岩野泡鳴の日記明治45年5月25日の条に「箕面電鉄の小林氏」として出てくる小林一三。
その小林の日記*1には、スメラ学塾関係者が登場する。
昭和24年5月19日 十二時「クラブ関西」にゆく。食後会員諸君の為めに一席講演。此クラブは敗戦後、俄かに会社の第一線に押出された社長連がお互に顔を知らないのは兎角不便だと言ふところから、堀朋近君*2が自邸の焼跡を提供して新築したといふのであるが安普請に拘らず中々巧みな設計で、半分は各会社の事務所に賃貸し一部分をクラブに使用してゐるとの事、洋食も中々おいしい。
昭和24年9月19日 坂倉準三といふ仏国に勉強した青年建築技師が遊びに来た。いろいろ今日迄の設計印刷物を見て、新しいセンスの素晴らしいのに驚いた。
昭和27年2月18日 午前原節子さんの兄さんと神津君来訪、映画「福澤先生」にて打合す。
小島の自伝『百年目にあけた玉手箱』の第2、5巻には、小林一三の名前が登場するが、小林の日記には小島の名前は登場しない。小島の創設したクラブ関西が顔を出すだけである。
堀朋近の名前は、小島の自伝にクラブ関西設立の協力者として登場するが、スメラ学塾との関係は不明。
建築家坂倉準三については、4月26日に紹介した妻ユリの父西村伊作の証言がある。その他、皇戦会の関係者である町田敬二*3の回想*4にも登場する。
坂倉準三さんは世界の巨匠コルビジエーの高弟、日本でも有数な建築家である。その坂倉さんが、世界哲学家協会の小島威彦さんと一緒に私を訪ねて廃墟のような福岡に来た。このご両人はともに「スメラ学塾」の幹部級であるが、その来福の目的は戦禍のはなはだしい福岡の復興のために、坂倉氏考案のパネル建材を役立てようとすることにあった。これはまことに時宜に適した考案である。私はさっそくこの構想を火野葦平君らに伝えて、その賛成をえたが、原木からパネルを製品化するまでに要する日数、原材料の量産化は、とうていその需要を満たすことができなかった。
坂倉とスメラ学塾については、まだよくわからない事が多い。井上章一氏あたりが追求してくれないかしら。
追記:小島の書第4巻によると、
パリ陥落と同時にコルヴィジュエ建築事務所の室内設計部長ぺリアン女史が、坂倉準三を頼って日本へ亡命してきた。彼女は坂倉と共にその建築事務所で全世界にわたって仕事をしてきた仲間だ。彼女の日本への土産は、フランス陸軍の設営用に設計された組立建築の構造図一式だった。坂倉はその活用の準備と同時にペリアンの室内デザイン力を日本インテリア日仏交流展として、高島屋常務川勝堅一の下で、全国高島屋を通じて開催した。
*日本中からリュックをしょったおっさんが集結しつつある気配。
今日は、百万遍に近寄らんとこ。