「谷崎潤一郎のパトロン」は一休みして、岡正雄の民族研究所ネタを。
いつの世も省庁間の縄張り争いはあるもので、昭和13年9月に企画院直属の財団法人として発足した東亜研究所の後追いとなった民族研究所は、文部省所管。その設立には、一苦労したようだ。
わたしが学士院を辞して、満鉄東亜経済調査局に入ったころ、ウィーンから岡正雄君が帰ってきて、民族調査の国家機関を樹立することを提唱した。それに共鳴した若干の同志はよく会合しては、実現への工作を続けた。すでに東亜研究所が活動を開始していたので、政府は意欲的でなかった。近衛首相に働きかける方法もなかったので、先生に首相宛に一筆書いて頂こうということになり、岡君と一緒に目黒のお宅にお伺いして、お願いした。
古野らの依頼に対して、白鳥は結局断っている。
東亜研究所は、近衛文麿総裁、大蔵公望副総裁で発足した機関。大蔵が、後発の民族研究所との関係について、日記に記録していた。
昭和17年5月25日 九時三〇分、企カク院に秋永第一部長を訪ねしも不在。よって石田調査課長を訪ねて、左の事を秋月[永]氏へ伝言頼む。
一、来月より約一ヶ月半にて満支に旅行すること。
(略)
三、今度文部省で新設の民族研究所と東研との間に摩擦の出来ぬよう、企カク院にて仕事の配分を考へること。
この段階では、根回しがすんだのか、大蔵は協力的な態度を取っている。
その後、民族研究所は、昭和18年1月に発足することになるが、岡は総務部長を務める。その岡の名前が、大蔵の日記に登場する。
昭和19年5月15日 一一時、民族研究所の総務部長岡□[欠]雄氏来訪、余に此研究所の参与となって呉れとの話だが謝絶する。
大蔵はこの月末に東亜研究所の副総裁をやめているので、それを見込んでの依頼と思われるが、こういうのは「ご法度」だろう。
この東亜研究所と民族研究所の争いは、中生勝美氏や佐野眞一氏も知らないかな。
追記:大橋洋一先生には、ダルコ・スーヴィン『SFの変容 ある文学ジャンルの詩学と歴史』の翻訳書があるようだ。買ってはいないけど、見たことはあるよ。