石川啄木が佐藤衣川に出合ったのは、明治37年10月に処女詩集刊行の目的で上京していた時の事になる。その佐藤をモデルにした小説*1が、「病院の窓」。執筆は佐藤と釧路新聞社で再会した後の明治41年5月で、生前は未発表である。同作品によると、
野村は或学校で支那語を修めたと云ふ事であつた。其頃も神田のさる私塾で支那語の教師をして居て(略)/(略)野村は其頃頻りに催眠術に熱中して居て、何とか云ふ有名な術者に二ヶ月もついて習つたとさへ云つて居た。竹山も時々其不思議な実験を見せられた。或時は其為に野村に対して一種の恐怖を抱いた事もあつた。/(略)/牛込に移つてから二月許り後の事、恰度師走上旬であつたが、野村は小石川の何とか云ふ町の坂の下の家とかを、月十五円の家賃で借りて、「東京心理療院」と云ふ看板を出した。そして催眠術療法の効能を述立てた印刷物を二千枚とか市中に撒いたさうな。其後二度許り竹山を訪ねて来たが、一度はモウ節季近い凩の吹き荒れて、灰色の雲が低く軒を掠めて飛ぶ不快な日で、野村は「患者が一人も来ない。」と云つて悄気返つて居た。
「野村」が佐藤で、「竹山」が啄木に当たる。明治37〜38年の「有名な術者」とは誰のことだろう。
国木田独歩の催眠術は子供騙しみたいなもの(2月11日参照)だが、佐藤の教えを受けたのか、啄木の催眠術は筋金入りであった。岩手県渋民尋常高等小学校勤務時代の日記によると、
明治40年1月8日 談会々催眠術の事に及ぶや、一人あり、慶三と呼ぶ、またこれ最も予の愛する学童なり、みづから其術を施されむことを望む。睨視三分時許りにして彼は眠りぬ。これ予が初めての催眠術の試験也。
また、明治39年3月24日の日記には「朝から、寝るまで、口をとづる暇もなかった。小児等にはナポレオン、ビスマークの話。大人には現時世界外交局面の話。催眠術の原理。」とあるが、これはどういう場での講演(?)なのか不明。
ちなみに『石川啄木全集』第3巻(筑摩書房、昭和53年10月)の解題によれば、佐藤衣川は本名巌、明治14年3月生、昭和8年10月東京で死んだという。
(参考)啄木と催眠術については、大沢博『石川啄木の秘密』(カッパ・ブックス)に詳しい。
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