神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

藤澤親雄と共に「草の葉会」会員だった市河彦太郎


『わが師わが友』(筑摩書房、1951年)所収の谷川徹三有島武郎さんとその頃のこと」によると、

有島さんに初めて会つたのは大正六年である。先生が四十歳の年で、私は一高の生徒であつた。(略)八木澤善次と市河彦太郎の二人につれられて麹町のお宅へ行つた。八木澤や市河は少し前から、高等学校や大学の仲間数人で、一週一回ホイットマンの『草の葉』を先生に読んでもらつてゐたので、その仲間に私もはひつたのである。
この会は後には「草の葉会」と呼ばれるやうになつて、相当長い間続いた。(略)
時には活発な議論の出ることもあつた。澤田謙とか、蝋山政道とか、常連ではなかつたが時々やつて来た蘆野弘とか藤澤親雄などといふ論客がゐたからである。この人達はもう大学であつた。藤澤氏には私は一、二度しか会はなかつたが、その時はもう大学を出てゐたかも知れない。(略)
市河がイランへ行く前、幼な友達の芹澤光治良君に老母堂が、昔のお友達にお会ひすると、みなさんすつかり立派になつておいでになるのに、うちの彦太郎だけは、いつまでたつても高等学校時分と同じことを言つてゐますが、あれで大丈夫でせうか、と言はれたといふ話をきいたが、かれは、母親の眼からは、その子がどんなに大きくなつても子供に見えるといふだけではないやうである。そこがしかし市河のいいところで、文化事業部の課長としては名課長と言はれたものである。


市河コーシは、芹澤光治良の幼友達にして、藤澤親雄と同じ「草の葉会」の会員だったのだ。小島威彦よりも前に藤澤と知り合っていたのだね。


参照5月2日