神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

宮本百合子と黒田礼二


中條百合子、後の宮本百合子は、朝日新聞ベルリン特派員の黒田礼二(本名・岡上守道)とのモスクワでの出会いについて、自伝的小説『道標』で次のように記している。

名刺には比田礼二とあり、ベルリンの朝日新聞特派員の肩がきがついていた。比田礼二−伸子は何かを思い出そうするような眼つきで、やせぎすの、地味な服装のその記者を見た。いつか、どこかで比田礼二という名のひとが小市民というものについて書いている文章をよんだ記憶があった。そして、それが面白かったというぼんやりした記憶がある。


百合子の日記では、

昭和2年12月23日 ボックスよりサボイへ行って、敬意を表し、後藤さんに。計らず、黒田礼二氏に会い、夜メイエルホリドへ行く迄喋った。


    12月31日 午後黒田礼二氏来、秋田さんのところの連中と話して居るうち、一つ賑やかに年越しをしようではないかということになり、自分達芸術座のマーラヤ・スチェナー[小舞台]に呼ばれて居たのをことわりに伝えて、Yの発案にて一人一留ルーブル)十哥(カペイカ)ずつ出し、自分達買いものに出た。(略)かくし芸など出て、三時頃床についた。除夜の鐘ならず。


「後藤」は後藤新平、「Y]は湯浅芳子、「秋田」は秋田雨雀
百合子と黒田は、この後、左右全く異なる道を歩むこととなる。百合子は宮本顕治と出会い、黒田はヒトラーと出会うことになる。


(参考)秋田の日記では、

昭和2年12月31日 朝十時にモスクワへつく。(略)米川、中条、湯浅の諸君とも逢った。ドイツから岡上君がきている。
夜、中条君たちの室で年越し会をひらく、クリスマスの木、ローソクサモワール、おそくまで歌をうたっり話したりした。湯浅君、米川君の唄、自分も「弥三郎」をうたった。二時すぎ眠った。

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同志社大学の井上真琴氏の連載「これからの図書館を探して」(『ミネルヴァ通信』)は、まだ続いていて2月号は「公立図書館の新たな潮流(1)データベース充実政策」。館界では「ビジネス支援」とか魅惑的なお題目が踊っているが、実は基盤となるデータベース類を豊富に導入した館がない中で、27種ものデータベースを導入した大阪市立図書館の動きの話。詳しくは次回(4月号)に報告とのこと。