骨だけ大谷に納めてくれ」と言っていたという。寛子の『父・三角寛 サンカ小説家の素顔』(現代書館、平成10年9月)によれば、祖母(三角の母)タズは、昭和21年88歳で亡くなっている。
寛子著によると、三角は12歳の時*1にタズの判断で最乗寺(浄土真宗本願寺派)の大原寂雲に預けられ、お経、漢詩、『論語』を習ったという。この大原だが、井上円了の『南船北馬集』第2編「大分県紀行」明治40年5月19日の条に出てきて、「哲学館出身」とある。大正7年版『東洋大学一覧』を見ると、得業生として大原の名前がある。住所は大分県大野郡田中村(現・豊後大野市大野町田中)である。確かに大原という住職は存在したことになる。
昭和12年9月歌舞伎座で上演された三角寛原作『山窩の女』 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように、三角は『日本仏教人名辞典』に立項されている。しかし、三角は「ひとのみち」(PL教団の前身)の信者だったし、寛子は「祖母に比べ、寺で育ったのに、父は少しも信心深くなかった」と書いている。また、前記『彷書月刊』のインタビューで寛子の夫三浦大四郎は、戦後三角が作った宗教法人について、ペーパー法人で「宗教法人だと税金がかからないですし、それが一番大きかったんじゃないですか」と述べている。この宗教法人、「孝養山母念寺」という。「母念」という名称は、亡くなった母タズへの三角の思いを込めたものだろう。タズの法名は「願力院釋尼慈声」であった。

*1:筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』(文春新書、平成18年10月)は大正3年満10歳の時らしいとしている。