戦前大蔵公望や矢次一夫らによって設立された国策研究会については、昨年8月8日に少し言及したところである。『国史大辞典』では、昭和期の有力な政策研究立案グループの一つで、第二次世界大戦後一時新政研究会として活動したが、昭和28年国政研究会として再出発、翌年国策研究会の旧称に復したという。終戦直後の状況については、例えば『矢部貞治日記 銀杏の巻』に出てくる。
昭和20年10月5日 妙な家に矢次、笹川、金森、水谷の連中が集ってゐて、(高橋、神田欠席)、大変な御馳走であった。国策研究会を改組し、「新政研究会」といふものを作るについての相談であった、これは後日に廻し、大いに飲む。笹川良一が切りに僕を代議士に出さうと言ふ。この笹川が自分の家に来て泊れゝゝと言ふが、結局やめて帰宅。
昭和28年6月の「国政研究会趣意書」で設立世話人を見てみると、
有田八郎(翼政総務日政顧問外相)
飯田清三(野村證券社長)
大蔵公望(満鉄顧問理事)
太田亥十二(翼壮神奈川副団長翼賛体制協議会構成員)
海東要造(中部配電取締社長)
郷古潔(内閣顧問翼賛総務)
佐藤尚武
下村宏(国務相情報局総裁興亜同盟顧問)
渋沢敬三(日本銀行総裁)
辰野隆
高木陸郎(翼賛興亜総本部長)
鍋山貞親
三村起一(井華鉱業社長専務取締)
矢次一夫(大日本興亜同盟理事)
湯澤三千男(翼賛翼政常任総務内務大臣)
吉野孝一
昭和28年当時の肩書きよりも、公職追放該当事項を挙げたほうが団体の性格がわかりやすいので括弧内に示した。佐藤は元外務大臣で、戦後参議院議長、吉野は大阪工業会々長。鍋山という転向者は知ってるだすね。
戦前の政財界の大物ばかりで辰野(東大名誉教授)の名前は異質な存在である。辰野は設立後も理事の一人になっている。理事の中には昭和通商の生みの親である岩畔豪雄、岸信介、久富達夫(日本教科図書販売社長。戦前は情報局次長、大政翼賛会宣伝部長)らの名前も見える。辰野がこの団体に関与した経緯は不明だが、2月24日に紹介した放談(国政研究会の機関誌『新政』掲載)にあるように湯澤との親しい関係からか。もっとも、辰野が理事を務めたのは短期間で、昭和28年中には理事を降り*1、維持会員としてとどまっている。
金沢公子さんに限らないけれど、これから辰野の評伝を書こうとする人は、辰野の仏文学者としての側面だけでなく、多角的に掘り下げてほしいものである。
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銭湯は銭湯でも、銭湯「月の湯」での古本まつりではなく、らくたび文庫『京の銭湯 本日あります』。白川温泉も出てきた。
巻頭はグレゴリ青山さんのマンガだすよ。
*1:昭和28年12月の役員一覧に名前がない。