神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

山田吉彦(きだみのる)とスメラ学塾


小島威彦は、山田吉彦きだみのる)とのパリでの初対面について、『百年目にあけた玉手箱』第3巻で次のように回想している。

薩摩会館で先ず山田吉彦を訪ねた。ドアをノックすると「アントレ」と返事があったので開けて驚いた。大きな中年男が、一糸も纏わず素裸かで現われた。僕は人里離れた海なら独りぼっちで素裸かになって泳いでいるが、来客の前に一物をぶらさげて出てくるとは。無礼な奴と思う前に、ただ呆気に取られて、腹の立つ暇もなかった。それが後に、岩波文庫で二十数冊におよぶファーブルの名著『昆虫記』のその訳者だった。


パリ留学中に小島と出会った人達の多くが、帰国後小島の率いるスメラ学塾に巻き込まれているが、岡本太郎きだみのるの二人は関係しなかったようだ。さすがにこの二人ではスメラ学も太刀打ちできなかったか。


もっとも、きだみのるは帰国後、一度だけ小島と接触したようだ。前掲書第4巻によると、

山田吉彦もパリから引揚げてきて戦争文化研究所を訪ねてきた。豊富な民族学並びに民俗学の知識としては聴くべきものをもっていたが、その無政府主義的多彩以上興味を惹かれることはなかった。


という。


きだが小島について触れた著作は見当たらない。しかし、きだの『パリ・東京・モロッコ』(要書房、昭和27年6月)所収の林達夫宛書簡で「ギリシヤ旅行は同行の島田三郎、モロツコ旅行*1の不足は深尾重光の経費だつた」と書いている「深尾重光」は、小島の義兄(妻淑子の兄)で小島のヨーロッパ・アフリカ旅行の同行者である。なお、深尾重光・淑子の父隆太郎は、南洋拓殖社長だったことを理由に戦後公職追放


追記:いつのまにか、未知谷から太田越知明『きだみのる―自由になるためのメソッド』なる本が刊行されてるね。

*1:きだは、帰国前の昭和14年にモロッコを旅行した。