神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

森茉莉と豊島与志雄


昨年10月14日*1に言及した森茉莉が山田珠樹と離婚後、翻訳の件で岸田国士に相談したときに紹介されたという「近くに住んでゐた貴志讃次」。岸田と親しいフランス文学者としては、豊島与志雄がいるのだが、豊島は当時千駄木に住み、岸田は阿佐ヶ谷。「近く」とは言えないのだろう。それに、茉莉が『マリアの気紛れ書き』で「マリアが今田環から逃げだした理由の中に、竜野豊たち、仏蘭西文学者の、いい友だちといふより、悪い仲間のやうな、又悪い組織のやうなものを持つ雰囲気も、入つてゐたのだからだ」と書いている「悪い仲間」の中核に、豊島もいたはずなので、豊島が「貴志讃次」であることはありえないのであろう。


豊島与志雄明治23年11月27日−昭和30年6月18日) 大正4年東京帝国大学仏文科卒。大正7年〜12年横須賀の海軍機関学校嘱託教官。同年法政大学法文学部教授。大正10年同人雑誌「ろざりよ」の会員となり、辰野隆鈴木信太郎、山田珠樹、久能木慎治、尼子富士郎、団伊能と交わる。大正10年4月〜昭和11年3月東京帝国大学文学部講師(『豊島与志雄著作集』第6巻所収の年譜、『日本近代文学大事典』などによる)。


ところで、問題の昭和4年に岸田と豊島に会い、茉莉によるミュッセ「恋をもてあそぶ勿れ」の翻訳(『婦人之友昭和4年7月号〜12月号)を読んでいたと思われる人の日記が存在する。


昭和4年8月22日 豊島与志雄岸田国士が土地を見に来てクラブにゐるのに逢ふ。二人とも洋服で休けい室でせうぎをさしてゐた。(略)
三期の場所を物色して、岸田は下のクラブを見下ろす栗林を、豊島は私のかねてよいとおもつてゐた低い木立のある丘をほしがつてゐるさうな。


   8月29日 また土地を見に行く岸田一行に出逢ふ。豊島氏も見える。散歩の延長でこゝまで着たのだと云ふ。岸田氏の話には赤倉に行つたと云ふことであつた。赤倉にも別荘の分譲地がこの頃出来てゐるので、それと比較研究に行つたものらしい。


   9月5日 午後はミ[ュ]ッセの翻訳もの。


当時北軽井沢の山荘に滞在していた野上弥生子の日記である。
偶然のことだとは思うけれど、「森茉莉街道をゆく」の「ちわみさん」は、面白がってくれるかしら。


唐突に豊島の名前を挙げたのは、貴志讃次→貴司山治→たかしやまじ→T.Y.という流れを無理やりに考え、それなら豊島与志雄(とよしまよしお)かも知れないと思ったため。ところで、もう一人T.Y.のフランス文学者が存在するね。


「悪い仲間」の親分、「竜野豊」こと辰野隆(たつのゆたか)。もちろん、辰野が「貴志讃次」であることはありえないのだが、茉莉の離婚前に辰野がミュッセの翻訳を手助けしていことは、茉莉の「青い栗」(『心』昭和36年6月号)に書かれている。

その頃魔利は秋治に頼んで、ミュッセの<<恋を弄ぶ勿れ>>を訳し、それを鷹能(たかの)といふ秋治の先輩に見て貰ふことをしてゐた。


夫の「秋治」(山田のこと)が帝大図書館の仕事でアメリカに渡航した頃(大正15年)の話とされている。結局、茉莉の翻訳は、ミュッセの作品については、離婚前は辰野に、離婚後は吉野作造を通して紹介された岸田から更に紹介された「貴志讃次」に見てもらい、ジイップの作品については前川堅市に見てもらったことになる。


「貴志讃次」の正体は相変わらず不明だが、そもそもなぜ岸田は自分で見てあげなかったのかが疑問である。そして、もうひとつ疑問がある。山田との結婚前に茉莉のフランス語の家庭教師をしていた後藤末雄大正2年東大仏文科卒)こそ真っ先に頼ってしかるべき存在だったはずだが、後藤も「悪い仲間」の一員として避けたのだろうか。

*1:3月24日も参照