「また、東京帝国大学附属図書館ですか〜」てか。
そうじゃ。金亨燦『証言・朝鮮人のみた戦前期出版界』にも同図書館司書が出てきた。『日本読書新聞』創刊(昭和12年3月)から2〜3ヶ月経った頃の話として、
そして、日刊新聞に広告を掲載したところ、新進有能の士が沢山応募してきた。その中から選ばれたのが鵜飼長寿君である。
同君は東京帝大英文科出身で、夫人はハワイ出生の第二世。(略)外見的には何よりも温和で高級インテリらしい品位のあるところに好感が持てた。
すでに東大附属図書館で司書的仕事をやっていたとかで、図書館並びに出版に関する関心と知識は相当のものであり、あとで知ったことだが、在学中には学生運動にも関係したほどで、社会思想については造詣の深い青年学者でもあった。
この後、鵜飼は、金の退社(昭和13年5月頃)の際、行動を共にしている。
また、昭和18年頃の話として、
鵜飼君を「日配」に招請した当時の彼は、昼は「東大図書館の司書職」であり、夜は「某私大の講師」を務めていた。(略)同君は恩師である市川[ママ]博士*1とも相談の上、ということで結局、専属社員としては入社できないが、一日置きの出勤で「嘱託社員」としてなら勤めることが出来る、とてOKとなったのである。
私が「日配」を去ったのちも決戦非常時下の『出版弘報』の編集員として仕事を続け、翻訳も出来たので同誌に『独逸書籍業界史』を連載、ドイツにおける出版統制の実態を明らかにする等の功績を残している。
明治41年生まれという鵜飼は、「東大図書館で司書的仕事」→「日本読書新聞社」→「東大図書館の司書」→「日本出版配給株式会社の嘱託社員兼業*2」という経歴のようだ。