神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

2007-07-01から1ヶ月間の記事一覧

辰野隆と村井弦斎

辰野隆「読書の思い出」『老若問答』(昭和25年12月)に、 「その頃ではないのですか、谷崎さんから露伴を読めとすすめられて、『縁外縁』と『対髑髏』*1を読んだとかいう話ですが・・・」 「それは中学五年時分だった。それもよく解らなかった。ああ、又思…

民族科学研究所研究員由良哲次

誰ぞも読んだ四方田犬彦氏の「先生」であった由良君美。その父は、由良哲次。 哲次の年譜を見ていると、昭和18年2月11日財団法人民族科学研究所研究員に併任とある。この研究所は、民族研究所の誤記だろうと思っていたが、別物であった。 『戦時下日本文化団…

夢野久作が夢見た大倉精神文化研究所の未来

『夢野久作の日記』を見てると、 昭和3年7月9日 東京に精神文化研究所立つと、個人の思ひ立ち也。喜ばし。然れども其研究方針を見るに漫然たるものあり。唯来るべき新時代の魁となるべきを頼み、思ふのみ。 最初は、昭和3年に創立されという大槻憲二の東京精…

戦時調査室委員市河彦太郎(その2)

「お茶引き芸者」の集まりとなった戦時調査室だが、成果があったのかなかったのか、翌年市河らはクビを切られることとなる。 石射の日記*1によると、 昭和19年6月23日 ○次官から室人事の件につき相談あり。森[喬]、市河、宮崎[申郎・公使]の三君は遂に退官の…

ただ者ではなかった「浩水君とやら」

中井浩水君は、やはりただ者ではなかったみたい。 『日本文壇史』第11巻には、『早稲田文学』の姉妹誌として明治39年6月に創刊された『趣味』の編輯者として、西本翠蔭、東儀鉄笛、土肥春曙、水口薇陽、水谷不倒とともに中井の名前が挙がっている。 また、中…

戦時調査室委員市河彦太郎

スメラ学塾講師としての市河彦太郎を調べていたのだが、段々市河という人間そのものに興味がわいてきた。 石射猪太郎『外交官の一生』によると、 戦争の結果、多くの外交官が任地を知って待命となった。それらの人々を集めて、戦時調査室なるものを設置する…

川端康成と神智学

川端康成の年譜を見ていたら、大正8年(20歳)の欄に、今東光の父武平から心霊学(神智学)への興味をうえつけられた、とあった。川端先生もオカルトしてたんだね。 追記:NHKで「団塊世代の教員の大量退職」→「教員の争奪戦」の話をやっていた。「司書の大…

『先生とわたし』刊行記念対談を読む

『波』7月号をようやく拾う。四方田犬彦と巽孝之の対談あり。 四方田 (略)僕がこの本を何とか書けたのは、自分が英文学の世界にいなかったからでしょう。もう一つは、僕は東京大学にいないということです。おそらく東大の中にいたら書けなかった。例えば東…

プランタン以前のカフェー・キサラギ

橋爪紳也『モダン都市の誕生』(吉川弘文館、2003年6月)によると、 従来、日本で最初に「カフェー」と名乗った店は、明治四四年(一九一一)三月に開業した銀座の「カフェー・プランタン」であるとされてきた。しかしその一年ほど前、大阪の川口に「カフェ…

谷崎潤一郎のパトロン(その4)

谷崎潤一郎の『青春物語』に、 雑魚寝で一番悩まされたのは、大阪の宿にゐた時分、中井浩水君が新町の茨木屋に十日も二十日も流連してゐて、夜になると呼び出しの電話がかゝつて来る、(略)泊まるのはいゝんだが、浩水君は相方と一緒に別の座敷へシケ込んで…

オタ、書肆アクセスの閉店に泣く・・・

かねてより岡崎武志氏や林哲夫氏のブログで、神保町で何か不幸な事態が生じつつあることに言及されていたので、どこかの古書店の閉店かと思っていた。ところが、書肆アクセスの閉店と知り、驚いた。 書肆アクセスの歩み*1を振り返って見ると、 1976年4…

谷崎潤一郎のパトロン(その3)

渋谷の松涛(しょうとう)というのは高級住宅街らしいが、そこには渋谷区立松涛美術館がある。私も、何度も足を運んだことがあるのだが、逃した獲物は大きかったと思っている展覧会がある。一昨年12月から昨年1月にかけて開催された「幻想のコレクション 芝…

東亜研究所 対 民族研究所

「谷崎潤一郎のパトロン」は一休みして、岡正雄の民族研究所ネタを。 いつの世も省庁間の縄張り争いはあるもので、昭和13年9月に企画院直属の財団法人として発足した東亜研究所の後追いとなった民族研究所は、文部省所管。その設立には、一苦労したようだ。 …

谷崎潤一郎のパトロン(その1)

牛尾治朗の「私の履歴書」*1で祖父梅吉(1864-1934)について触れている所に谷崎潤一郎関係のネタがあった。 当時のことは人づてに聞くばかりだが、堂島の米穀取引所は、林市蔵理事長がのちに大阪府知事を務めるなど、社会的地位は相当のものだったらしい。…

谷崎潤一郎のパトロン(その2)

森山重雄『評伝宮嶋資夫』(三一書房、1984年9月)には、曽野俊輔という人が出てくる。 曽野俊輔は、播州出の成金でもあり実業家でもあった加東徳三郎の甥であった。宮嶋は二十二歳の頃*1、加東徳三郎商店に勤めたことがあるのでそれで知りあったのだろう。…

戦時下の燕京大学の謎(その2)

戦時下の燕京大学については、3月3日に言及したところ。 『大蔵公望日記』にも戦時下の燕京大学の様子が出てきた。 昭和17年6月8日 二時、伊沢、光武、其他の人々で共に北京郊外の燕京大学を視察す。総坪数三十万坪、規模広大、建物も立派な支那式にて、日本…

新潟県立図書館の大東亜文庫

ある年表を見ていたら、昭和19年8月15日の事として、「新潟県では1万円の予算で中央図書館内に大東亜文庫を設置することになり、本日知事名で同文庫委員会を組織」とあった。「書物蔵」にも出てこない「大東亜文庫」。ちと面白げ。 追記:荘司徳太郎・清水文…

高松宮が隠したかった秘密研究

『高松宮日記』に、クラブシュメールや皇戦会のメンバーが登場することは、昨年5月28日に紹介した。 同日記で一番気になるのは、昭和20年4月29日の条の注に「四月二十五日より二十八日までの記述があったと思われるこの直前の御日記原本二葉は切り取られてい…

「食育」の人、村井弦斎を忘れとる!

ジュンク堂書店の『書標』7月号は、「食生活を考える」特集。偶然にしても、タイムリーな企画だね。 もっとも、「「食育」とは」」として「食育」関係の本を紹介しているが、何か欠けている。 そうだ、黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』(岩波書店)に…

建川美次と茂森唯士

元駐ソ連大使の建川美次、そして駐ソ連大使秘書だったという茂森唯士。前者は東方社総裁で、後者は同社役員。この二人の関係にピンとこないようではいかんなあ。わしは、ニュー・タイプにはとてもなれそうもないね(6月21日参照)。 茂森訳のエメェ・アンベ…

謎の植民地図書館

『大蔵公望日記』に謎の図書館長が登場する。 昭和17年6月17日 一時三五分徐州発 二時五〇分南京着/直ちに首都飯店に入る。夕刻まで室に居る。図書館長の福崎氏、関屋夫人来訪。 6月19日 一〇時、福崎氏の案内により、近く公開される筈の博物館及図書館を見…

清水彌太郎、プラトン社員にして読売新聞社員

プラトン社の清水彌太郎については、昨年9月6日に言及した。 『新聞人名辞典』第3巻(底本:新聞人名鑑昭和五年版)を見てたら、 清水彌太郎 読売新聞社文藝部長 (入社)大正7年6月 明治二十六年二月一日に生れ、早稲田大学卒業、市内某高女並に某女子専門…

悪の情報官鈴木庫三伝説の誕生

野上弥生子も情報官鈴木庫三や情報局次長奥村喜和男が怖かったようだ。日記*1によると、 昭和16年5月26日 公論はだいぶもんだいの雑誌らしい。書くのが少々いやになつた。中河与一夫妻のことや、情報部[ママ]の鈴木少佐のおそろしい話をきく。 18年4月24日 …

退屈男が目撃したサンカ

旗本退屈男で知られる佐々木味津三は、明治29年3月愛知県北設楽郡下津具村生まれだが、少年期にサンカを目撃していたという*1。 近頃山窩が、大衆物の呼びものの一つになりかけてゐるらしいが、三河の山奥で育ツた僕は、少年のころ、しばしばこの山窩の移動…

東京帝国大学附属図書館司書鵜飼長寿

「また、東京帝国大学附属図書館ですか〜」てか。 そうじゃ。金亨燦『証言・朝鮮人のみた戦前期出版界』にも同図書館司書が出てきた。『日本読書新聞』創刊(昭和12年3月)から2〜3ヶ月経った頃の話として、 そして、日刊新聞に広告を掲載したところ、新進…

星新一もぼけていたか!?

まだぼけていなかった頃の城山三郎の『落日燃ゆ』に 大空襲の夜から一週間後、広田は箱根強羅の知人の別荘に現れた。家を焼かれ、そこへ避難してきているという口実であった。 とある。この「大空襲」とは昭和20年5月25日の空襲のことであり、「知人」とは星…

ロッパをアッと言わせる大森の黄鶴堂

大森の黄鶴堂という古書店はすごい店だったらしい。 『古川ロッパ昭和日記』によると、 昭和17年11月8日 一時おくれて新橋駅、正岡と待ち合せて、大森で下車。黄鶴堂といふ古本屋あり、入って一目見渡すと、アッと言ひたい程、文学本ばかり古書の山、約二時…

東京帝国大学附属図書館司書増田七郎

『古川ロッパ昭和日記』で、ロッパは実弟増田七郎の死について書いている。 昭和18年7月21日 下二の加藤姉上来訪、増田七郎が肺で大分いけなく、入院とのこと。われら兄弟は一寸宛その気があるらしい、僕など実に恵まれたりと思ふ。 7月30日 杏雲堂病院へ、…

高見順と玄洋社々員横山雄偉

大西比呂志「ドン・ブラウンと横山雄偉」(『図説ドン・ブラウンと昭和の日本』)には、横山雄偉について 横山は帝国ホテルに個人事務所を構え、旧知の広田などを通じて外務省やドイツ大使館から情報を入手したほか、陸軍の憲兵隊や特務機関とも密接な関係を…

玄洋社々員横山雄偉

斎藤茂吉の日記*1に 大正14年12月8日 夜ニナツテ政木氏ガ横山雄偉ト云フ人ヲツレテ来テ有利ナ金ガアルカラ借リテ呉レヨト云フ。ソレヲモ断ツテシマツタ。 とある。 こういう金はうっかり借りてはいけない。横山雄偉という人物は、玄洋社々員として多少知られ…