神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

おしゃべりな坪内祐三


坪内祐三の母方の祖父が柳田國男の次兄井上通泰であることはよく知られているところ。
父方の祖母梅子の弟が織田正信という英文学者であることは、坪内本人も書いている*1し、『日本の有名一族』でも紹介された。
この織田と東大英文科時代に友人だったのが中野好夫*2。中野の「大学教授の雑文稼ぎ」*3によると、

学校を出てから二、三年目、職はなく、いわば野良犬同然に尾羽打ち枯らしていた時分、ぼく自身は全く記憶がないのだが、死んだ織田正信君にぼくが本郷の街頭で、ウナギ飯を食って、タクシーに乗れたらなァ、と吐息まじりに思わず洩したらしいのだ。おしゃべりの彼がたちまち言いふらし、一時閉口したことが事実あるが、この金棒引の当否は措くとしても、まさしく実感はその通りだったことに間違いない。


おしゃべりの織田と同じ血が流れている坪内だが、実際おしゃべりかどうかは私は知らない。なんせ、実物を見かけたことすらないからね。


(参考)
『人事興信録』上巻(明治41年6月)で織田正信の父織田一を見ると、明治22年帝国大学法科大学卒で、明治41年当時は農務局長。長男正信は明治34年(1901年)12月生まれ、三女梅は明治31年3月生まれ。正信の生年は文献によって異なり、研究社の『英米文学辞典』も1901年、『日本近代文学大事典』は1903年猫猫先生1903年の方を採用している。どちらが正しいかは確証がない。亡くなった1945年時点で現職の学習院教授だったから、同大学に記録があるかもしれない。

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ず・ぼん』13号は「岡田健蔵の函館図書館」。誰ぞはとっくに買っているのだらう。

*1:2月23日参照

*2:中野は大正15年卒、織田は昭和2年卒。

*3:『新潮』1951年4月号『良識と寛容』所収。引用は『中野好夫集』第2巻による。