神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

福永武彦とスメラ学塾


昭和17年7月から11月にかけて開催されたダ・ヴィンチ展の詳細については、書物奉行氏の教示により、埼玉県立熊谷図書館所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会事務所編『アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会解説』(レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会事務所,1942)を見ればよいらしい。同書は未見だけど、福永武彦が同展覧会に関与していたことが判明した。


堀田善衛「この十年(続)」(『誰も不思議に思わない』筑摩書房、1989年1月、『堀田善衛全集』第13巻)によると、

福永武彦(六一歳)
(略)
戦時中、はじめ彼は日伊友好協会というところにつとめていて、その後に参謀本部へ移ったものであった。そうして私は国際文化振興会なるところから、海軍軍令部の臨時欧州戦争軍事情報調査部という長い名前のところへ移った。
その日伊友好協会なるところで、彼は“興亜レオナルド・ダ・ヴィンチ展”なるものの開催に努力していた。
ダ・ヴィンチと“興亜”と、何の関係があるのかね?」
と私が問うたとき、彼は実に珍妙な笑いを浮べたことが、いまに忘れられない。


年譜によると、福永は昭和16年3月東大仏文科卒、同年5月社団法人日伊協会に勤務。17年5月日伊協会を退職。召集を逃れるため、参謀本部第十八班で暗号解読に従事したとされている。


この展覧会は日本世界文化復興会が主催し、情報局、陸海軍省が後援した。スメラ学塾を主宰した小島威彦や、同展の展示の設計を行った坂倉準三は、同会の常任理事であった(昨年5月20日参照)。小島も坂倉もフランス帰りだったから、福永とは話が合ったと思われる。


福永が日伊協会を退職した昭和17年5月は、小島の自伝によれば、小島が検挙され、展覧会に関与できなくなった時期である。また、斎藤茂吉の日記によれば、茂吉がダ・ヴィンチを見に行ったが、だめだったと書いている時期に当たる(6月19日参照)。この5月には、何があったのか色々想像力をかきたてられる。


福永が開催に努力したというダ・ヴィンチ展だが、中野重治も観覧している。
中野の『敗戦前日記』によると、

昭和17年10月3日 レオナルドオ・ダ・ヴィンチ展をみる。言語道断也。


中野が「言語道断也」と怒ったということは、やはりトンデモない展覧会であったのだろう。

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先月29日の読売新聞に鹿児島県立図書館の「追放図書」の保存について書かれていた。GHQが回収を命じた本に加え、館独自の判断でしまい込んだ本も含むという。「追放図書」は本来の用語でないせいか、「鹿児島県立図書館」・「追放図書」でググっても、この記事がらみのものしかヒットしないね。


雑誌記事索引によると、石田忠彦「鹿児島県立図書館所蔵「追放図書」について」『国語国文薩摩路』41号、鹿児島大学法文学部国語国文学研究室、1997年3月というのがあった。


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国際交流基金の機関誌『をちこち』19号は「マンガからMANGAへ」特集。