谷崎潤一郎の『青春物語』に、
雑魚寝で一番悩まされたのは、大阪の宿にゐた時分、中井浩水君が新町の茨木屋に十日も二十日も流連してゐて、夜になると呼び出しの電話がかゝつて来る、(略)泊まるのはいゝんだが、浩水君は相方と一緒に別の座敷へシケ込んでしまつて、私は外の女どもとあぢきなく雑魚寝をさせられる。ところが、浩水君の相方の美妓の顔がいつ迄もいつ迄も眼先にチラついて、容易に眠られないのである。
とある。
中井浩水はパトロンというよりも、谷崎を悶々とさせた有難迷惑の知人のようだ。しかし、一応身元調査をしておこう。田中優子さんは上記の文章を引用した『芸者と遊び』(学研新書)で「浩水君とやら」としか言っていないが、この浩水君とは何者だろうか。いくつか判明したことを紹介しておこう。
まず、『志賀直哉全集』第16巻(岩波書店、2001年2月)中の「日記人名注・索引」には、中井浩水について「大阪の千種屋の大番頭の息子で新聞記者。昭和12年11月17日付けの康子宛書簡に名前が出てくる。詳細未詳。」とある。「新聞記者」とまで書くなら、社名も書いておいてほしいのだが、そこまではわからなかったのだろうか。それにしても、志賀直哉全集の編集陣にしても詳細未詳とは、これは浩水君の正体を探るのは難問か。
ところが、例によって、日記の中で、おそらく彼の本名と思われるものを見つけることができた。
昭和37年6月11日 中井新三郎同好談話会之件ニ付来訪。
9月2日 大坂ニ開かるへき珍書展覧会ニつき中井新三郎ニ郵書を発す。
9月17日 中井新三郎大坂より帰京。南水漫遊三教色外珍本二三書を齎らし来り見す。暫時借覧セんと手元ニ留む。
10月16日 中井新三郎ニ郵書を発す。(略)夜分中井浩水来訪。
浩水君は、珍書展覧会にもかかわっていて、別名を新三郎という人のようだ。市島との関係から言うと、早稲田大学の校友の可能性がある。
その後の調査には色々紆余曲折があったけれど、省略。結局、『新聞人名辞典』第2巻所収の『新聞及新聞記者』大正10年10月号を見たら、
中井新三郎(浩水) 大阪時事新報学藝部。(略)明治十五年二月廿三日大阪島の内に生る。(略)[学歴]早大英文科卒業。[新聞歴]大阪時事、帝国新聞、大阪新報、大阪時事。[趣味]徳川時代の文藝。
とあった。最初から、こういうレファ本を見ればよかった。「某」、じゃなかった、「元」図書館員の誰ぞなら、「チャッチャッ」と調べてしまうのだろうが。
中井新三郎の早大の卒業年は別途調べてみたら、明治39年であった。
さて、中井浩水の本名が中井新三郎だとすると、谷崎に関する別の謎も解明できる可能性がある。坪内逍遥との出会いである。昨年12月23日に紹介したけれど、谷崎は浩水に連れられ「マグダ」の見物に行き、逍遥に会っているのだが、その日が不明であった。一応、6月14日又は15日と推定しておいた。ところが、逍遥の日記の明治45年6月12日の条には次のような記述があった。
六月十二日
中屋 中井新三郎、伊達俊光*2 加藤信正等来訪
この記述は知っていたのだけれど、「中井新三郎」と「中井浩水」が同一人物とは気づかなかったのだ。谷崎の記憶と異なり、「マグダ」の上演期間より前になるが、6月12日に谷崎と逍遥の初対面があったと見てよいのではなかろうか。
(参考)高橋輝次編著『古本漁りの魅惑』(東京書籍、2000年3月)に収録された石割松太郎「岩井半四郎最後物語」『世話もの談義』昭和23年にも中井浩水が出てくる。なお、石割は明治38年早大卒。
最初この本を買出して来たのは中井浩水氏で、明治三十六年の春のことだつたと思ふ。浩水も私も早稲田の学園に通つてゐた。
追記:(その3)で紹介した芝川照吉(1871-1923)の実弟は、近松の研究家木谷蓬吟とのこと。木谷は、小谷野氏なら知っている名前かも。