神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

スメラ学塾

 堀一郎と偽史運動(その1)

そろそろスメラ学塾ネタや偽史運動ネタをせい、という声が聞こえる(笑)ような気がするので、久しぶりに話題に。 柳田國男と偽史運動の関係については、大塚英志先生が盛んに紹介しているのだが、偽史運動との関わりで言えば、むしろ柳田の三女三千の婿、堀…

小説中の市河彦太郎

芹沢光治良は、市河彦太郎と同郷(現在の沼津市)の出身にして幼馴染であった。そのため芹沢の自伝的小説『人間の運命』には、市河やその弟妹が頻出している。 石田は知らない間に、文化事業部の第三課長に栄転していた。前任者は詩人で、日本ペン倶楽部の世…

福永武彦とスメラ学塾

昭和17年7月から11月にかけて開催されたダ・ヴィンチ展の詳細については、書物奉行氏の教示により、埼玉県立熊谷図書館所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会事務所編『アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会解説』(レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会事務…

市河彦太郎と女流作家

外交官だった市河彦太郎については、小谷野敦『日本の有名一族』で、鶴見祐輔の姉の娘かよ子の夫として言及されているので、今後知名度がアップすることだろう。既に紹介したように、市河はスメラ学塾の講師だったし、藤澤親雄、谷川徹三、大佛次郎らと共に…

 国民精神文化研究所とスメラ学塾・皇戦会の関係

荻野富士夫氏(小樽商科大学教授)が書かれた『思想検事』(岩波新書)は、内容はすっかり忘れてしまったが、有益な書と感じたことだけは覚えている。その荻野氏の『戦前文部省の治安機能−「思想統制」から「教学練成」へ』(校倉書房、2007年7月)を読んだ…

皇戦会理事長中岡彌高の対ソ連工作

皇戦会理事長だった中岡彌高とともに仲小路彰の名前が木戸幸一の日記に出ている。 昭和19年2月28日 三時官舎に至り、中岡彌高中将、仲小路彰氏と面談、戦争の見透と転換策としての独ソ和平の斡旋等の問題に関し意見ありたり。 9月11日 二時半官舎に至る。三…

アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展

「アジア復興レオナルド・ダ・ヴインチ展覧会特輯号」となった『新建築』昭和17年8月号によると、同展覧会の会期は、昭和17年7月10日から10月10日まで。 朝日新聞の縮刷版を見ていたら、幾つかの事実が判明したので報告しておこう。 同年7月12日付け夕刊によ…

戦時下のトンデモ狩り

戦前のオカルトバスター小谷野敦、じゃなかった、トンデモバスター島田春雄。 例によって、小島威彦、藤澤親雄に対して厳しく攻撃している。 『東亜文化圏』昭和18年7月号所収の「文化時評」(志村陸城、島田春雄、藤村又彦、窪田雅章による座談会)によると…

スメラ学塾の機関紙「スメラ文庫」

内務省警保局編『昭和十六年中に於ける社会運動の状況』中の「国家(農本)主義運動」の第二「団体情勢」の三.私塾的団体(四)スメラ学塾には、 本塾は日本的世界原理なるスメラ学体系の普及徹底、日本世界維新の建設的戦士の養成、会員の指導養成を目的と…

市河彦太郎と松下三鷹を結ぶ線

市河彦太郎・谷川徹三は「草の葉会」会員、谷川徹三・高木惣吉は「思想懇談会」会員、高木惣吉・松下三鷹は面識あり。 偶然かもしれないが、市河と松下はつながっているのだね。

藤澤親雄と共に「草の葉会」会員だった市河彦太郎

『わが師わが友』(筑摩書房、1951年)所収の谷川徹三「有島武郎さんとその頃のこと」によると、 有島さんに初めて会つたのは大正六年である。先生が四十歳の年で、私は一高の生徒であつた。(略)八木澤善次と市河彦太郎の二人につれられて麹町のお宅へ行つ…

海軍省調査課長高木惣吉が語るスメラ学塾

「書物蔵」でわしも見てないスメラ学塾に関する先行文献が紹介されている。 そこで、またまたスメラ学塾ネタの紹介。 松下三鷹が登場する高木惣吉の日記には次のような驚くべき記述がある。 昭和14年1月19日 一.参謀本部第四部ニ国防研究室アリ、高島[辰彦]…

戦時調査室委員市河彦太郎(その2)

「お茶引き芸者」の集まりとなった戦時調査室だが、成果があったのかなかったのか、翌年市河らはクビを切られることとなる。 石射の日記*1によると、 昭和19年6月23日 ○次官から室人事の件につき相談あり。森[喬]、市河、宮崎[申郎・公使]の三君は遂に退官の…

戦時調査室委員市河彦太郎

スメラ学塾講師としての市河彦太郎を調べていたのだが、段々市河という人間そのものに興味がわいてきた。 石射猪太郎『外交官の一生』によると、 戦争の結果、多くの外交官が任地を知って待命となった。それらの人々を集めて、戦時調査室なるものを設置する…

悪の情報官鈴木庫三伝説の誕生

野上弥生子も情報官鈴木庫三や情報局次長奥村喜和男が怖かったようだ。日記*1によると、 昭和16年5月26日 公論はだいぶもんだいの雑誌らしい。書くのが少々いやになつた。中河与一夫妻のことや、情報部[ママ]の鈴木少佐のおそろしい話をきく。 18年4月24日 …

山田吉彦(きだみのる)とスメラ学塾

小島威彦は、山田吉彦(きだみのる)とのパリでの初対面について、『百年目にあけた玉手箱』第3巻で次のように回想している。 薩摩会館で先ず山田吉彦を訪ねた。ドアをノックすると「アントレ」と返事があったので開けて驚いた。大きな中年男が、一糸も纏わ…

世界創造社と弘文堂の統合

福島鑄郎『戦後雑誌発掘』(日本エディタースクール出版部、昭和47年8月)中の「企業整備後の主要新事業体および吸収統合事業体一覧(昭和十九年三月二十一日現在)」に、 (株)弘文堂書房 八坂浅太郎 (統合参加社)弘文堂書房 軍事教育社 大成社 進光社 …

戦時下のトンデモ・ダ・ヴィンチ展

昨年の5月20日に紹介した戦時下のダ・ヴィンチ展。 高松宮は感想を記録してくれなかったが、天羽英二が日記に書いてくれていた。 昭和17年7月11日 午後2時乃至4時 和子ト共ニ上野産業館「レオナルドダヴインチ」展覧会 日本世界復興会 情報局 陸海軍主…

謎のスメラ教育研究会

『発禁年表』を見ていたら、スメラ教育研究会編『青年科学』(スメラ教育研究会、昭和15年11月16日発行)なる本が、同年11月20日に「蘭印問題並に支那事変処理に政府及び軍部の方策を攻撃 10、13頁削除)として発禁になっている。 このスメラ教育研究会は、…

古川ロッパと麻雀をする市河彦太郎

晶文社から復刊された古川ロッパ昭和日記。なぜか市河彦太郎が登場。 昭和18年10月30日 今日は麻雀連中が十時から来る。市河彦太郎と本田一平・橘弘一郎。此の世の中に、此の時世に、充実した感じ、たんのうする感じは、これより他に求められまい。最初から…

スメラ学塾再び

書物奉行氏がスメラ学塾の総括を試みてくれたので、久しぶりにスメラ学塾ネタ。 同塾関係者の唯一の生存者と思われる坂倉ユリの発言が、上坂冬子『愛と反逆の娘たち』(中公文庫、昭和58年3月)に記載されている。 「昭和二十三年五月、岐阜の主人の実家で生…

市河彦太郎夫人、市河かよ子

市河彦太郎は、外務省文化事業部第二課長だった時に小島威彦が主宰する第一期スメラ学塾講座(昭和15年6月17日〜7月16日)に講師と参加している。翌年彼はイラン公使として赴任するが、現地でスメラ学を究めたかは不明である。赴任する前の市河夫妻が野上彌…

その時歴史が動いた−岩波文庫の誕生−

今年は、岩波文庫が創刊されて八十周年の年。 何と、岩波文庫の誕生にあのトンデモない人が関与していたかもしれないことが判明した。 翌日、僕は卒論執筆中の二、三の質問をもって、三木の下宿*1を訪ねた。(略)「小島君、日本でレクラム版を出そうじゃな…

ここにも市河彦太郎の影が・・・

下嶋哲郎『謎の森に棲む古賀政男』(講談社、1998年7月)にも市河彦太郎の名前が。 古賀政男の昭和13年11月の日米親善音楽使節について、 古賀によれば、外務省の市河(彦太郎/文化事業部第三課長)が古賀に、 <フィンランド公使時代、レストランへゆくとか…

大東亜ト学としての市河彦太郎

昭和16年イラン公使となる前の市河彦太郎はスメラ学塾の講師として活躍している。昭和17年のイランからの帰国後は、文化学院の西村伊作の釈放に奔走したり、また、「書物蔵」によれば、読書運動にも多少関係していたようだが、国際文化振興会の総裁高松宮の…

スメラ学塾誕生の秘密

小島威彦らによって創設されたスメラ学塾。まだまだ、謎が多いようだ。 『戦前における右翼団体の状況 中巻』(公安調査庁、1964年)に、同塾について 本塾は「日本を心とするスメラ世界を建設するため、忠誠な指導的戦士を養成すべきである」として、昭和十…

“永遠の処女”原節子は汚れていたか?(その2)

原節子とスメラ学塾について、もう一つ文献があった。 本地陽彦『原節子「永遠の処女」伝説』(愛育社、2006年6月)によると、 熊谷久虎は『指導物語』以降、映画を離れ、この年[昭和17年]の夏頃までには国粋主義思想団体である「スメラ学塾」を作り、教祖に…

 ナチス叢書の書誌はありやなしや

アルスのナチス叢書について、中井英夫*1が次のように述べている。 ナチスといえば、そのむかし日本でも、昭和十五年から十六年にかけて『ナチス叢書』というシリーズものがアルスから出た。責任編集は駐独大使で陸軍中将の大島浩閣下、執筆者には白鳥敏夫と…

戦前の雑誌「戦争文化」って、どこかに落ちていないか

小島威彦の自伝『百年目にあけた玉手箱』は、登場人物が多すぎる上に、索引がないので、とても人名を覚えきれないのだが、第4巻の次の一節にも見落としていた人名があった。これは、仲小路彰が世界創造社から「改造」や「中央公論」に対抗して、「戦争文化…

小林一三日記にスメラ学塾の戦後を見る

岩野泡鳴の日記明治45年5月25日の条に「箕面電鉄の小林氏」として出てくる小林一三。 その小林の日記*1には、スメラ学塾関係者が登場する。 昭和24年5月19日 十二時「クラブ関西」にゆく。食後会員諸君の為めに一席講演。此クラブは敗戦後、俄かに会社の第一…