スメラ学塾講師としての市河彦太郎を調べていたのだが、段々市河という人間そのものに興味がわいてきた。
石射猪太郎『外交官の一生』によると、
戦争の結果、多くの外交官が任地を知って待命となった。それらの人々を集めて、戦時調査室なるものを設置する計画が立てられ、図らずも私がその主宰を松本次官から頼まれた。私を委員長とし、委員として柳井、秋山、宮崎(申)、市河の四公使(中略)事務主管の幹事長として寺崎(英)一等書記官が調査室を構成した。いずれも選り抜きの錚々の士であった。
調査室は戦争遂行上、またその終結上参考となるべき内外の事情を調査し、政策的結論を見出すのを自らを任務と規定して、一九四三(昭和一八)年一月から店開きをした。委員諸君は調査室の任務を高く評価したが、私には差し当りお座敷を失った「お茶引き芸者達のための検番」といった気の毒な感がしてならなかった。
追記:新刊の荻野富士夫『戦前文部省の治安機能』(校倉書房)には、国民精神文化研究所とか出てくるのかしら。
誰ぞが、「中間」と思わせぶりな書き方をするので、移転したのかと思って、某食堂の位置を確かめたが昔と変わらず。「真ん中」という意味では明らかに違うが、「間」という意味なら許容されるか。しかし、同食堂と同大の関係から言って「中間」にあるという言い方をする人はまずいないと思ふ。2年前に行って以来行ってない・・・