神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

民族学

岡正雄とアレクサンダー・スラヴィク

メモ:町田幸彦「デラシネ備忘録32」『未来』9月号は、「スラヴィク先生の回想」。1996年5月に行った元ウィーン大学教授アレクサンダー・スラヴィクへのインタビューの話。民族学者岡正雄にも若干言及。 ウィーン大学に再入学し、日本学の講座がないため中国…

 民族研究所の設立メンバー

昭和17年5月19日 民族研究所設立準備委員任命。小山栄三・大川周明・永井柳太郎・岡正雄・古野清人ら 8月20日 民族研究所の外郭団体財団法人民族学協会設立。常任理事古野清人、理事大川周明・高田保馬・中山正善(天理教二代目真柱)・岡正雄・小山栄三ら …

昔話の神様関敬吾

戦前、東京帝国大学附属図書館の司書官だった山田珠樹の回想*1によると、 あの当時の東大図書館は和漢書係、洋書係と二つの大きな系統に仕事が截然と分かれてゐて、二名の司書官が各々その一つを主裁して、仕事をする場所も建物の両翼に分れ、互に相犯すこと…

東亜研究所の金森徳次郎

石射猪太郎の日記にも東亜研究所が出てきた。 昭和18年9月14日 ○大蔵[公望・東亜研究所副総裁]男来訪、東亜研究所に力をかして呉れとの相談也。 9月17日 ○金森徳二[次]郎氏来訪、東亜研究所との協力方。 10月20日 ○夜東亜研究所の招待を受け木挽町京亭と云ふ…

地名こそ神代文字なり!

東亜研究所が柳田國男の『炭焼日記』に出てくる。 昭和19年11月5日 鏡味完二君来。東亜研究所に在り、印度のことを担当すといふ。地名の研究をするといひ、その話をきゝに也、茶一袋くれる。 鏡味は戦後も地名の研究を続けている。『日本の地名』(角川新書…

東亜研究所 対 民族研究所

「谷崎潤一郎のパトロン」は一休みして、岡正雄の民族研究所ネタを。 いつの世も省庁間の縄張り争いはあるもので、昭和13年9月に企画院直属の財団法人として発足した東亜研究所の後追いとなった民族研究所は、文部省所管。その設立には、一苦労したようだ。 …

プチ・ブル的図書収奪

中生勝美氏の民族研究所に関する論文については、佐野眞一氏の著書に言及されているが、現物を見たら面白いことが書いてあった。岡村敬二氏や、東條文規氏の著書にも書いてないと思ふ。「民族研究所の組織と活動−戦争中の日本民族学」(『民族学研究』62巻1…

『阿片王 満州の夜と霧』(佐野眞一著)から

読むまいと思っていたが、読んでしまった佐野眞一『阿片王』。 戦前の民族学者について第1章に出てくる。 昭和10年(1939)年4月、当時、陸軍省軍事課長だった 岩畔豪雄の命令で、「昭和通商」という軍需国策会社がつく られた。公的記録には一切出て…

岡正雄、ヒトラーのオーストリア併合を目撃

ところで、日本学研究所として私に与えられた研究室という のは、それまで精神分析学の研究室だったところなんですよ。 フロイトがやはりナチスの侵入によって亡命したために、そ の研究室が空いて、その部屋が私に当てがわれたわけ。 (中略) ヒトラーが入…

国策プロパガンダ雑誌「FRONT」顧問としての岡正雄

これは戦争中、岡田桑三、林達三、中島健蔵、木村伊兵衛、 原弘氏らを中心として出版していた「フロント」という写真 雑誌−これには私や岩村忍君も顧問として関係していました− の経営面を担当していた山本房次郎さんという方があり、この 山本氏がもと軍の…

柳田国男邸を逃げ出した岡正雄

僕は昭和3年の9月まで先生のところにおったのです。もうとて も先生と朝夕、顔を合わせることに堪えられなくなり、先生の方 も僕に我慢ならなくなったことと思います。それで先生に何度か ここを出たいとお願いしたのだが、うんといわない。あるときは、 …