神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

文藝

三浦関造とカラマゾフの兄弟

久保忠夫「日本における『カラマゾフの兄弟』の最初の翻訳者」*1によると、 青山学院の校友会に三浦関造の消息を問い合わせたのは、ことしになってからであった。その返事に「三浦関造氏は七十余才」で益々御壮健にて印度哲学「ヨガ」を研究されております。…

松宮春一郎と水野葉舟と吉川英治のマンダラ

折口信夫『初稿・死者の書』所収の安藤礼二「光の曼陀羅−初稿『死者の書』解説」の次の一節。 しかし折口が、なぜ、この『世界聖典全集』を発行していた世界文庫刊行会、さらにはそれを主宰していた松宮春一郎とつながりができたのか、折口に関するあらゆる…

大槻憲二と評論随筆家協会

『昭和三年版評論随筆家名鑑』(評論随筆家協会、昭和3年4月)中の「評論・[ママ]随筆家協会記録」によると、同会は大正15年初冬発起人会を開催。発起人は、次のとおり。 長谷川如是閑、長谷川天溪、馬場孤蝶、西村眞次、本間久雄、戸川秋骨、大槻憲二、河野…

最初から結論ありきの露探事件判決

最初の露探容疑者長田秋濤が訴えた裁判の判事早川早次と、市島春城の接触については、昨年10月9日に言及したところ。市島の回想に驚くべきことが書いてあった。 「豪快児長田秋濤」(『余生児戯』冨山房、昭和14年11月)によると、 (前略)不謹慎と放縦は彼…

歌う催眠術師石川啄木

石川啄木が佐藤衣川に出合ったのは、明治37年10月に処女詩集刊行の目的で上京していた時の事になる。その佐藤をモデルにした小説*1が、「病院の窓」。執筆は佐藤と釧路新聞社で再会した後の明治41年5月で、生前は未発表である。同作品によると、 野村は或学…

国策研究会と辰野隆

戦前大蔵公望や矢次一夫らによって設立された国策研究会については、昨年8月8日に少し言及したところである。『国史大辞典』では、昭和期の有力な政策研究立案グループの一つで、第二次世界大戦後一時新政研究会として活動したが、昭和28年国政研究会として…

日本文学報国会理事辰野隆

櫻本富雄『日本文学報国会』(青木書店)を見てたら、昭和17年6月に設立認可された社団法人日本文学報国会の設立時の役員は、会長 徳富蘇峰 常務理事 久米正雄 中村武羅夫 理事(15人) 柳田國男 菊池寛 下村宏 折口信夫 窪田空穂 辰野隆 ら 辰野は設立時の理…

辰野金吾・隆一族の謎(その2)

谷崎潤一郎の養女恵美子が、観世榮夫と結婚する前に見合いをした一人が星新一だったことは昨年5月8日に言及したところである。もう一人、辰野の親戚とも縁談の話があったらしい。谷崎の昭和26年10月25日付け和辻哲郎宛書簡によると、 大兄も御存知の筈の○○○○…

辰野金吾・隆一族の謎(その1)

辰野隆が、今マイブーム。 東京駅などの設計で知られる辰野金吾とその子であるフランス文学者の隆は、「日本の有名一族」とするには、一般的な知名度は低いか。それでも、一族には結構著名な人がいる。隆の姉須磨子はビタミンの鈴木梅太郎夫人、また妻久子の…

神代の如く神多し

猫猫先生がブログで小説の連載をするかと思えば、ma-tango氏は太霊道に関する論文を連載。この太霊道が日の出の勢いだったという大正6、7年頃は、色んな神さんが活躍していたらしい。宮武外骨の『スコブル』第12号(大正6年10月1日)によると、 ▲今は神代…

永代静雄らの遊蕩

谷沢永一『紙つぶて―自作自注最終版』で加わった自注に金田志津子『紅燈情話 私娼の叫び』(大正5年)の紹介があって、 花よしという待合は、女将が如才ないのと気が張らないので大繁昌、馬場孤蝶、永代静雄、吉井勇、和気律次郎、秋場[ママ]俊彦、大杉栄、…

宮本百合子と黒田礼二

中條百合子、後の宮本百合子は、朝日新聞ベルリン特派員の黒田礼二(本名・岡上守道)とのモスクワでの出会いについて、自伝的小説『道標』で次のように記している。 名刺には比田礼二とあり、ベルリンの朝日新聞特派員の肩がきがついていた。比田礼二−伸子…

ダンテ研究者大賀寿吉の蔵書

大賀寿吉については、昨年9月19日に言及したけれど、大正11年1月4日付け会津八一の市島春樹宛書簡にも出てきた。 こゝにまた大阪には珍しき人物あり、即ち大賀寿吉とて其商店の顧問にて伊太利ダンテ学会の正員たる人に有之候。(略)ダンテにつきてはともか…

岸田國士大政翼賛会文化部長を激励する会

秋田雨雀日記によると、 昭和15年12月12日 ファッショの動員。 午前十時ごろ上野精養軒の大政翼賛促進の会へ行く。岸田、菅井、上泉(秀信)の三君の部長、副部長激励の意味の会らしかった。(略)食事後久米正雄の司会で柳田国男さんが開会の辞をのべ、各方…

ミネルヴァ日本評伝選への期待

ミネルヴァ日本評伝選については、猫猫先生も言及していたことがあったけれど、わしもあらためてリストを見てみる。 (期待してよさそう) 円観・文観(田中貴子)、西郷隆盛(草森紳一)、小林一三(橋爪紳也)、辰野隆(金沢公子)、宮武外骨(山口昌男)、…

斎藤茂吉の見た徳田秋聲・山田順子カップル

斎藤茂吉の日記も索引がなく不便。そのためかあまり活用されていないみたい。 次の出来事も従来の徳田秋聲や田山花袋の年譜には記されていない。 昭和2年2月19日 夕ヨリ歌舞伎座ニ改造社ニ招ガレテ行ク。芝居ハナカナカ面白カツタ。佐藤春夫。久米正雄、芥川…

薄井秀一の婦人論

薄井秀一の書いた婦人論を幾つか見つけた。 「新しい女と卵細胞」『中央公論』大正2年5月号 「近代婦人思想の出発点」『中央公論』婦人問題号(大正2年7月15日発行) 「近代婦人の貞操観」『太陽』近時之婦人問題号(大正2年6月15日発行)・・・薄井長梧名義…

市河彦太郎と阿部次郎

阿部次郎の日記になぜか、市河彦太郎が登場。 大正7年1月24日 日暮市河彦太郎その二友を伴ひて来訪、賑かな空想を話して帰る 3月20日 仕方がないので市河の「小さい[ママ]芽」を百頁ばかりよむ。 8年4月29日 晴天、午前午後目白行、二三人の相談を受け、市川…

桜庭一樹と紀伊國屋新宿本店

もちろん桜庭の小説は読んだことはないのだが、『桜庭一樹読書日記』は読んだ。 2007年1月某日 夕方、家を出て徒歩五分の紀伊國屋書店>>新宿本店に向かった。 本当に、おおきな本屋さんである。ビルぜんぶが本、と知ったとき、その昔の、上京直後のわたし(…

 『絵葉書世界』の女記者と幸田露伴

日露戦争期の絵はがきブームについて、黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』に出てたので絵葉書ネタを。 幸田露伴の日記に、明治43年永井三星堂から創刊された月刊誌『絵葉書世界』の女記者が出てくる。 明治44年2月14日 薄暮石橋思案紹介にて井出百合とい…

 金尾文淵堂の再破綻

金尾文淵堂が『仏教大辞典』の予約金を集めながら、明治40年7月の刊行を延期し、41年8月以降に倒産したことは、石塚純一『金尾文淵堂をめぐる人びと』に記されている。また、同書によると、40年10月7日の『万朝報』が文淵堂の窮状や予約金が1万9千円に達して…

 金尾文淵堂と島崎藤村

島崎藤村の神津猛宛書簡に金尾文淵堂が出てきた。 明治38年5月8日付け書簡には、5月4日のこととして、 この夜金尾文淵堂なる書店の主人来訪、「文芸倶楽部」紙上にて小生の出版事業を聞きたりとて、その一手発売の委托を乞ひに来る。書肆の機敏可驚、尤も思…

今年の明暗二様

古い話だが、『SPA!』10月2日号の書店員へのアンケートで、信用できる文藝評論家の4位が小谷野敦で、信用できない文藝評論家の4位が坪内祐三だったらしい。坪内氏は、『本の雑誌』12月号の「坪内祐三の読書日記」9月27日の条で、 『SPA!』…

悪の枢軸

豊島与志雄「交遊断片」*1に森茉莉いうところの「悪い仲間」が書かれている。 或るレストーランの二階、辰野隆君と山田珠樹君と鈴木信太郎君と私と、四人で昼食をしていた。この三人は立派なプロフェッサーで、私はその中に交ると、一寸変な気がするのである…

森茉莉と豊島与志雄

昨年10月14日*1に言及した森茉莉が山田珠樹と離婚後、翻訳の件で岸田国士に相談したときに紹介されたという「近くに住んでゐた貴志讃次」。岸田と親しいフランス文学者としては、豊島与志雄がいるのだが、豊島は当時千駄木に住み、岸田は阿佐ヶ谷。「近く」…

東大仏文学教室の若き群像(その2)

前川堅市は中島健蔵の回想(『疾風怒涛の巻 回想の文学1』)に出てた。 東大のフランス文学科の学生名簿の中に小川泰一の名を発見した時、そして彼が、小学校以来わたくしの同級生だった市原豊太と同じ年度の入学と知った時、およそ五年間にわたる空白を感…

志賀直哉と露探

志賀直哉の日記『志賀直哉全集』第11巻に「露探」が出てきた。 明治37年5月25日 此日、very bad newsを得たり それは磤菊の不品行にて無節操にて、門左九といふ露探と関係したりなど 又金にいやしきことなどあらゆる悪口百花新報*1に出たりと立花持ち来る、…

東大仏文学教室の若き群像

「森茉莉街道をゆく」11月27日分で紹介されていたジイップ『マドゥモァゼル・ルゥルゥ』の翻訳(崇文堂、昭和8年1月)に協力したという東大仏文出身の前川堅市。 『日本近代文学大事典』などによると、 前川堅市 まえかわけんいち 明治35年1月7日〜昭和40年3…

おしゃべりな坪内祐三

坪内祐三の母方の祖父が柳田國男の次兄井上通泰であることはよく知られているところ。 父方の祖母梅子の弟が織田正信という英文学者であることは、坪内本人も書いている*1し、『日本の有名一族』でも紹介された。 この織田と東大英文科時代に友人だったのが…

東京新聞の大波小波

東京新聞は滅多に読む機会はないのだが、「大波小波」という匿名者によるコラム欄があるらしい。 篠田一士が「「大波小波」の五十五年」*1で次のように書いていた。 まあ、時効だから書いてしまうが、ぼくがこの欄の筆者だったのは、昭和三十年代後半から四…