戦時下の燕京大学については、3月3日に言及したところ。
『大蔵公望日記』にも戦時下の燕京大学の様子が出てきた。
昭和17年6月8日 二時、伊沢、光武、其他の人々で共に北京郊外の燕京大学を視察す。総坪数三十万坪、規模広大、建物も立派な支那式にて、日本にては到底見られぬ贅沢さなり。
斯るものを建てて、支那の青年を懐柔せる米国のやり方にも大いに学ぶ点あるも、日本としては物質的よりも、むしろ精神的に支那青年を把握す可きだと思う。
この頃は、鳥居龍蔵が軍の監視下にあった頃だ。
それから、小島信夫に「燕京大学部隊」という作品があるので、年譜を見たら、昭和19年(29歳)の欄に「大同へもどり、のち朔県で暗号兵として勤務し、春、ひとり転属して北京の燕京大学の中にあった情報部隊で訓練をうけ、ここで二世の兵隊と終戦まで暮した」とあった。小島と藤澤親雄が接触していたら面白いのだが。