「お茶引き芸者」の集まりとなった戦時調査室だが、成果があったのかなかったのか、翌年市河らはクビを切られることとなる。
石射の日記*1によると、
昭和19年6月23日 ○次官から室人事の件につき相談あり。森[喬]、市河、宮崎[申郎・公使]の三君は遂に退官のやむなきか、考へただけでもいやになる事柄である。
7月17日 森、市河、宮崎の三君次官から辞表提出を求めらる。来るべきものが遂に来たのであるが、何としても惜しい人々である。三君の態度流石に立派であった。
8月16日 ○森、市河、宮崎三公使の依願免官が発表になる。
敗戦後、巣鴨プリズンに勾留中の天羽英二は新聞で市河の死を知ることとなる。
天羽の日記*2によると、
昭和21年4月4日 市河彦太郎選挙応援演説中頓死 気の毒(「朝日」)
追記:岡崎氏のブログに出てくる五反田の秘書を連れた社長さんて、一度見てみたい、