野上弥生子も情報官鈴木庫三や情報局次長奥村喜和男が怖かったようだ。日記*1によると、
昭和16年5月26日 公論はだいぶもんだいの雑誌らしい。書くのが少々いやになつた。中河与一夫妻のことや、情報部[ママ]の鈴木少佐のおそろしい話をきく。
18年4月24日 一二日まへに内閣大改造、文部省でもやつと橋田がやめたが、あとは岡部長景である。すべてに評判のよくなかつた奥村情報次長がやめたのはみんなを悦ばしてゐるらしい。私は幸福にも彼の声も一度もきかず、顔も一度も見なかつた。
戦後、悪いことの責任はすべて鈴木庫三少佐や奥村喜和男に押し付けられたが、既にその「伝説」は形成されていたようだ。鈴木は、昭和16年3月には中佐に昇進しているが、いつまでも「あの鈴木少佐」と呼ばれていたのだろう。
佐藤卓己の『言論統制』によると、「鈴木日記」の昭和14年10月31日の条に「戦争文化研究所」(昨年5月12日参照)への言及があるらしい。同書によると、
また、翌一〇月には、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社と戦争文化研究所が共催の「世界総力戦展覧会」(於・日本橋白木屋)を視察に行っている。
観覧後の感想を強て言ひ[ママ]ば、其の構成が大地に確実に足を踏みしめて居る理想の表現でない様に感ぜられた。文化のみならず、政治、経済、軍事、外交の綜合的認識をもたぬ為に犯した欠点である。 1939-10.31
この時点では、鈴木は、まだ小島威彦や藤澤親雄とは接触していないと思われる(鈴木の情報局情報官就任は昭和15年12月)。そもそも「鈴木日記」の中で小島や藤澤はどのように書かれているのであろうか。日記をぜひ公刊してほしいものである。
(参考)池島信平も奥村の辞任について、日記に書いているらしい。塩澤実信『文藝春秋編集長 菊池寛の心を生きた池島信平』(展望社、2005年9月)によると、池島の日記の昭和18年4月21日の条に「内閣改造、奥村情報局を去る、何ともいえぬよい気持ちなり、出版界の言うべからざる暗雲ともいうべき奴であった」と書いてあるとのこと。
ちなみに「悪の情報官」は書物奉行氏のネーミングを借用した。
追記:最近の「はてな」はログインできないことが多かったが、今日は大丈夫みたい。
*1:『野上彌生子全集』第Ⅱ期第7、8巻